〜Proving Grounds of the Mad Overlord〜


 軽い眩暈にも似た浮遊感を感じた刹那、それまでとは異なる空間へとその身を投げ出されていた。
 転移魔法により一時的に原子にまで分解された肉体がその転移を終えるのに先駆け、精神(自我)だけがいち早く亜空間を疾走していく。
 肉体という枷を外された意識は、驚くほどに軽く、そして明瞭としていた。
 これは迷宮下層からのテレポートに良くある現象で、その跳躍距離が原因とも、大魔術師の強力な魔力の余波によるものとも言われているが、その真相は定かではない。
 少なくとも、その大魔術師はもういないのだ……

 栄えある名誉と栄光の元、上帝トレボーの片腕として仕えてきた近衛兵長ゼル・バトルには、今回の敗北劇は未だに信じがたいものであった。
 近隣諸国にその名を轟かせ、その屈強なる精強さで知られる精鋭中の精鋭。
 泣く子も黙る、トレボー親衛隊が僅か10名やそこらの冒険者の前に完敗を期したのである。
 そして、護りの魔力を秘めし”聖なる鎧”を纏いし自らも手痛い損傷を被り、その醜態を晒し、あまつさえ緊急転移によって敗走中なのだ。
 今まで長年にも渡り築き上げてきたすべてのモノが、あたかも砂上の楼閣が如く崩れ去って行くのを実感すると、そのあまりの情けなさ、不甲斐なさに思わず涙が込み上げてくる。
 そもそも、何故こんな目に遭わなければいけないのだ。
 そう自問するゼルの脳裏に、恩を売らんとばかりに嘲りにも似た笑みを浮かべるホークウィンドの姿が浮び上がった。
 カント寺院の一室…確かにあの場所で、この背徳極まりないエルフの高司祭より入れ知恵を受けたのである。
 今にして思えば、あのエルフとは上帝に最も近き地位に就く者同士、常日頃からその意見を対立させていた間柄であり、決して相容れる存在ではなかったはずだ。
 ともすれば、全ては近衛兵長を失墜させる為に仕組まれた事だったのだろうか。

『クソ坊主めが……』

 血を吐くかのような辛辣な口調で呟くゼル。その瞳は怒りと憎悪の焔を宿したかのように血走っていた。
 噛み締める歯はギシリと鳴り、今にも己の奥歯を噛み砕いてしまいそうな勢いだ。
 そして、ツゥ…と唇の端から紅い筋が伝っていく。

 次の瞬間、目の前に開けた空間が飛び込んできた。
 おそらくは、迷宮の中層域から上層にかけての何処かの地点なのだろう。
 意識だけが先行して送り込まれたその視界の端に、表情なげに佇む2つの人影があった。
 一人は蒼色のゴシックドレスに身を包んだ、妖艶という言葉が似つかわしい美しい女だ。
 もう一人は軽装の装束を纏った男で、その腰には大きく反った曲剣が提げられている。
 そして、二人とも同じ顔をしていた。
 整った目鼻立ちの造形や、迷宮の暗い光を反射する淡い金色の髪。
 その鉄面皮が如く表情の欠落した顔。
 他者を排斥し、蔑むその視線。
 全てが同じであった。
 彼らを注意深く観察していると、女の方がなにやらブツブツと呟いているのが確認できる。
 ゼルのその様子を見て取ったのか、女が微笑む。

『しまった、呪文か!?』

 ゼルの目の前に現れたのは、高位魔法に用いられる魔方陣である。
 そこから溢れ出すのは、目を覆わんばかりの爆炎と閃光。
 そして、その最高位炎熱呪文TILTOWAITの発現に重なるタイミングで、ゼル・バトルの肉体は三次元空間へと実体化を始めた。


第46話 『狂気』


 くぐもった爆音と共に、凄まじいまでの熱波が押し寄せる。
 特定の空間だけに効果を及ぼす限定的な攻撃とはいえ、そこに出現したファイアボールの規模や熱量は生半可なものではない。
 ここが魔力結界により保護された迷宮でなく、地上の市街地だったとすれば、この一撃によって如何ほどの破壊がもたらされたことであろうか。
 荒れ狂う灼熱地獄の中央に捕えられた人影は、もはやその灰すらも焼け残ってはいまい。
 その光景を、この惨事の当事者であるアース姉弟は無言で見つめていた。
 万が一、呪文を無効化した際に備え、メルキドの右手は腰の”Saber of Evil”に添えられている。
 だが、特にこれといったことも無く、爆炎は四散し蜃気楼のように揺らめき、そして消えていく。

「さしもの、聖なる鎧も”魔除け”によって増幅された魔法は打ち消せなかったというわけだ」
 呟いたメルキドは、ふとその視線を姉の掌に向ける。
 そこで淡く輝いているのは、玉虫色の光沢を放つアーモンド型の金属片であった。
「フフ…そうね。もっとも、全ての人間にこの”魔除け”を有効利用できるとは、到底思えないけど」
 そう囁いたアイルは”魔除け”を見つめた後、そっと目を伏せる。
「力が戻っているわ……デュオに渡した”欠片”が紛失した事により、再統合を果たしたようね」
「残念かい、姉さん?」
 やや皮肉気な表情を浮かべて、メルキドが姉にそう問い掛ける。
「なんのことかしら?」
「惚けなくてもいいさ。分割した”魔除け”の片割れがデュオの元にあれば、いつかまた必ず巡り逢うことになる。違うのかい?」
 伏せていた目を薄く開くと、アイルは静かに、そして優しく微笑んだ。
「……そうね」
 その率直な姉の回答が気に入らなかったのか、メルキドはらしくもなく拗ねた表情を浮かべる。
 そして、”魔除け”を握るアイルの手をそっと握り締めると、もう一方の手を姉の後頭部にまわす。
 輝き失せた瞳は酷く虚ろだ。
「やめなさい、メルキド」
「嫌だね。姉さんは僕だけのモノだ」
 静かに、そして力強く宣言すると、弟は姉の唇を激しく塞いだ。
 そこから差し込む舌が妖しく絡み合う。
 瞼を薄く開いたメルキドは、姉の瞳から一筋の涙が零れ落ちるのを見るや、陰鬱な気持ちが自らの心に満ちていくのを感じた。
 そして、その背徳的な感情に無言で身を委ねた。


 一糸纏わぬ姿の疲れきった表情の女が、迷宮の冷たい床石の上に横たわっていた。
 周囲には彼女の物と思しき衣服が雑然と散乱している。
 彼女はその頭をもたげると、混濁とした瞳を傍らに立つ男に向ける。
「あなたは狂っているわ……」
 そう呟くと、女は無造作に転がる”魔除け”にそっと手を伸ばす。
 まるで欠落してしまった自らの半身を求めるかのように……

 その翌日、何者かの手によってカント寺院高司祭のホークウィンドが暗殺される。
 これにより、上帝トレボーの軍団はその力を大きく削がれる事となった。
 依然、”魔除け”も行方知らずのまま。
 人的、魔的資源を大きく損失したトレボーが、これ以降、大規模な軍事行動をとる事は遂にはなかった。

 その後、トレボー城塞都市でアース姉弟を見かけた者はいない。

 

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