〜Proving Grounds of the Mad Overlord〜
完全な闇なんてありはしない。
どんな暗い夜にだって、光は存在する。
現に今も、そういった微かな光の中にいるではないか。
そう……あの懐かしい、赤い砂嵐の香りに包まれながら。
─ここは、何処だ?
遠い記憶の果てに忘れ去られた風が吹いている。
そして、赤い闇に輝くのは、一際強く輝く赤い星の光だ。
空に、そして大地に”赤”が広がり、全てをその色彩の内に取り込んでいく。
─間違いない。ここは……
今は亡き追憶の大地。
遥かなる赤き都、楼蘭。
第24話 『楼蘭幻想』
「よお、御曹司。昼過ぎになってようやくお目覚めかい?」
澱んでいた意識が、その快活な声によって不意に引き戻された。
口髭を蓄え浅黒い顔で豪快に笑うこの男は、親父の右腕的な存在。
この赤い砂の都の守備を司る二番頭。その名はガンドルフ。
「今年もそろそろ嵐の止む季節だ。ちったあ、気を引き締めなきゃいかんぞ」
ガンドルフは笑った。
そう、もうすぐ嵐の時期が終わりを告げる。
ここ楼蘭の大地は一年の三分の一を、凄まじい砂嵐によって閉ざされていた。
その間は、何人たりともこの都に近づけず、そして離れる事もかなわない。
そのため、嵐が止むと各地の交易商人達が大挙してこの都に押し寄せてくる。
優れた特産品を誇る楼蘭と交易を行う為だ。
閉ざされた赤い都、楼蘭。
それゆえに外界では楼蘭特産の品々が破格な値段で取引されているらしい。
今年もそんな一攫千金を求める交易商人が、嵐の衰えと共に流れ込んできている。
「大丈夫だよ。親父やガンドルフがいれば、なにも心配はないさ……そうだろ?」
赤髪の少年は、多少生意気な口調で自身ありげに断言した。
「おうさ。夷狄(イテキ)なんぞに遅れを取る筈もなかろう」
力強く豪語し、少年の背を力強く叩く。
そう、砂嵐と入れ替わりにやって来るのは、楼蘭に友好的な商人達ばかりではなかった。
夷狄。
もしくは北狄(ホクテキ)と称される北方騎馬民族の侵略。
豊かな楼蘭の財を欲する彼等は、嵐の終わりと共に攻め入ってくる。
やがて再び嵐の時期となると、戦いの優劣を問わずに引き上げていく。それは数百年もの間戦い続けている仇敵の名であった。
そして、その夷狄から楼蘭の都を守るのがガンドルフ達、守護方の役目なのだ。
その守護方の一番頭、つまり総隊長にあたるのが少年の父親であった。
少年もそんな父親を尊敬していたし、いつかはその父親を越えたいと願っていた。
「お前も今年で15だ。夷狄を追い返した後で、ビシビシと鍛えてやるから覚悟しておけ」
「うげぇ〜、勘弁してくれよ……」
内陸の砂漠を閉ざす、赤い砂嵐。
大地に広がる赤い砂を纏い、空や街を、人すらも赤く染めるそれが消え去るのはいつも唐突だ。
楼蘭の女達は、砂漠を越えてはるばるやって来る交易商人達との取引に余念がない。
男達は、迫り来る夷狄に備え戦いの準備を推し進めていた。
砂嵐が消えて一週間。
不思議な事に夷狄はその影さえも現さなかった。
常ならば嵐の消失と共に襲い掛かってくる筈の彼等が、今年に限ってはその動きを見せない。
そんなはずがない。
事態を疑問視した楼蘭の統治者、巫女王は偵察の者を北へと向かわせるが、その者すら戻る気配がなかった。
「ヘヘッ、夷狄の奴等を見つけ出せば、きっとみんな驚くぞ」
いつも説教ばかり垂れている父親やガンドルフの驚く顔を思い浮かべながら、少年は北西の岩山を登っていた。
都からそう離れていないこの場所は、砂嵐の時期であっても容易に訪れる事が出来る、少年の秘密基地的な場所であった。
多少険しい岩肌の傾斜も、幼い頃からここに通いつめている少年にとってはどうという事もない。
せり出した岩に手足をかけ、いよいよ登りきろうかという時、頭上に黒い人影が突然姿を現した。
「やっぱり来たわね、お兄ちゃん」
少年を見下ろすその少女は、長い赤髪を結わえ、動きやすそうな衣服に身を包んでいた。
呆れたかのような口調とは異なり、その表情には待ちわびていた兄がやって来たという安堵の色が窺える。
少女の差し伸べた手を取ると、少年は一気に斜面から這い上がった。
「それは俺の台詞だぞ、ミユウ。親父が心配しているぞ」
「大丈夫だよ。だって、何かあってもお兄ちゃんがミユウの事を守ってくれるでしょ?」
ミユウと呼ばれた少女は、上目遣いで少年にじゃれついてみせる。
「お前なぁ……チッ、まあいいか」
少年は文句の一つも言ってやりたかったが、真っ直ぐなミユウの瞳の前に断念せざるをえなかった。
どうせ、何を言っても効果がない。
それどころか、下手な事を言って逆効果となった事も今までに多々あったのだ。
少年はミユウの手を引くと、断崖に張り出した岩陰へと潜り込む。
「夷狄の奴等がどこから来ようが、ここからなら丸見えだぜ」
そう力強く断言する少年。
ミユウは兄の手を強く握り締めると、先程までの威勢はどこへ行ったのか細々と呟く。
「今年はいつもと違うって、ガンドルフさんも言ってた。でも……大丈夫だよね? 何にもおきないよね?」
その今にも消えてなくなりそうな弱々しいミユウの表情に、少年は最大級の笑顔を以って応えた。
「大丈夫さ。親父やガンドルフが一度たりとも負けた事があったか? それに、何があってもミユウは俺が守る。それとも、俺じゃ不安か?」
少年が照れ笑いを浮かべると、ミユウはゆっくりとその首を横に振る。
「ありがとう、お兄ちゃん」
目を伏せたまま少年に寄り添い、そっと囁いた。
少年は2歳下の腹違いの妹を愛しげに見つめると、優しく抱きすくめた。
太陽は既に西の地平線の彼方へとその姿を消していた。
隣で寝息を立てる最愛の妹の寝顔を眺め、少年はこの一年を振り返り思いをはせた。
一年前の冬を間近に控えたある日。優しかった母の早すぎる死。
砂嵐が異国より運んできた病気が原因だったらしいが、少年にはそんな事はどうでもよかった。
そしてその後、共に暮らすようになった第二夫人とその娘。
少年とミユウの出逢いであった。
母の死に深く落ちこんでいた少年を支えてくれたのが、他ならぬこの少女だったのだ。
それからというもの、少年は常にミユウと共にあった。
はじめは彼にとって、ミユウは母の代替的な存在であったのだろう。
しかし、普段は気丈に振る舞うミユウが、少年にだけ時折見せる弱く儚い部分。
それが少年に、この少女の前では常に強くあろうと奮い立たせる要因となったのだ。
少年のその真摯な姿勢に、ミユウは一層心を寄せるようになっていった。
そんな二人が恋に堕ちるまでに、そう時間はかからなかった。
夜の帳もすっかりと落ちた中、少年がふと北の砂丘に視線を巡らす。
すると、何かおかしい事に気付く。
暗闇の中、大地が蠢いたかに見えたのだ。
少年は目を擦り、今一度よく注意して見る。
確かに黒々とした大地が蠢いている。
「おい、ミユウ。起きろ」
少年にゆすられて、まどろみの淵から目覚めたミユウは、一体何事かと尋ねた。
だが、少年は黙して語らず。
ただ闇の中の一点を指さすだけだった。
訝しげな表情を浮かべ、ミユウが少年の指し示す方向を凝視する。
すると、その表情は瞬時に凍りついた。
何かが蠢いている。
それは信じられないくらい大数の人間であった。
暗闇の中、一切の灯りも用いないそれは、明らかに夜襲であった
「騎馬はいないようだが……夷狄なのか?」
少年が呟いた。
ミユウはその様子に恐怖し、少年にきつくしがみついている。
その全身は激しく震えていた。
「親父に知らせないと」
少年はミユウの側から立ち上がった。
「ミユウ。お前はここから動くんじゃないぞ」
「やだ…あたしも行くよ」
予想通りの返答に少年は困惑したが、今はミユウを説得する時間すら惜しいと考えた。
結局、二人して岩山を降りる事にした。