(宮城教育大学大学院教育学研究科・修士論文)
スポーツを媒介にした 「地域リアリティー」形成についての一考察

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第3章   <身近さ>としての「地域リアリティ」の形成

   まず、近年放映されたアディダス社のコマーシャルを紹介したい。子どもがベッドの上で、ボレーシュートを試みる。次のシーンでは、子ども達に囲まれながら、軽やかにボールを扱って見せるディビット・ベッカム選手(イングランド代表、マンチェスターユナイテッド所属)が登場する。サッカーを愛し、スター選手に憧れる子どもと、その憧れの的であるベッカム。コマーシャルの最後には「FOREVER SPORT」の文字が現れ、対比的に描かれた子どもとスター選手の繋がりをを表している。

   この時コマーシャルの子どもは、サッカーを愛する純粋な気持ちを持ったすべてのあなた、に置き換えられる。コマーシャルに込められたメッセージは、あなた(子ども)とベッカムを結び付けているのが当社製品なのだ、ということだが、このコマーシャルは、スポーツを紐帯とした関係性が空間的距離を超越したものとして形成されることをよく表している。

   社会は、人々がただある場所に居を構え、集合的に生活しているという事実だけで、成立するものでないということは明らかである。

   社会は客観的事実として存在すると同時に主観的事実としても存在する。個人は、彼が帰属すると考られる社会に対し、主観的事実の存在を外在化しながら、同時に彼を取り巻く世界の客観的事実を内在化し、主観的事実として理解していく。その過程は、社会の外化、対象化、内在化の三つの契機からなる不断の弁証法的過程としてとらえられる。すなわち、社会が持つ客観的事実性は、実は主観的正当化に依拠して成立しているのである。

   現象的社会学の第一人者であるペーター・L・バーガーとトマス・ルックマンが言う正当化(Legitimation)の過程は、すでに制度化された外在的世界を、対象化しその意味に認知上説明可能な客観性としての妥当性を付与することによって、「主観的にもっともらしいものにする」過程である(1)。

   それゆえ、地域社会の成立というモメントにおいては、住民がその地域に対してどのような現実感覚を抱くことができるかが、決定的に重要なこととなる。ここでは、その現実感覚を「地域リアリティ」として考えたいと思う。

   「地域リアリティ」とは、ある地域の住民が帰属する地域社会が、彼ら自身によって内面的に正当化された心的状態を指す。「地域リアリティ」が認識された時、地域社会やその構成員である他者は身近な存在として承認されている。

   このとき、地域リアリティに付随する<身近さ>の感覚について、私は空間的な近さと心的な近さが並立共存する状態を指すと考える。そのうち、後者の心的な近さを形成するのは情報やイメージの共有度合である。相互「現認(アイデンティフィケーション)」(2)は相手の世界の内在化によって成立するが、相互に共有する情報の質と量によって、現認の可能性は上下し、より容易に進むことも期待される。そこで、<身近さ>を形成するために、現代社会において人々に共有される情報として、スポーツは極めて積極的な意味を持っている。それはスポーツが本質的に直接的な身体の参集の機会を生み出すからである。また、スポーツは概念上無限界に広がる可能性を有しているからでもある。

   このことを、あるスポーツファンの立場から見てみよう。

   浦和レッドダイヤモンズは、1999年11月27日のJリーグ対サンフレッチェ広島戦で延長勝ちとなり、勝ち点3を取る事が出来なかったため、1999年の年間順位で15位、(下から2番目)となり、Jリーグに初めて導入された降格制度によって、ディビジョン2(2部リーグ)に降格することが決まった。Jリーグ一の観客動員数を誇る人気チームである浦和レッズの降格は、センセーショナルに報道された。その際非常に印象的だったのは、試合終了後力なくうな垂れる選手たちに、サポーターが送った「We are REDS!」の掛け声であった。

   たとえば声援を送るとき、われわれは「がんばれ○○○」と言い、好きなチームへ愛情表現をするとき、われわれは「俺たちの○○○」と言ってみたりする。いずれもこの時、サポーターはチームを他者として認識していることがわかる。「We are REDS!」なる叫びは、レッズがサポーターを含めた包括的な存在として認識され、サポーターたちもレッズの一員であると自己を認識していることの表れである。このようなチームとファンについてのアイデンティフィケーションは、従来の日本スポーツ界には存在しなかったのである。

   スポーツを「見る」人は、スポーツを「する」ことができないために離脱した人として認識されてきた。例えば、学校体育の場面では病気やけがなどの理由による「見学」がある。体育の「見学」といえば、校庭や体育館の片隅で授業の様子を黙って眺めているか、用具の出し入れなど教師の手助け役をさせられることがまず思い浮かぶ。

   沢田和明は、学校体育における「見学」を通して「見るスポーツ」の文化についてアプローチをし「見学者の悲惨な実態」を指摘している(3)。これによれば、見学は「能力成長の阻害」や「ずる休み」として否定的にラベリングされているという実態がある。スポーツを「見る」側は「する」側として選ばれなかった人間として序列化され、「する」立場と「見る」立場の乖離が発生する。また、体育の授業では各競技の「やり方」は教えても、スポーツの「見方」を教えることは皆無である。

   プロスポーツ選手は特定の高度な競技能力に秀でた人間としてファンとは一線を画す立場であることが要求されるが、一方で沢田が指摘する「能力の低い自分を卑下したり自分より能力の低いものを軽蔑したりする風潮」もまた、選手とファンの間に横たわっている。すなわち日本では選手が文字通り選ばれた一握りの存在であるとともに、ファンは選抜からもれた価値の低い存在であるとの認識により、選手とファンとは主従に結ばれ乖離した関係が形成された。そのときスポーツファンは片隅で授業の様子を黙って眺める「見学」の延長線上に位置していたのである。

   そのような日本におけるスポーツ観戦の文化的未成熟の状況は、1990年代にアメリカやヨーロッパの観戦文化が紹介されてから大きな変容を見せた。その変容とは、「見る」側の立場が確立し、選手とファンとの間が対等な水平的関係へと移行してきたことである。

   例えば、「サポーター」はその言葉どおりチームを支援する存在と考えられている。サポーターは自分が支援するチームに対し並々ならぬ愛情を注ぎ、それを実際にチケットやグッズの購入という行動で表現しクラブの経営に貢献する一方で、ひとたびチームが不甲斐ない状況に陥った時は容赦なく抗議の態度を見せる。このことは、本質的には異質の立場にあるクラブと選手監督、そしてサポーターが、支え合いつつ、相互に役割の遂行責任を要求する対等の関係にあることを示している。その際サポーターはクラブにとって非常に重要な存在として認識されているとともに、見る側としての応分の責任もまた要求されているのである。

   浦和レッズのサポーターは、熱狂的な応援とともに、クラブへ厳しい態度を見せることでも有名である。Jリーグ開幕当初、チームが成績不振を繰り返した時、サポーターは盛んに抗議行動を行った。監督やクラブの社長に対する抗議の横断幕を掲げたり、試合終了後に競技場に居残るなどの過激な行動は、稀ながら暴力や破壊を伴って行われたため、そのことだけで彼らを「フーリガン」と称する誤ったレッテル付けもあった。レッズサポーターが取る態度は、サッカー文化の一部としてヨーロッパから移入した新しい概念が根付きつつあることの証左である。

   またクラブ側は、クラブ創設当初からサポーターをクラブにとって重要な存在と位置付け、サポーターづくりのさまざまな仕掛けを行ってきた。浦和レッズは、サッカーを「する」側である選手やクラブと「見る」側のサポーター双方の相互現認と歩み寄りによって、従来の主従、垂直的関係を脱却し、対等、水平的関係を確立した。そこでなにより重要なことは、水平的関係の確立こそが、サポーター自身の結束や行動力をもたらし、選手、クラブ、サポーターの一体感を生み出したことである。しかも、レッズの存在がそれまで地域の個性に乏しかったと言われる浦和の独自性を創りあげたのである。すなわち、浦和レッズは概念上そのサポーターや地域住民までを巻き込んだ包括的なクラブとして、浦和の地域に根ざすことに成功したのである。

   「We are REDS!」なる叫びは、新しいスポーツ文化の定着が促進した<身近さ>の相互現認によって形成されたクラブの一体感が生み出したのである。

   R.D.マッケンジーはコミュニティの基本的性格について、「単に人々の集まりであるだけでなく、制度が統合されたものである」(4)とする。そのことを踏まえてコミュニティを現象学的に捉え直すと、各構成員によって構成員相互の世界像の認識が実現し、構成員が共有し合うルールが、多数の構成員によって現認され正当化された社会の状態を指すと考えられる。

   マッケンジーは余暇を「ロマンチックな衝動」(5)として、地域や家庭のあきあきした生活からのがれようとする願望であるとする。現代におけるコミュニティの形成を顕わなものとする日常生活の営為は、ある特定の関心によって集う限定的な場と時間に限られる。それがスポーツを媒介としたコミュニティの場合、例えばスタジアムと場として確立しているのである。

  1. P.L.バーガー/T.ルックマン『日常世界の構成』新曜社、1977、157頁
  2. 前掲書、220頁
  3. 沢田和明「見るスポーツと教育」杉本厚夫編『スポーツファンの社会学』世界思想社、1997、72―88頁
  4. R.E.パーク/E.W.バーゼス他『都市』大道安次郎、倉田和四生共訳、鹿島研究所出版会、1972、112頁
  5. 前掲書、115頁
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