〜Proving Grounds of the Mad Overlord〜


 戦いが終わると、そこにはもはや何も残されてはいなかった。
 アイルの強制送還魔法により魔界へと送り返されたものは勿論の事、デュオとイルミナの剣技によって斃れたもの。そして、TILTOWAITの魔法効果を宿したメルキドの魔法剱に討ち滅ぼされしもの。
 それらすべての悪魔達は、この空間に於ける依代が崩壊すると同時に、本来彼等が存在する筈の次元へと逃げ帰っていたのだ。
 その光景を…何よりもメルキドの操る凄まじきまでの力を目の当たりにしたイルミナは、己の成しえた大悪魔征伐という快挙すら忘れ、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
 


第30話 『誘惑』


 抜き身の刀もそのままに、目を見開き自分を見つめるイルミナの姿にメルキドは訝しげな表情を浮かべた。
「僕になにか用かい?」
 常に排他的な振る舞いの青年に不意に声を掛けられ、イルミナはふと我に帰ると慌てふためく。
「え、いえ……その、凄い技ですね」
 自分とは別次元の実力を持つ存在に恐れおののきながらも、なんとか率直な感想だけは口にできた。
 すると、メルキドは「チッ」と舌打ちをすると、面倒臭げに少女へと視線を巡らす。
「いちいち説明はしないぞ。どうせ、お前には理解もできないだろうから」
 そう吐き捨てるように呟くと、姉のアイルに先を急ぐように促した。
「すいません……」
 イルミナの表情が翳る。
 その様子を見かねたデュオがメルキドを呼び止め、そのあまりな態度への抗議を行った。
 自分よりも格下であるデュオの言動に激昂したメルキドが、その黒帽子の剣士を狂気に満ちた視線の先に捉える。
「何か勘違いをしているようだから言っておくが、まさか僕等と仲間になったとでも思っていないか?」
「なに…?」
「取るに足らない存在なんだよ、お前達は。姉さんの気まぐれがなければ、誰が好き好んで……」
 そこまで言いかけると、突然メルキドは口を閉ざした。
 目の前に伸ばされた姉の手が、彼の発言を静止したのだ。
「やめなさい、メルキド」
 冷ややかな眼光で、弟を威圧するアイル。
「何故だ、姉さん? こいつらなんて連れ歩いても足手まといにしか……」
「おやめ、メルキド!」
 なおも食い下がる弟に、姉の鋭い叱咤が飛ぶ。
 そして、いつもの静かな口調でこう呟く。
「もう既に彼の御方とは目と鼻の先。気付きませんか、あの方の視線に?」
 その意味ありげなアイルの台詞に、メルキドはハッと我に帰る。
「……ワードナのクレアボヤンス(遠見の咒術)!?」
「フフ…もっと冷静にお成りなさい。今頃はそぞかし笑われておられるでしょう」
 余裕の表情を浮かべ微笑むアイル。
 彼女は弟を諭すと、デュオ達二人に軽く会釈をして先を促し歩き始める。
 デュオとイルミナは互いに顔を見合わせ、結局はアース姉弟の後に従う。
「気を悪くしないで頂戴ね。見ての通り、この子はこういう性格だから」
 先頭を行くメルキドよりも数歩下がり、二人に語りかけるアイル。
 その顔には相変わらず、少しも悪びれた表情はない。
「いや…アンタ達の事をよく理解していなかった俺にも非はあったようだ」
 その言葉に皮肉を織り交ぜ、ささやかな意思表示をするデュオ。
 だが、別段それを咎めるでもなく、アイルは穏やかな表情で微笑みかける。
 さしずめ、悪魔の誘惑といったところか。
「この世の中、”アース姉弟”の名を聞いただけで傅き遜る方ばかりだというのに……。どうやら、貴方はそういった俗物達とは違うようね」
 アイルの言った”俗物”という単語に多少の不快感を覚えながらも、デュオはしっかりとその視線を受け止め言葉を返す。
「他の奴がどうかなんて興味はないさ。ただ、それが俺のスタンスなんでね」
 一瞬、呆気に取られた顔をするも、直後に笑い声を上げるアイル。
「あはは……本当に面白い人ね。ますます気に入ったわ」
 常に冷静沈着を絵に描いたようなアイルが、信じられないような無邪気な表情を浮かべて笑っている。
 ちらりと振り向いたメルキドは、見てはいけない物を見てしまったかのように瞬時に目を背けた。
 また、そんな二人の遣り取りを間近で見ていたイルミナは、その様子を訝しげに覗っていた。
(やっぱり、あたしだけ相手にされていない。この姉弟─特に姉のアイルにとっては、あたしはデュオ君のついででしかない)
 先程より思っていた考えを、改めて実感すると共に再認識させられた気がした。
(だとしたら……危険よ。いつ見殺しにされたとしても不思議じゃないわ)
 その事実にはたしてデュオが気付いているのか……
 イルミナが心配そうな目でデュオに訴えかけると、どうやらその不安な意図に気付いたらしく、無言でそっと頷いた。
 取り敢えず今は姉弟に従うしかない。
 デュオの目はそう語っていた。
 それに気付かぬアイルではなかったが、敢えて気付かないふりをしてデュオの腕を引き寄せると、そのまま身体を預けしなだれかかる。
 そして、そっとその耳元にルージュの唇を近づけ囁く。その視線はイルミナの目を射竦めている。
「ワードナを倒したら、私と一緒に来ない? 貴方となら、きっと上手くやっていけるわ」
「俺に悪の片棒を担げというのか?」
 鋭い視線でアイルを睨みつけ呟く。
 だが、アイルは微塵も動じない。
 組んだデュオの腕を自らの柔らかな胸に押し付けると、上目遣いで甘く囁く。
「貴方が望むのなら……私を好きにしてもいいのよ」
 その妖艶な誘惑に、しかしデュオは屈する事なくその腕を振り解く。
「悪いがアンタの気持ちには応えられない」
 そうはっきりと言いのけたデュオの言葉に、アイルは顔を伏せ黙り込んでしまった。
 イルミナはその光景に、ユダヤに拒絶された己の姿を重ねたのか、とても胸が苦しくなった。
 その手は無意識のうちに、デュオにアイルを気遣うように促す。
 デュオはイルミナの気持ちを察し、意気消沈としたアイルに近づきその顔を覗う。
 しかし、落ち込んでいると思われた彼女の表情は、何故かとても不敵な笑みを浮かべていた。
 アイルは心配気に覗き込むデュオに顔を近づけると、彼にしか聴き取れない程の小さな声でこう伝えた。
「貴方が気に掛けていらっしゃるお仲間……心残りがないようにして差し上げましょうか?」
「……なんだと?」
 一瞬、アイルの言葉の意味することが理解できなかったデュオであったが、彼女が何を言わんとしているかに気付くと、すぐさま反論を試みた。
 否。
 反論しようとした刹那、アイルの唇によりその口は塞がれた。
 そして、その唇を割って女の舌がデュオの口腔へと侵入する。
 それは彼の舌にねっとりと絡み付いてくる。

 彼女を拒むのは彼の自由だ。
 だが、拒めば彼の仲間の生命はない。
 そう言っていた。
 彼女の性格と実力から判断するに、決してそれが脅しや虚勢でない事が窺い知れた。
 そして、彼を欲するその眼差しは嘘偽りのない本音を物語っていた。
 これが彼女の屈折した愛情表現なのだろう。
 デュオはそう思わずにはいられなかった。
 しかし、つい数刻前に出逢ったばかりの相手をこうも好く事ができるのだろうか?
 そんな疑問が頭をよぎる。

「そのくらいにしておきなよ、姉さん!」
 それまで沈黙を貫いていたメルキドが声を荒げる。
 その弟の様子に苦笑すると、アイルはようやくデュオを開放する。
「なにかしら、メルキド。もしかして、妬いているの?」
 愉しげな表情で弟を弄ると、当の本人はむすっとした顔で前方の移送方陣を指差す。
「ワードナとは目と鼻の先だ。姉さんがさっき言った台詞だよ」
 弟の憤りもどこ吹く風。アイルは悠然とこう言った。
「迷宮の奥に篭る方に、見せ付けてあげるのも一興だわ」
 そんな自らの台詞に苦笑した。

 

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