〜Proving Grounds of the Mad Overlord〜
「ククク…己が盾となり仲間を逃すとは」
白面の黒き”魔人”が嘲笑の声を上げる。
「麗しき信頼というべきか。いや、それとも最小の犠牲に留める戦略かな?」
奮戦しているとはいえ、ユダヤの動きは明らかに精彩を欠いている。
それを見抜けぬ”魔人”ではない。
ましてや、多対一ならばともかく、手負いの相手と一対一となれば負ける道理がない。
油断こそはしないまでも、己の勝ちは揺るぎようのない真実。
そう思えばこそ、”魔人”は攻撃の手を一時的に緩めていた。
「だが、汝がここで果てる事に違いはない」
「聞こえないな……三流暗殺者風情が」
そう言い、左手で喉を掻き切る仕草をとる。
そのユダヤの表情に焦りや緊張は見えない。
こうしている間にも、体内の毒素は全身に広がりつつあるというのに。
「粋がるな。汝の咎は、小生が祓ってやろう」
一瞥し、
「この程度、貴様相手にはちょうどいいハンデだろうよ」
”魔人”の物静かな威圧。
赤髪の剣士の不敵な挑発。
この間、両者とも微動だにしない。表情すら変えない。
それ故に、実におかしな会話が成立していた。
だが、それはあくまでも目に見える次元での出来事に過ぎず、この空間を支配する「氣」の流れは、まるで永久氷壁が如きに凍てつき張り詰めていた。
静かなる、一触即発。
そんな奇妙な領域が、地下9層の一角に具現化していた。
第21話 『死線─サトリ』
完全に時間の流れが停止した世界。
微かな音すらなく、暗転した闇の中に互いの姿のみが浮かび上がる。
達人同士の戦いは、得てしてこういうものであった。
その時、この沈黙を破るかのように、シュート・トラップによって大きく口を開いた床が、再びもとの閉じた状態に戻り始めた。
仕掛けを巻き上げるくぐもった機械音のみが辺りに響き渡る。
しかし、歯車が鎖を巻き上げようと、その場の氣の流れに変化はない。
それはまるで、未来永劫このままの状態が続くかに思えた……その矢先。
仕掛けが完全に元の状態へと戻り、床穴が音を立てて閉じ合わさった刹那、不意にその均衡は崩れ去った。
”魔人”が仕掛けた。
右の手首を複雑に繰ると、ユダヤを挟み込むかのように光の軌跡が走る。
それと同時に、左手の中に生じた星型の薄刃が投じられた。
二段攻撃だ。
「…くっ」
前へと踏み出し、飛来する手裏剣を左の手甲で受けると、腰を落とし左右からの必殺の挟撃に備える。
左右に伸びた鋼斬糸が凄まじい風切り音をあげてその牙を剥く。
その二本は異なる高低差を持ち、恐るべき速度でユダヤを襲った。
ユダヤには持って生まれた特殊な能力があった。
いや、それは才能とでも呼んだ方が相応しいのか。
それは、日常の中において”線”が見えるという事である。
他人には見えない、彼にだけ見ることの出来る”線”。
その線に交わる事で自らに災厄が降りかかり、時には死をも招くという”死線”。
東方において、氣を極限にまで練り上げる「錬氣」という極意が存在するという。
その中でも、最上級の神業と呼ばれるものこそ、サトリ……すなわち、この”死線”なのである。
分かり易く言えば、戦いに於いてこの”死線”を避け続ける事で、理屈上では絶対に敵の一撃を被る事はない。
そういうものであった。
無論、このような神業は、鍛錬さえ重ねれば誰にでも習得できるようなものでは決してない。
持って生まれた天賦の才が必要不可欠といえた。
ユダヤに対して迫りつつある”死線”は二本。
それぞれに高低差をつけたそれらは、それらが交わるであろう中心へと収束するかのような”軌跡”をユダヤに見せていた。
数瞬の後に訪れるであろう”軌跡”。
言い換えれば、完全なる攻撃予測。
だが、いくら相手の攻撃が予測できていても、それに対処できなければ全く意味はない。
そして、鋼斬糸の挟撃を避ける道はユダヤには見つける事が出来なかった。
たった一点を除いては……
ユダヤは右手に構えた村正の刃を右側の鋼斬糸に当て、外側へと僅かばかり押し退けた。
しかし、複雑な遠心力回転を行なう鋼斬糸を完全に押しやることなど到底不可能だ。
そう、ほんの一刹那の時間稼ぎにしかならなかった。
一刹那。
だが、それこそがユダヤの狙いであった。
常人にはまったく意味のない僅かな時間に、前方へと飛び出す赤髪の剣士。
その瞬発力は草原に棲む肉食獣を喚起させるかのようだ。
仇敵を粉砕せんと、迫りくる鋼斬糸。
それを操る”魔人”の懐を急襲するユダヤ。
ラインを抉り込む様に急激に収束する鋼斬糸。
最小の振りで繰り出される妖刀の一撃。
鋼斬糸がユダヤの両脇腹を引き裂くのと、村正が”魔人”の胸板を切り裂くのはほとんど同時であった。
「うぐっ…!」
「!?」
黒ローブと白色の仮面を鮮血に染めて壁際近くまで吹き飛び斃れる”魔人”。
そして、自らの血溜りに両膝をつくユダヤ。
”死線”を見切り、なんとか最小の被害に抑える事には成功した。だが身体を蝕む毒素と相まって、もはや動く事さえ侭ならぬと言っても過言ではなかった。
その指先からは力が失せ、村正が音を立てて吸血に沸く石床へと転がり込む。
ユダヤは薄れゆく意識の中でこう思った。
(お前はまだ未熟なんだ…無理するんじゃないぞ、イルミナ)
そして、その意識が深い闇の中に堕ちようとした時、鈍い光と大気を切り裂く唸り声が届いた。
次いで衝撃。胸に微かな痛み。
その反動であろうか大量の血を吐き出すと、ユダヤは紅い闇へと堕ちていった。