〜Proving Grounds of the Mad Overlord〜


 別世界のものを思わせる、澱んだ空気とすえた死臭。
 地の果てまで伸びる暗黒回廊に、不意に淡い燐光が浮かび、そして消えた。
「どうだ? もう一発かましておくか?」
 高位治癒呪文を施し終えたヨセフが、壁にもたれかかるように蹲るシオンに冗談交じりに問い掛ける。
 彼を見上げるシオンの顔色は、まだ完全に普段のそれに戻ったわけではなかったが、数度にも渡る治癒の奇蹟によって幾分生気を取り戻したかのように見えた。
「ありがとう…もう、大丈夫だよ」
 仲間に対する配慮からなのだろう。
 やや不自然な笑みを浮かべてみせる。
 そして、そんなシオンの側にはそっと寄り添うシキの姿があった。
 彼女はシオンの傷を癒す為に魔法力を酷使したのであろうか。
 すっかりと疲弊しきって深い眠りに落ちている。
 シオンはそんな彼女の様子に気付き、ふと声を掛けようとするがヨセフがそれを止めた。
「ついさっきまで、ずっとお前に治癒呪文を掛け続けていたんだ。少し休ませてやれ」
「シキ……オレのために」
 そう呟くと、シオンはシキの髪をそっと撫でた。
 まるで永遠に目覚める事のない眠り姫のようだ。
 LOMILWAの魔法光源が発する幻想的な光を受けて、シキの漆黒の黒髪は微妙な色彩に彩られている。
 その白磁の肌と相まって、淫靡なまでの美しさを醸し出していた。
 そんな彼女を眺めていたシオンは、まるで魂を抜き取られたかのように見入っている。
 その時、その眠れる姫の頬に一筋の涙が流れ落ちた。
 薄紅を注した口唇が僅かに開く。
 そこから紡ぎだされた微かな言葉は…「ごめんなさい」
 


第29話 『呪文』


 涙に瞳を潤ませ、シキは唐突にそう呟いた。
 その表情は、自分を庇ったがために生命を落としかけたシオンへの申し訳ない気持ちで一杯だった。
「私のためにシオンがこんな事に……本当にごめんなさい」
 シオンを直視できなくなり、彼女は俯きその目を伏せる。
 未だ力が戻らないのか、弱々しい手付きでシキの両頬を優しく包み込むと、シオンはそっと彼女の顔を上げさせた。
 そして、その濡れそぼった目を見つめる。
「シキの所為じゃないから…自分を責めないでよ。それにシキには感謝してるんだよ」
「感謝…シオンが私に?」
 その言葉にシオンは頷く。
「そうだよ。だって、シキはそんなにクタクタになるまで、オレの事を助けようとしてくれたんだろ?」
「俺もクタクタなんだが……」
 ヨセフがぼやくが、無視して続ける。
「それにさ…オレ、シキがいなくなるの嫌だから」
 語尾を濁らせながら囁くシオンの顔は赤面している。
 一方のシキも頬を紅潮させると、そっとシオンの胸に顔をうずめた。
 そんな彼女の仕草がいとおしく思えたのか、シオンは彼女を優しく抱きしめた。
「おほん…あーあー……その何だ。そういうのは街に戻ってからにして欲しいんだが」
 ふと気付くと、そこには呆れた表情のヨセフが二人を見下ろしていた。
「え…あ、うん。そ、そうだね」
「そ、そうね。ヨセフ君の言うとおりだわ」
 照れ笑いを浮かべる二人。
 そんな様子を見たヨセフはデュオがそうする様に、両手を上に向けて肩をすくめる。
「やれやれだぜ……」

 その後、先行するデュオとイルミナに追いつくべく、三人は最下層の回廊を進んでいった。
 残してきたユダヤの事は気になったが、あの歴戦の剣士がそうそう簡単にやられるハズがない。
 なにしろ、長年共に戦ってきた信頼すべき仲間なのだ。
 ユダヤのことよりも、むしろ不調気味のイルミナを心配すべきだと皆思っていた。
 SWORD of SLASHING(真っ二つの剱)と呼ばれる魔法剱を鞘から抜き払った状態のヨセフを先頭に注意深く歩を進める。
 シキの側を歩くシオンは後方の注意を怠らない。
 いつ敵が襲ってこようとも対応できる態勢で、三人は気を張り巡らせている。
 凶悪の闊歩する最下層に於いて、通常の半分の戦力。
 しかも、敵の攻撃に対する”楯”となるべき前衛職の三人が不在なのだ。
 用心するに越したことはないだろう。
 そうしているうちに、大魔術師ワードナを守護する魔物が召喚されているはずの玄室へと辿りついた。
 その扉を開ける時の三人の気持ちは複雑だ。
 もしかしたら、デュオとイルミナの亡骸が転がっているやもしれぬのだ。
 意を決してヨセフが扉を蹴破ると、はたしてそこには夥しい数の魔物の残骸(もはや死体とすらいえない)が散乱していた。
 それらの所々には、デュオやイルミナの剣によるものと思しき原形を留めた魔物の亡骸が転がっていたが、その大半は完全に炭化していたり内部破裂を起こしたような無残な殺され方をしていた。
 それが圧倒的な力によるものである事は、それらを見るだけでもはっきりとわかった。
 そして、このような力がデュオ達にはない事も。
「文字通り消し炭だな。やはり、TILTOWAITか?」
 苦々しいヨセフの言に頷くシキ。
「通常の火焔焼却呪文では、ここまでの高火力を出す事は不可能です。亜空間での核融合を利用したかの呪文以外には考えられません」
 玄室内からは既に熱気は失せていたが、それでもなお額に汗を浮かべてシキが呟く。
「そして、この呪文を習得している者は、この城塞都市にはそういないはずです」
「TILTOWAITか……それに、この破裂したような手口はなんなんだよ? これも高位の攻撃呪文か何かか?」
 シオンは顔をしかめながら、隣に立つシキに尋ねてみた。
「内部破裂のようですが、このような呪文には心当たりがありませんわ」
「シキでも知らないような魔法があるなんて……」
 急にデュオ達が心配になったのか、シオンはやや焦りを感じた。
 シキもまた、この未知の手口について記憶を振り返っているようだ。
 だが、その答えは意外なことにヨセフの口からもたらされた。
「なんにも珍しくはねえよ。タダのMAHALITOだぜ」
「でもヨセフ君。MAHALITOではこのような……」
「平凡な火焔呪文のMAHALITOさ。ただ、相手の体内で発動させただけだ」
 さらりと言ってのけたヨセフの言葉に、二人は顔を見合わせて首を捻った。
 通常、この手の攻撃呪文は、術者が自身の周りに巡らせた不可視の魔方陣によってマナを束ね元素エネルギーへと変換、破壊特性をもつ呪文効果を顕現させるのである。
 つまりは、呪文の発動位置は術者のすぐ側という事になる。
 また、いかに相手に接近していようとも、生物のエーテル体に阻まれその内側に呪文効果を生じさせるのは絶対に不可能である。
「いくらなんでも、それは無理よ。ヨセフ君だってそのくらい……」
「いるんだよ。たった一人だけ、そういう事が出来る奴よ」
 一瞬の沈黙がその場を支配した。
 もしも、ヨセフの言っている事が本当なら、デュオとイルミナはそんな凄まじい実力者と行動を共にしている事になる。
「で、誰なんだよ?」
 無言の司祭に、シオンがその続きを促す。
 そして一拍空けると、意を決したかのようにその名を口にする。
「メルキド・アース……アース姉弟の弟さ」

 

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