〜Proving Grounds of the Mad Overlord〜


 一歩、また一歩と微かに苔生した急勾配な階段を降りていった。
 この迷宮が冒険者達に開放されてから既に一月ほど経っていた事もあるのか、迷宮本来の無機質的な雰囲気は消え、あたかもそこが人の領域であるかの安堵感さえあった。
 無論、異形の怪物達が跋扈する場所である以上、そんなものは単なる幻想でしかないのだが……
 右側に向けて下り続けている階段が終わりを告げると、そこはいよいよアンダーグラウンドの世界の入り口だった。
 地上の光すら届かぬ死地へと足を踏み入れたのだ。

 照明魔法LOMILWAの燐光に照らされた回廊を、シオンたちは用心深く進んでいった。
 とはいえ、デュオを除くすべてのメンバーは今までにも各地の迷宮に挑んできた歴戦の勇士である。
 それ故に初めて踏み入ったこの場においても、そうそう気圧される事はなかった。
 一行はシオンがあらかじめ入手していたマップに従い、薄闇の中を確認しつつ歩き回った。
「なるほど、大まかな概要は掴めてきたな。大魔術師の魔力により一夜にして築かれた大迷宮か…楽しめそうだ」
 ある程度歩き回る事で迷宮全体の規模を把握したのか、ユダヤは思った事をそのまま口にした。
「ハルギスの地下墓所よりは広そうですね」
「そういえば、イルミナ。お前は大規模な迷宮はこれで2回目だったよな? 下手にベテランぶってヘマするんじゃねぇぞ」
「そういうヨセフ様こそ、あまり調子に乗らないでね」
 薮蛇だ、と思いながらヨセフはおどけて見せた。
 この一件で気分が解れたのか、一行から緊張のようなものが薄らいだようだ。
「よし、今日はこれくらいで……」
「シッ…何かが来るぞ!」
 


第8話 『鋼斬糸』


 暗闇の中からは、なにやら乾いた物質が擦れ合うような音が響いていた。
 そして、それが武装した犬人のなれの果てであると理解するまでには、さほどの時間はかからなかった。
 アンデッド・コボルト─
 主として迷宮上層に集団で住み着く犬人(コボルト)達が、彼らの縄張りに踏み込んできた冒険者の刃に倒れた後も、大魔道師の魔力によって操られ続けられる生命なき骸である。
 それらが5体。自らの身体をカラカラと摩擦させながら、ゆっくりとした動作で襲い掛かってきた。

 まず、勢い良く飛び出したイルミナの刃が綺麗な放物線を描き、瞬時に2体の不死者を両断する。
 その切っ先は、人間でいう頚椎の部分を正確に切り裂いていた。
「こんなものでしょ」
 刹那、軽口を叩くイルミナの真横を黒い疾風が吹きぬけた。
 否、猛烈なスピードで疾走するデュオである。
 デュオはその加速が最高潮に達するかというところで、剣を抜き払い一気に切りつける。
 その剣撃を受けたアンデッド・コボルトは瞬時に砕け散るが、デュオの加速は未だに衰えを見せずに、次の目標に向けて返す刀を閃かせる。
 残る1体もいつの間にかヨセフによって倒されていたらしく、この狂王の試練場での緒戦は難なく勝利を迎えたのであった。


 時を同じくして、場所は城塞都市の裏通り。
 夜なお喧騒に溢れかえる歓楽街から横道を一歩入ると、そこは人も疎らな閑散とした薄暗い区画へと入り込む。
 この辺りには上帝の目が行き届いていないのか、はたまた故意に見ぬ振りをしているのか、闇の組合が支配する極めて治安度の低い危険地帯と化していた。
 通りのそこかしらには、けばけばしいドレスに身を包んだ娼婦や、組合の資金源たる御禁制の薬物を売りさばく売人たちが闊歩していた。
 そういった者達には目もくれずに通りを滑るように進む人影があった。
 その人物は全身を闇色のローブに包み、顔を白色の不気味なオペラマスクで覆い隠していた。
 暗緑色の髪を背まで伸ばしたその怪人は、不思議な事に足音一つ立てずに歩いている。
 裏通りとはいえ王都である以上、もちろん石畳は敷設されている。
 このことから、この怪人が訓練された盗賊、もしくは忍者である事が覗えるだろう。
 闇から闇へと溶け込むかのように移動していたこの怪人が、その足を止めたのはそれから間もない時であった。

 怪人の背後に殺気が生まれるのと同時に、陰鬱な声が掛けられる。
「おっと、動くなよ。おとなしく金目の物を置いていけば、命までは取りはしない」
 そう言うと、男は怪人の首筋へと白刃を突きつける。
 通りからはいつの間にか、娼婦や売人の姿が消えていた。
 それと入れ替わるかのように、姿さえは現さないが幾人かの気配が生じていた。
「……一つ尋ねる」
 己の置かれている状況をまったく無視して、怪人はそのしゃがれた声を発した。
「あん? テメェの状況が理解できて…」
「尋ねる。ユダヤという男を存ぜぬか?」
 怪人は質問を続ける。
「どうやら死にたいらしいな」
「……知らぬか。ならば用は無い」
 そう呟くと、怪人は手首をほんの少しばかり捻る。
 次の瞬間、男の視界になにか光るものが幾筋か閃いた。
 それがこの世で男が見た最期の光景であった。
 首と両の腕を切断され、男は自らが作り出した血溜りへと沈んでいった。
 男が絶命するのとほぼ同時に、男の仲間と思われる数人の黒装束が姿を現す。
 おそらくは裏通りを支配する組合の戦闘員であろう。
 黒装束たちは無言で得物を構えると、怪人を包囲しつつあった。
「小生は忙しき身なり。大人しく退くのならば命までは取らん」
 先程、自分が掛けられた台詞をそっくり返す。
 しかし、黒装束は何の反応も見せずに、その間合いを詰め始めた。
「……愚かなリ」
 怪人の台詞が引き金になったかのように、黒装束たちが一斉に襲い掛かってくる。
 その様子になんら動じる事なく、怪人は先程と同様に手首を微かに捻った。
 ヒュン……という微かな風きり音と共に、光を反射して閃く何かがまるで意思を持っているかのように黒装束に襲い掛かる。
 恐ろしいまでの速度で迫るそれは、黒装束の急所を的確に切り裂き、もしくは刺し貫いていく。
 その間、怪人は手首を躍らせているだけで、自らは一歩も動いていない。
 そうしている内にも、黒装束は一人、また一人とその数を減らしていった。
「ば、馬鹿な……これはまさか、鋼斬糸か?!」
 それまで黙していた黒装束が、とうとう声を発した。
 その声は驚きと恐怖でやや上擦っているようだ。
「左様……そして汝はここで消えるが運命」
 黒装束は飛び跳ねるかのように、怪人に背を向け逃げ出した。
 だが、その直後に首や腕、手首や足、胴といった全身に極細の鋼線が巻きついていた。
「ひっ、た、たすけ……」
 怪人は手首を捻り、鋼線を凄まじい速度で引き戻した。
 すると、黒装束に巻きついた鋼線はみるみるその身体に食い込んでいき、次の瞬間にはその全身をバラバラに切断していた。
 その後、怪人は何事も無かったかのように、再び路地を歩み始めた。
 暗天の空には、鮮血に彩られたかのような赤い月が浮かんでいた。

 

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