リレー小説 〜Infinity〜


月夜の猟犬/黒社会の飛竜


 薄っぺらな月が、高い高い秋の夜空に浮かんでいる。
 天に向い際限無く伸びるビルの谷間を、頼りなく淡く照らしている。
 そのビルとビルの合間、光の届かぬ空間は闇が満たしていた。
 薄っぺらな闇が、空間を柔らかく満たしていた。

 鉄錆の臭いが辺りを包んでいる。
 人通りがない。
 歩道から車道へ目をやれば、車のヘッドライトさえ見られない。人の気配、その残滓さえ希薄だ。
 真夜中のオフィス街──
 夜ともなれば廃墟のように静まると言う。だが、それにしてもこれほどともなれば不自然だ。裏通りでもないのに人ひとり、車一台すらないと言うのは度が過ぎる。
 まして何より──
 この鼻をつく鉄錆の臭い。むせかえるほどのこの量と濃度が雄弁に異常を告げていた。
 しん。
 耳が痛いほどの無音。
 そこまで気がついてしまえば、ぴぃんと張り詰めた空気にも気づく。
 そこへ不意に。
 かつ──
 ぴちゃ──
 堅い靴音と、ねっとりと何かが滴る音。
 ゆっくりとビルの間、薄っぺらな闇の中から二つの音が近づいてくる。
「──終わったよ」
 平坦な調子の男の声。声と共に、闇の中から人影が現われた。
 年の頃は30代の一歩手前だろう。
 背は高からず低からず、ウェルター級のボクサーを連想させる体型だ。痩せた全身をしなやかな筋肉が包んでいる。
 身につけたシャツが赤い──真っ赤だ。濡れたようにべったりと肌に張り付いて、てらてらと弱々しい月灯りを照り返している。
 シャツだけではない。
 全身が、まるで赤ペンキでも浴びたように赤い。特に口の周りと指先がひどかった。
 ぴちゃっ。
 指先から赤い雫が滴っている。
 その男の視線の先──
 そこに、不意に現われたように少女が立っていた。
 年の頃は10代後半。月灯りに浮かぶシルエットはしなやかに鋭い。
 目を凝らせば人形のように整った顔も鋭い事が分かる。ただ、おさげにまとめた赤く長い髪だけが幼さを残していた。
「わたしも、いま終わった」
 少女の声。それさえ鋭く澄んで──さらに言えば無表情だ。
「そりゃぁちょうど良い。悪いけど黒服の連中に連絡してくんない?」
 平坦な声に親しさをこめて男が言った。
 肩をすくめてみせる。
 ぴちゃっ。
 また、赤い雫が滴った。
「ま、見ての通りの有様だから──あ、ついでに着替えと身体を洗うものも良いかな?」
「わかった」
 やはり無表情に頷いて、少女はポケットから携帯電話を取り出す。
 ディスプレイに視線を落としつつ、細い指先でボタンを押して番号を検索する。
「でも毎回の事だから──」
 無表情に呟いてコール。
「心配無いかな?」
「──」
 携帯を耳にあてたまま、頷く。
 呼び出し音が数回、鳴った。
「こちら“ほむらめ”──えぇ、そうです。“ほむらめ”,“ひといぬ”ともに無事、“えびすのいぬかみ”を祓いました」
 淡々と報告を進める。
「──はい。えぇ、清めが必要です。それから──“ひといぬ”が全身に汗を浴びています。濡れタオルをたっぷりと着替えを──え?」
 言葉が途切れる。少女の眉が、ほんのわずか眉間に寄った。
 しばらく黙って相手の声に耳を傾ける。
「わかりました。そのように伝えます──」
 頷いて電話を切った。
 携帯電話をポケットへ滑り込ませ、男に向き直る。
「どうした女子高生?」
 怪訝そうな顔で男が言う。
「回収班からの伝言。“濡れタオルくらいでは汗は落ちない。近くの花屋に水道があるから、たっぷり浴びておけ”──って」
「あっそ。ところで──」
 少女の言葉に男は頷き、顔を上げて少女の顔を見なおす。
 そのまま一呼吸。
「それって本気?」
 眠そうな眼、とぼけた口調で問いなおした。

 男の名は犬塚 白軌(イヌヅカ シロキ)。
 職業は刑事──但し、時に肩書きが変わる。
 雇い主に言わせれば“トラブルシューター”。運悪く関わりを持った一般人に言わせれば“対魔士”、あるいは“拝み屋”──いずれにせよこの上なく胡散臭い異能の人。
 そして本人の弁によれば──
「異常体質を活かした儲からない副業──ま、いわゆる正義の味方」
 そう言う事になる。
 雇い主は神社本庁であり、所属は公式には存在しない“御祓課”。しかしてその実体は、宮内庁は式部職の下請け──要するにお国の為の妖怪退治組織である。
 高野山と比叡山の仏教系,防衛庁や警視庁などの組織にも同様の組織がある。宮内庁内部にも陰陽寮と呼ばれる非公式部署が組織されているらしい。
 それどころか、実は国内のキリスト教系宗教法人を通じて法皇庁にまでコネクションを結んでいると言う噂まで聞いた。
 ともかくも──
 白軌は本業の合間に御祓課の仕事にいそしんでいる。年下の凄腕トラブルシューターを相棒に妖怪退治を続けている。
 そんな日々が日常になっている。

 少女の名は羽鳥 朱音(ハトリ アカネ)。
 白軌の相棒だ。
 若干17歳の凄腕トラブルシューターであり、現役の女子高生でもある。
 仕事を始めた理由は極々簡単だった。
「他に選択肢が無かったから──と言うより選択する事すら思い付かなかった」
 そういう事だ。
 その異能を見込まれ、物心つく頃に神社本庁へ買われた彼女にとって、こうなる事は予め決められた事だった。誰よりも自分がそう考えていた。
 だから現状に違和感も不満もない。むしろ、朱音から当然のように不満を読み取ろうとする回りの大人達にこそ違和感を感じる。
 その意味で、白軌は楽な相棒だ。
 何しろタフだ。腕も立つ。任務中、まったく命の心配をしなくて良い。
 そんなトラブルシューターは他にいない。
 それに、いつも丁度よい距離に立っている。ごく自然にそうなる。
 お互い他人に無関心なわけでなく、かといって踏み込んでいくわけでもない。まして勝手な思い込みで相手にフィルタを掛けたりもしない。
 それが、楽だ。
 任務に集中できる。迷いもなく目の前の妖異を始末できる。
 だから今日も、朱音は特に不満も違和感もなく淡々と御祓課の仕事を処理する日々を過ごしていた。

 現職の刑事と女子高生──
 スポーツ新聞の見出しなら間違い無くいかがわしい扱いになるだろう二人は、実はそんな不思議な妖怪退治屋だ。

 ざぶざぶと水音が、夜のオフィス街に響く。
 辺りには、薄っすらと鉄錆びの臭いが漂っている。
「10月の始め──昼間でも水浴びには躊躇うよなぁ」
 呟く言葉とは裏腹に、白軌が頭から水道の水を浴びていた。
 ボクサーを連想させるしなやかな筋肉の上を、水滴が滑り落ちていく。肩口から立ち上る水蒸気が街頭に照らされて白く揺れている。
「──だいたいさぁ」
 不満げな顔で、バケツに水を溜めていく。
「穢れを怖がりすぎなんだよ。血を汗って言い換えたり、始末したって言やぁ良い物を祓うとか言ったり──ねぇ?」
 ばしゃっ。
 頭から水を浴びる。その冷たさが、全身を粟立てる。
「私に言わないで欲しい。それが神道のしきたりなんだもの」
「伝統とかしきたりに文句を言っても始まらない?」
 またバケツに水を溜め、その水面に視線を落としたまま白軌が言う。
 朱音もまた、バケツの中で揺れる水面に視線を落とす。そのまま、軽く頷いてから口を開いた。
「白軌の口癖だったと思う。実害が無いなら長いものに巻かれておけって」
「あー、そ。でもな──」
 相槌を打ちながら、白軌は水の溜まりきったバケツを持ち上げる。
 目の高さにバケツを上げてひと息──と言うより溜め息。
 ばしゃっ。
 頭から水をかぶる。
「秋も深まる今日この頃、真夜中に水浴びってのは実害だとは思わんか?」
「思わない」
 なおも同意を求める白軌を、朱音は突き放す。
「だって、白軌はそのくらいで風邪を引いたりしない」
 きっぱりと言いきった朱音を、白軌は眠そうな目でじっと見た。
 そのまま数秒。
 根負けしたように口を開く。
「寒いのは厭だなぁとか思ったりするでしょーが」
「そんなのは──」
 白軌の呆れた声に、朱音は言い返しかけて言葉を止めた。
「来た」
 ぽつり、呟いて視線を車道へ向ける。そこに大型のワゴンが止まっている。ぴかぴかに磨かれた白いカラーリングと、ウィンドウの濃いスモークが似合っていない。
 これで愛国だの皇国だのと書き込めば、右翼の宣伝カーにでもなりそうな怪しさだ。
「やっとか──」
 うらめしそうに眠たい目で呟き、白軌は少し乱暴にバケツを置いた。

 薄っぺらな月が、高い秋の夜空に浮かんでいる。

 淡く薄い月灯りが街を照らしている。
 ビルの群れが淡く蒼く浮かび上がっている。
 高層ビルの30階、その一角を切り取ったオフィス──
 6人分の机とノートパソコン。さらにプリンタ兼コピーの複合機とサーバPC。共用の書類キャビネット。パーティションで仕切った打合せ兼接客用スペース。それだけの物が整然と並んでいる。
 あまつさえテレビ,仮眠用のベッドを2台置いて、まだなお余裕がたっぷり残っている。
 理想的な──そして異常なオフィス。
 不況が長く続き、大企業でも残業カットの珍しくないご時勢である。これほど潤沢に予算を割り当てられるセクションなど──まともな企業にはありはしない。
 だから、そのオフィスは理想的で異常だ。
 そこに、男が独り残ってる。
 窓際に立って街を見下ろしている。
 窓に映る顔に、悪戯を楽しむような笑み。
 あるいは──
 それが、この男の地顔なのかもしれない。
 他の表情が思い付かない。男の表情は、それほど自然に笑みの形をとっている。
 ゆったりと静かにジャズピアノの軽やかな音が流れていた。
 そこへ不意に──
 背後から扉が開く音が混じる。
「──遅いなぁ。待ちくたびれちゃったよ?」
 朗らかな声で背後に言葉を投げる。振り向きはしない。
「I'm sorry, boss. ──計画の補正に手間取りました」
 ブロンドの女が書類ケースを片手に肩をすくめた。不自由のない流暢な日本語だが、明らかに日本人ではない。
 欧州系の白人だろう。
 整った顔をしているが、切れるような鋭い表情に笑み一つ浮かべるでもない。どこか人を拒絶するような冷たい雰囲気を纏っている。
 背が高く、姿勢が芯が通ったように真っ直ぐだ。
 やや背が低い男と並べば、それがいっそう際立つ。
 男が振り返った。
 少し顎を傾げ、女を見上げる。
「──補正? 何かあったのかな」
「Yes boss. ペナンガランのヤカー使いが魔剱を奪取されました」
 男の問いに女がファイルを開く。
 どうやら二人は、秘書とその上司のような関係らしい。
「それくらいは問題ないだろうに。アリス、君ならそのくらい予想済みだったろ?」
 悪戯っぽく男が言う。
 女──アリスは、ファイルを開いたまま頷いた。
「仰る通りですが、他にも幾つか案件があります」
「なるほど?」
「まず、ヘテロクロミアの指揮者が活動を開始しています。それから弦月の教師──おそらくは笛吹き男らしい術者の介入も確認できました。両者とも姫巫女らしき転生者とコンタクトしたようです」
「──なるほど」
「概ね予測の範囲内ですが、スケジュールを若干修正する必要がありました」
 そこでアリスは言葉を止めた。
 そのまま男の次の言葉を待つ。
「なるほど」
 男が愉快そうに笑みを深めた。
「面白くなってきたじゃないか。どのみち魔剱を何本集めたって姫巫女を確保しなきゃ意味がないんだ。魔剱一本と引き換えに姫巫女の所在が掴めるなら安い安い」
 嬉しそうに弾んだ声で言う。まるで、ずっと欲しいオモチャを買ってもらった子供のようだ。
 そんな男を、アリスはやはり変らぬ表情のまま見つめている。
「アリス、姫巫女のマーク用にチームを編成してくれる? S級の術者を1名以上、それからイリーガルのエージェントを数名──残りは、まぁ適当で良いから」
 上機嫌に男が指示を下す。
 しかしアリスは首を横に振った。
「Boss. それは必要ありません」
 言いながらファイルから紙を1枚取り出す。
「既にこのメンバーでチームを編成済み、活動も開始しています」
「さすが手際が良いねぇ──」
 男はアリスからリストを受け取って視線を落とす。
「OK。文句無しだ。有能な部下を持つと仕事がなくなるねぇ」
「No, Boss. 実はもう一つ報告があります」
「あやや──」
 タイミング良く否定したアリスに、男が肩を落とす。
「弦月の教師から購入した人狼が消息不明になりました。前後の状況および各組織の動きから神社本庁のエージェントによるものと思われますが──」
「へぇ、あれを殺(ヤ)れるエージェントが居たんだねぇ」
 男は感心したように目じりを細めた。
「ま、良いさ。買いなおしといてよ」
「──宜しいのですか? 数千万単位の買い物になりますが」
「構わないよ? なんならニ体でも良い。飛竜電網公司は、そのくらいポンと出す。それが出来る様に育てたんだから。あ、でも見積もりはちゃんと取っといてね」
「用意してあります。伝票類、および帳簿の操作も準備できていますので──あとはBossの決済を頂くだけです」
 言いながら、アリスは書類をファイルから取り出した。
 男はそれを受け取り──
「前後撤回。有能な部下を持つと仕事が増えていけないよ」
 ぼやくように苦笑い。
 そして、肩をすくめてみせた。

 


 

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