(宮城教育大学大学院教育学研究科・修士論文)
スポーツを媒介にした 「地域リアリティー」形成についての一考察

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第1章   積極的社会統一の契機としてのスポーツ

   スポーツが現代の人々にとって生活の一部としての位置を占めることは確かであり、しかも、現代社会におけるスポーツの重要性は、今もってますます高まり続けている。その重要性の一端として、スポーツとコミュニティが密接な関係をもって語られるようになって久しい。

   ドイツを代表する古典的社会学者ゲオルク・ジンメルは、圏が拡大すればするほどその統一を規定する共通性はより乏しく、禁止的、制限的な性格を帯びるとする。また、大衆行動における諸個人の動機は、単に否定的、破壊的であればあるほどその統一化は可能となるとし、大きな圏の共同性が、拘束規定、内発的な統一への動機双方に否定的性格を要求することを指摘している。ジンメルの指摘は極めて当を得たものである。まさにわれわれは反対するためだけに人々と行動をともにする。果たしてわれわれが「賛成運動」なる示威行動を目にすることがあろうか。否定的動機が社会を凝集させ行動を表面化させるのは、まさに否定の対象が人々の生活に直接影響するからである。ジンメルは「積極的な目標を目指してそれらを統一することは、まったく成就することができないであろう」(1)とまで述べている。そこで、たくさんの人がスポーツに強い関心を示し、多くの余暇時間をスポーツのために費やす現代社会の状況を、どのように説明するのかという問題に突き当たる。果たしてスポーツは、その独特の形式と内容によって、「積極的統一規定」としてわれわれの社会に広範な共同性をもたらすことが出来るのだろうか?

   人間の幸福にとって必要条件である、生存の維持を約束する物質的豊かさの実現によって、個人の自立した生活が可能となり、生活を維持するための中間集団としての地域共同体が衰微した現代においても、なお「共同性」への欲求は確固として存在している。

   伝統的地域共同体の衰微が顕著になった高度経済成長期以降、全国でコミュニティの形成が盛んに叫ばれてきた。その只中で経済企画庁は、1973(昭和48)年に経済社会基本計画のなかで「コミュニティスポーツ」なる用語を用いてコミュニティ形成におけるスポーツの有用性を示し、自治体のコミュニティ政策を促した。

   だがこれまで行われてきた、行政による「コミュニティスポーツ」の仕掛けが十分に実を結んだとは言いがたい。

   「コミュニティスポーツ」の振興と称して各自治体が競って行った体育施設の建設は、後に「箱もの行政」の象徴として批判の的となる。だが、全国的に体育施設が供給過剰であるとは言えない。コミュニティに必要となる要素は概ね、地域性、共同性、規範性、に集約される。「コミュニティスポーツ」の失敗は、その政策の中で共同性と規範性の構築への配慮が欠落し、せっかく作られた地域毎の体育施設を生かすための方策が確立されないまま放置されたためである。

   共同体が衰微した今日的状況の中で、スポーツ活動はコミュニティづくりに適ったものであることは確かだ。本質的にスポーツは社会の関係性に支えられて行われながら、スポーツの営為自体が参与者の新たな関係性を作り出すからである。

   現代のわれわれは、スポーツを媒介とすることで個人と個人が結びつきを持ち、スポーツを媒介として身近な人々だけではなく遠く海外の人々とも結びつくことができる(結びついたという感覚を抱くことができる)。世界的な統一ルールの下で行なわれているスポーツの下では、概念上ひとつの世界社会という言い方もできないことはない。モダニティの原理がもたらしたルールの共通化によって、近代以降はスポーツが社会を構成する前提として躍り出た。近代スポーツは、そのルール、様式の国際的な共通化の貫徹によって、スポーツ自体が人々の紐帯として社会を統合するだけの可能性を有することになった。いまや、スポーツが社会を生成する要素であり、社会を規定する脈絡のひとつとなったことを示している。

   イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズはモダニティ(近代化)について、「脱埋め込み」という概念を用いて分析を行ない、「脱埋め込み」と「再埋め込み」を、モダニティの過程の中心概念として示した(2)。「脱埋め込み」は「社会関係を相互行為のな脈絡から引き離す」ことであり、「再埋め込み」は、その社会関係を「時空間の無限の広がりのなかに再構築すること」(3)を意味する。

   「脱埋め込み」と「再埋め込み」の過程は、位置的に隔てられた他者との関係の発達を促進する。局所的脈絡を脱した社会関係は、時空間を超えた社会調整システムに依拠する。そのため、「脱埋め込み」が進んだ社会関係については、あらゆる特定社会の固有性を超えた共通の情報が流通可能となる。しかも、「脱埋め込み」は、ある共同体社会の内ととの差異性を縮小させると同時に、コミュニケーションの成否を左右する条件において「距離」の影響力を低下させる。運輸が整備され、情報通信が日進月歩発達する現代において、距離が遠い相手ほどコミュニケーションが困難であるとは、もはや言うことはできない。「心的距離」との言い方は、社会関係を規定する脈絡において、コミュニケーションの成立状態がより大きな役割を担いつつあることを示す。このような現代の社会状況において、スポーツは、コミュニケーションを無限定的に拡大させることが可能な社会関係の脈絡、すなわち紐帯としての意味をもつ。スポーツの魅力、楽しみや興奮を感受する喜びと、自分と同様にそれを享受する人々との関係、コミュニケーションの「内容」としてスポーツにまつわるさまざまな情報を共有し形成される人と人の関係が、スポーツを紐帯とした社会の条件である。

   また、スポーツが社会的脈絡、すなわち紐帯として特定社会の輪郭をも際立たせる。スポーツの本質の一側面である「十分な楽しい緊張と戦いの興奮」と「短期間で迎えるカタルシスの快楽」、この周期運動は、人々が帰属する社会の限定性を自在に生み出す。戦いのモメントにある時、人々はより小さく限られた社会関係に凝集し、それ以外の集団への排他性と敵愾心を高めていく。そのために生じた集団間の緊張関係が、特定社会の存在を際立たせるのである。だが、戦いが終了し人々にカタルシスが訪れた時、排他的緊張関係の解消によって特定社会の輪郭は次の緊張状態まで薄れることになる。

「社会意識に関する世論調査」(1997年12月) 総理府実施
  • 調査対象
    1. 母集団−全国20歳以上の者
    2. 標本数−10,000人
    3. 抽出法−層化2段無作為抽出法
  • 調査時期 平成9年12月4日〜12月17日
  • 調査方法 調査員による面接聴取
  • 回収結果
    1. 有効回収数(率)−7,110人(71.1%)港について(国際貿易港など)
    2. 調査不能数(率)−2,890人(28.9%)

   さて、総理府が1997年9月に行った「社会意識に関する世論調査」によると、「あなたは,いま住んでいるこの地域に愛着を感じますか。」との質問に対し、78.4%の回答者が「はい」と回答しているが、愛着の理由として「地域住民の連帯感が強い」を挙げたのは20.7%(複数回答)にすぎない。逆に、愛着を感じないと回答した10.7%の回答者の理由として最も多いのが「地域住民に連帯感がない」であった(45.7%(複数回答))(4)。

   この調査結果から、現代人にとって、地域への愛着が住民の連帯感と一致しなくなっていることがわかる。一方で、「地域住民の連帯感が無いために地域に愛情を感じられない」人々にとっては、連帯感が地域への愛着を成りたたせる文脈として考えられていることを示している。

   都市部で生活する住民は、大衆社会の生活が抱えるネガティブな面に気をとられたとき、小さな村や集落で営まれる生活のイメージを美化し、そこに懐かしさや安らぎの感情を抱く。現代の都市生活者には、全国津々浦々の小さな町村を離れて移り住んでいる人も少なくはなく、実体験としてふるさとの小さな集落での生活に対するノスタルジーがあることは十分に考えられる。スポーツや余暇の研究で知られるドイツの社会学者ノルベルト・エリアスとイギリスの社会学者エリック・ダニングは、社会学の文献上においても「大いなる「連帯」の感情が行き渡っているこれらの「伝統的」「民衆的」社会における生活様式についてのある概念が存続している」(5)ことを指摘したうえで、小さな社会に抱く懐かしさの感情について、「現代社会に比べてこのような社会では緊張や対立はそれほど激しくなく、より大きな調和が保たれているというふうに容易に解釈されうる」(6)と指摘する。

   ここでスポーツをめぐる共同性と暴力の問題について言及したい。スポーツは人々の興奮を呼び覚まし、時として暴力と破壊をもたらす。中世イングランドで盛んに行われた「粗野で粗暴なフットボール」(モップフットボール)は、破壊的で不経済であるとして常に為政者によって禁止の対象として抑圧されてきた。エリアスはスポーツにおける暴力について、18世紀後半から19世紀のイギリス社会において、競技大会が「激しい戦いの緊張のありうべき達成と肉体的傷害に対する正当な保護との間のバランスを保証する一定のルール」(7)を「スポーツ」というかたちで具体化するようになったとした。例えば、今日ボクシングが残忍な殴り合いとしてではなくスポーツ競技として存在していられるのは、まさにエリアスが述べたバランスが保たれているためである。素手にグローブをはめたり、ヘッドギアを装着したり、あるいは、出血時には試合を中断するなど、肉体の保護を保証するルールを次第に整備してきたことで、ボクシングは殴り合いという競技本質を保持し続けているのである、現代社会において人々の嫌悪の度合が高まった暴力が、制度化され競技に組み込まれたという「スポーツ」の発展の方向性を、エリアスは「文明化の勢い」(8)と述べている。

   見田宗介は「情報は、自己目的的に幸福の形態として、消費のシステムに、資源収奪的でなく、他社会収奪的でない仕方で、需要の無限空間を開く」(9)としている。われわれにとってこれから必要となる共同性は、必要のためではなく、無限なる「生きることの歓び」(見田宗介)(10)をもたらす事柄と情報のもとに生まれるであろう。そうやって形成された社会は、直接的な人格の結合のみに依拠する共同体ではなく、また、生存、生活上の必要にともなった生産共同体でもない、共同性の構築それ自体が目的性を持った共同性である。われわれは、もはや生活のために中間集団としての共同体を形成する必要のない社会を確立したように見える。だからこそ現代のわれわれが共同性を求める理由が、はっきりと過去とは異なるものだと指摘することができるのである。

   スポーツは、われわれに「生きることの歓び」を無限に与える可能性を有している。そしてまた、スポーツは「目的としての共同性構築」を可能にする社会の紐帯になりうるのである。

  1. 「社交」ジンメル.G『社会学 下巻』居安正訳、白水社、1994、80頁
  2. ギデンズ.A『近代はいかなる時代か』松尾精文/小幡正敏訳、而立書房、1993、35頁、
  3. 前掲書、35頁
  4. 「社会意識に関する世論調査」総理府1997年9月実施 http://www.sorifu.go.jp/survey/shakaiishiki.html
  5. エリアス.N/ダニング.E『スポーツと文明化』大平章訳、法政大学出版局、1995、260頁
  6. 前掲書、260頁
  7. 前掲書、218頁
  8. 前掲書、236頁
  9. 見田宗介『現代社会の理論』岩波新書、1996、152頁
  10. 前掲書、140頁

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