リレー小説 〜Infinity〜


間章 T


 はあっ、はあっ。

 コンクリートの高層建築が建ち並ぶオフィス街の一画。
 中天より見下ろす月は、その蒼白い幻想的な光を地表に投げかけている。
 刻は午後8時を僅かに回った頃であろうか。
 その日は平日であったので、普段であれば気だるい残業を終え家路に着く会社員達が少なからずその姿をちらつかせているはずであった。
 だが、周囲に人の気配はない。

 場所は商社窓口が犇めき合う表通り。
 そこを懸命に、何かに追われる様に、髪を振り乱し走り続ける女性がいた。
 その服装から察するに、おそらくはこの近辺の企業に勤めているのだろう。
 顔に張り付く表情は、尋常とは思えぬほどの形相だ。
 どこかで脱ぎ捨てたのか、はたまた履き忘れたのであろうか?
 彼女は靴を履く事なく、薄い靴下を路面との摩擦で破りながら走り続けている。

 はあっ、はあっ……

 激しい動悸に息を荒立てて、しかしながら止まる事は許されない。
 そんな切迫した雰囲気が彼女からは感じ取れた。
 そう、彼女は明らかに『なにか』から逃げ回っているのだ。

 ぐるぅ…があぁっ。

 その時、背後に獰猛な獣のそれに似た唸り声が響き渡る。
 女は脂汗に塗れたその顔を背後に向ける。
 だが、そこにはなにもいない。
 彼女を追っているであろう『なにか』も、一人二人は必ずいるであろう通行人ですらも。
 おかしい。
 何かがおかしかった。
 何故、自分がこんな目に遭うのかすら解らずに、ただひたすらに『なにか』から逃げ惑う。
「な、なんなのよ。いったい……!?」
 そう、力なく呟いた瞬間、彼女の左胸から脇腹にかけて鋭い激痛が走る。
 否、激痛などという生易しいものではない。
 突然の部位欠損。
 目に見える事のない『なにか』によって、噛み千切られたのだ。
 自分の身になにが起きたのかさえ解らぬまま、彼女はただ唖然としている。
 その瞳に映るのは、真っ赤な鮮血を滝のように迸らせ、恐ろしくグロテスクな臓物や器官の一部を周囲にぶちまけている無残な光景である。
 それが自分のものであると気付くよりも早く、その視界は暗闇に閉ざされた。
 生温かく、そして生臭い。

(ああ、もしかして犬かしら……)

 遠退く意識の中、ふいにこんな考えが彼女の脳裏を巡る。
 彼女は他者を捕食する狩猟者に、獰猛なる肉食動物に『狩られた』のだ。


 時刻は8時半を回ったオフィス街の一画。
 警察車両の回転灯の光が、そこかしらに投げかけられている。
 辺りには十数人の警察官をはじめ、多数の野次馬や報道関係の姿で殺到していた。
 現場の状況、警官の動向から察するに、殺人事件かそれに類するものである事には間違いない。
 『KEEP OUT』と刻印された黄色い帯によって区切られた結界の内側では、鑑識員による遺体検分が行われているのだろうか。

「しかし、そいつが本当なら随分と厄介な話じゃないか?」
 ロングコートを羽織る男は、煙草の紫煙を燻らすとそう呟いた。
 周りの警官達の、彼を見る目は明らかに非友好的だ。
「だがな、淵谷。鑑識の検分を信じるのなら、確かにそういう事になるぞ」
 闇灰色の背広を着た初老の刑事が、傍らのコートの男にそう返答する。
「別に鑑識やオヤジさんを疑う訳じゃないけどな……。仏さんに外傷は無し。その死因が内蔵の欠落だなんて、そうそう信じられる話じゃないぜ?」
 やれやれだ、と言わんばかりに男は肩を竦める。
「馬鹿野郎、こんな不可解な出来事は俺だって信じたくはないさ」
 初老の刑事が、ふうと溜息を吐く。
「だからこそ、お前が呼ばれたんだろうが? 厄介事請負屋の淵谷 源十郎がよ」
 その台詞に、淵谷と呼ばれた男が苦笑いを浮かべる。
 そして、無造作に煙草を投げ捨てると、頭を軽く掻いた。
「へへ、そうだったな……。まあ、ちっとばかし荒らすかも知れないが、やれる限りやらせて貰うぜ」
 そう言い残すと、鑑識員の調書をひったくり現場を後にする。
 去りゆく淵谷の背を見送る初老の刑事に、若手の刑事が抗議めいた口調で語りかける。
「部外者に勝手にさせてもいいんですか? 第一、ヤツは何者なんですか?」
 若い後輩の台詞に、フッと口の端を吊り上げる。
「ヤツはかつて、警視庁捜査一課で右に出る者無しとまで言われた男さ……」
 そう呟く初老の刑事の目はどことなく悲しげに見えた。
 だが、次の瞬間には、泣く子も恐れる”現場の鬼”の顔に戻っていた。
「さあ、ぼやぼやするなよ。こうしている間にも、ホシは次の事件を起こすかも知れないんだ」

 


 

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