(宮城教育大学大学院教育学研究科・修士論文)
スポーツを媒介にした 「地域リアリティー」形成についての一考察

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第2章   スポーツの「遊戯的社交性」

   ゲオルク・ジンメルは、社交を「社会化の遊戯的形式」(1)と定義し、ヨハン・ホイジンガは遊戯を「現実から切り離され、それだけで完結しているある行為のために捧げられた世界」(2)とする。社交はジンメルの言う「形式」のなかでも、極めて純粋に特化された形式である。社交を満たす精神は遊戯であり、遊戯は社交という特化された形式を得て生き生きとその魅力を発揮する。ジンメルの「社交」とホイジンガの「遊戯」は、それらが社会において全く余剰なものであり、純粋に楽しみや満足を得るためにのみ行なわれるという「自己目的性」において最も高度な共通性を見せる。

   社交は自己目的的に行なわれなければならない。ジンメルは、自己目的性こそ社交の本質であるとする。社交の埒外の現実的世界を持ちこむことも、社交の埒外に何かをもたらすために社交を営むことも、社交を損ない破壊させる。社交は人々がその形式の原理にしたがい、真摯に戯れることで初めてその魅力を人々に与える。ホイジンガは遊戯について同様のことを語る。遊戯は、限定性と完結性を特徴とする。遊戯において人々は日常生活を引き離した独自の制限を自ら作り出し、それを守ることを自らに強要する。一方では遊戯する自由を持ちながら、もう一方では日常生活を遊戯に持ちこまないような厳しい制限を課す。よって、遊戯の規則は絶対的な拘束力を持つこととなる。それが遊戯の「非日常性」を形成する要素の一つである。もしも誰かがその規則を破った時には、遊戯の世界そのものが破壊される。ホイジンガはそれを「遊戯破り」と呼んだ(3)。

   社交は諸個人が様々に持つ即物的なもの、生活内容をその瞬間に限って一切排除するから、すべての参与者に「社交的平等」を約束する。「社交的平等」は、われわれが社交の中に身を置いた時に感じる「本当の自分が今ここにいる」という感覚をもたらす一つの要素となる。

   ジンメルは、純粋な人間性は名付けようのない根源的な力を持った未分化のコンプレックス(複合体)であるとする(4)。それが、その時々の生活の動機や関係性に応じて、様々な内容、力を持った特定の明確な構成物に分化されていく。社交に参加する時、われわれは「社交的人間」という独特の作り物として、ただ純粋な人間性のみを持って社交形式へと入っていく。個人が抱える様々な社会的脈絡は、社交の圏内に持ちこむことはできない。ひとたび持ちこむや否や、社交の魅力は損なわれてしまう。社交の参与者は「純粋な自分」として社交に身を置くのである。「純粋な個人」によって営まれる社交は「純粋な社会」であり、社交こそが社会を形成するその純粋な魅力を余すところなく与える。

   社交は、参与者に社会形成を楽しむという感情や満足をもたらす。「すべての社会化には、自分たちが社会を形作っているのを楽しむという感情や満足が附着しているものである」(5)。社会形成がもたらす感情は、社会化の現実的内容を超えてわれわれに社交の衝動を起こさせる。社交は結合と解散の自由が最大限に達成された形式である。

   ここまで述べてきた「遊戯的社交」を、今日の社会状況下で具現できるのが近代以降のスポーツ、とりわけ観戦型スポーツである。スポーツは、社会において生活の必要とは一致しないとの意味で余剰なものである。われわれはその余剰なものから、余剰であるが故に純粋にスポーツ由来の刺激や満足感を享受しようとする。スポーツはその基本に遊戯性が備わっている。そして、現代のわれわれに「社交」の形式を実体験させる機会としてスポーツを位置付けることが出来る。スポーツが「遊戯的社交」として営まれる時、人々はスポーツの内容と「遊戯的社交」形式が与える両方の魅力を享受する。その際特に、スポーツが「遊戯的社交」として行われることによって、社会における新たな共同性の契機となることを提案したい。

スポーツは闘争を通じて人々の結びつきを促す、独特のコミュニケーション過程である。ジンメルは「闘争そのものがすでに、対立するもののあいだの緊張の解消である。闘争が平和をめざすということは、それが諸要素の総合であり、相互強調とともにひとつのより高い概念に属している相互対抗であるということのたんなるひとつの、とくに自明な表現にすぎない。」(6)と、闘争を積極的な社会化の契機とした。ジャネット・リーヴァーは「スポーツは多様な水準において、分裂と統合という役割を演じることができる」(7)とする。試合に臨む両者が、戦ったのち分裂したきりになったり、一方がもう一方を殲滅させるような戦いにならないよう、スポーツはその範疇の内外に前提となる共同性を必要としている。

   スポーツが社交として人々の自在な分裂と統合をもたらすことを保証するという点において、現実社会の共同性は、遊戯的社交においてその今日的な意義を持つ。

   貧困からの解放と技術革新を前提として、われわれは生活の必需として局所的な特定の共同体に従属する生活から解き放たれた。いまや、共同体への所属は生存のための必要条件ではない。今日、自由に対する人々の希求はますます増大し、しかも、その自由は他者の干渉を絶対的に拒否できるという権利意識と一体化して拡大する傾向にある。

   しかしそのことは、われわれの生活が社会の共同性を必要としなくなったことを意味するものではない。アンソニー・ギデンズは、「脱埋め込み」から「再埋め込み」へのプロセスを繰り返すことで、社会の脈絡となる時空間は比較にならないほど拡大し、社会関係は目の前から遠ざかって行くとする(8)。われわれは局所特有の時空間に依拠する共同体社会からの解放を経て、自立した個人として社交へ参加することを可能とする近代的自由を獲得したが、その自由は局所化された時空間とは異なる脈絡が調整する社会システムに依拠して成立しているのである。すなわち、遊戯的社交としてのスポーツは、自由性の保証という前提の上で現実社会の共同性を必要とするのである。

   スポーツの「遊戯的社交性」という視座のもとで、スタジアムはまさに「遊戯的社交空間」としてあらわれる。スタジアムは事実としてわれわれを日常生活から切り離す。ホイジンガは遊戯の空間的制限を強調する(9)。空間自体が遊戯的社交の様式を具現していることによって、観客は社交の参与者として簡単に自分を切りかえることができる。では、われわれはスタジアムの空間の中でいかにして「社交的人間」になるのだろうか?

   はじめてサッカー場に足を踏み入れる時、ゲートの向こう側に広がる光景に戸惑いを覚える。幻想的な照明灯の光、その光に照らされ浮かびあがった美しく広がる緑の芝、360度から聞こえてくる喧騒。いつもテレビで聞いていた歓声は、振動となって足元から伝わってくる。

   見渡すと、自分の背丈の倍はある旗を振りかざす者がいる。その数を数えてみようとするが、荒荒しくはためくたくさんの旗を前に、彼はすぐにそれを諦める。一心不乱に太鼓を叩く者がいて、そのリズムに合わせ腹の底から声を振り絞る大勢のサポーターがいる。掛け声はやがてメロディーに変わる。老若男女が同じ色の同じデザインのマフラーを同じように左回りに振りかざしながら応援歌を歌う。そこで、彼は自分も同じように何かを振りかざし、同じ歌を歌ってみたいと思う。はじめは小さな、いや、声にならない声で口元を動かすだけかもしれない。恥ずかしさから体の動かし方も遠慮気味になっているに違いない。しかし、ひとたび彼がスタジアムとのシンクロニシティー(共時性)による心地良さを感じるや、彼の歌声も体の振り方も次第に大きくなる。現実世界を離れ、社交の世界に本格的に身を移し「社交的人間」となる瞬間である。そうやって、彼は、スタジアムの社交様式に自分を従わせることで、初めてスタジアムの社交形式の魅力を享受する。

   もし、サポーターの様子を気恥ずかしく感じたり、見下したらどうなるか。無論彼にはスタジアムの社交を自ら否定する自由が保証されている。だが、その時は社交からの魅力を受け取る事はできない。彼にできる事は、スタジアムを立ち去り社交から離脱することのみである。苦々しい顔、周囲を見下した顔をしながらスタジアムに居続けることは許されない。そうなると彼はもはや社交圏としてのスタジアムにとって、社交を損なう「遊戯破り」の元凶でしかないからである。

   贔屓のチームが、相手方からボールを奪った。サポーターの歌が止み、少しばかり冷静になって回りの様子を見ると、実はさまざまな関心を持った会話が飛び交っていることに気づく。右斜め前の男性は仕事の愚痴らしきことを話している。真後ろの男性は彼の目の前で起こるプレーにひとつひとつ説明を加える。隣に座る女性に聞かせているのだろう。手拍子と歌がやむと、スタジアムは一時の弛緩を迎える。

   その時、味方の背番号7番がドリブルで中央を駆けあがる。7番の前方には大きなスペースがあり、2人のフォワードが前方で7番のパスを前方で待ち構えて、チャンスと見た左右のアウトサイドのディフェンダーがライン沿いを疾走する。得点の予感に、好き好きに会話をしていた観客の注目はグラウンドに集まる。フォワードにスルーパスを送るのか、疾走する左サイドバックがクロスをあげるのか、それとも…。ただひとつ確かなことは、観客のあらゆる想像のベクトルは、すべてゴールの一点にむかい重なり合っているということだ。

   気がつくと、彼は両の拳を突き上げ、咽喉の奥が痛むほど叫んでいた。スタジアムのほとんどの観客がまるで打ち合せていたかのようにまったく同じ瞬間に拳を突き上げた。咽喉が痛むような彼の叫び声をかき消すように、サポーターの歓声は足元から地鳴りとなって沸きあがった。背番号7番はドリブルからそのままロングシュートを放ったのだ。シュートはまるで弾丸のようにゴール右上に突き刺さった。

   彼は不意に肩を叩かれた。振りかえると、先ほどまで逐一グラウンドの様子を説明していた男性が隣の女性の肩を抱きながら、興奮した表情で話しかけてきた。本当に先ほどまでの理知的な語り手と同一人物なのだろうか。良く見ると、女性も同じ表情をしている。どうやらこのシュートばかりは説明不要であったらしい。

   その時彼は自覚する。「わたしは今確かにこの試合の一員なのだ」と。得点の余韻覚めやらぬ中で彼は、いよいよ遠慮気味な社交の傍観者であることを捨て、自ら完全な社交の参加者となる。

   一旦スタジアムの社交が与える魅力の虜になったならば、彼はむしろ社交圏内にいながら様式に従おうとしない人間を恥ずかしい存在としてみなすであろう。いよいよ彼は与えられるだけの存在を脱し、社交圏に力を与える存在となるのだ。

   限られた社交にはやがて終わりが訪れる。観客はまたそれぞれの個人的社会的現実へと帰って行く。だが、彼らはまた社交の場へ戻ってくる。「ある例外的状況の中に一緒にいたという感情、世間一般の人々から共同して抜けだし、日常茶飯の規範を一旦は放棄したのだという感情は、その遊戯が続けられた時間を超えて、後々までその魔力を残すものである」(10)からだ。

   スタジアムは固有の空間を有するので、そこに「生の臨場感」が生まれる。人々はスタジアムでしか受け取ることが出来ない魅力をもとめて、そこに集まってくる。個別性を持ったスタジアム空間と直接身体的に参加する人間の交流こそが、スタジアムの社交が与える最高度の魅力の源泉である。スタジアムは「遊戯的社交」の原理によって局所性を持つにいたるのである。

   われわれが社交という形式に対して、自己目的的に夢中になるのは、全体的な現実社会の生活内容の飛び地に自らを置き、その形式自体が与える魅力を「生きることの歓び」として感受できるからだ。人々は社交により、自分たちが社会を形作っているのを楽しむという感情や満足を味わう。洗練された社交は「芸術」にまで高められる。それをホイジンガは、遊戯世界の聖化ととらえる。社交という様式を追求しそれを芸術、文化にまで高めるとき、人はそこに「遊戯的社交のダイナミクス(力動性)」を体感する。

   なにより、社交の魅力を受け取ろうとする人々は、自発的な意思によって社交の厳格な様式に従い、互いに社交の魅力の源泉に力を与え、その魅力を享受する。「遊戯的社交」は現実世界を源泉とした独立形式の自己目的性と人々相互の関係性に立脚し、人々にエロスの感受を実現させる、社会の共同性の在り方なのだ。その点において、スポーツはそれを実現させる内容と様式性を兼ね備えた領域であり、スポーツの「遊戯的社交性」が、現代社会の共同性の在り方にとって大きな意味を持つのである。

  1. 「社交」ジンメル.G『社会学の根本問題』清水幾太郎訳、岩波文庫、1979、74頁
  2. ホイジンガ.J『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳、中央公論社、1963、26頁
  3. 前掲書、29頁
  4. 「全体としての人間」(「社交」ジンメル.G『社会学の根本問題』清水幾太郎訳、岩波文庫、1979、76頁)
  5. 「社交」ジンメル.G『社会学の根本問題』清水幾太郎訳、岩波文庫、1979、72頁
  6. ジンメル.G「闘争」『社会学 上巻』居安正訳、白水社、1994、262頁
  7. リーヴァー.J『サッカー狂の社会学』亀山佳明/西山けい子訳 世界思想社、1996、14頁
  8. ギデンズ.A『近代はいかなる時代か』松尾精文/小幡正敏訳、而立書房、1993、34頁
  9. 遊戯の時間的制限よりさらに強く目につくのは、遊戯の空間的制限である。<中略>現実から切り離され、それだけで完結しているある行為のために捧げられた世界、日常世界の内部に特に設けられた一時的な世界なのである。(ホイジンガ.J 『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳、中央公論社、1963、26頁)
  10. ホイジンガ.J『ホモ・ルーデンス』高橋英夫訳、中央公論社、1963、30頁

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