五貫島観音さん
初詣
大晦日から元旦に、顧問、地元区民があけないので、新しく町内に加わった体育部の有志が開ける。2004/12/31〜2005/1/1。
本尊 石像 観世音菩薩
五貫島観音様の功徳は
諸々の苦難除去 現世利益 病気平癒 智慧や才能授与 子授け 希望成就 開運授福 霊魂や先祖の成仏 罪障消滅 極楽往生 等幅広い。
五貫島は、日本三大急流河川の一つに数えられる暴れ川の富士川の中州で出来た土地の一つ。
【有難】
観世音菩薩(元をただせば釈迦)のお経(教え)は、人生は有難と説き、『有難う』と『感謝』だった。
【祈りと願い】
祈りとは本来、『意(い)』に『宣(のり)』と書きました。
意宣とは、「神仏の意を寿ぎ(ことほぎ、言祝ぎ)祝福する」、つまり「あなたの望むように生きます」が本来の意味でした。
願いとは、「ねぎらい」から来ています。
ねぎらいとは、「お陰様で、いろいろお世話になって有難うございました。」とお礼をいう感謝の心。
○○をしてください、と要求を叶えてもらう(請求書の発行)ものではなく、お礼を言う(領収書の発行)ことなのです。
【邑人のこころ】
五貫島邑(五貫島地先)の民は、永年観音様を寿ぎねぎらい、お互い寄り添って、助(救)け合ってきました。
創建年月日由緒
その昔富士川が暴れだすと、川幅は本流支流で15kmとも20kmともいわれた。特に、富士川河口に位置する五貫島は富士川の水害とは背中合わせの土地で、台風、地震、津波、大雨のたび田畑は勿論家をも流されて来た。土砂に埋まった田畑の開墾に明け暮れた苦節の日々でした。
五貫島邑のみならず加島村の安住を願い、富士川の激流の犠牲になった魂を鎮魂するために観音様を1751年代に建立して祀ってきました。
現在の観音像は1861年に建立したもの。
そして、盂蘭盆の8月16日にその施餓鬼法要と祭りを行っている。
今祀られている観世音菩薩様は、安政2年の大地震で流されてしまってため、その後邑の世話人たちによって建立しなおされたものです。
昭和19年、陸軍の飛行場を建設するために五貫島地先から宮島地先、柳島日東、富士平垣などに強制移転されてしまいました。
現在の観音さんの社は、元県知事の斎藤家のお稲荷さんの社をもらい受けた。1.5坪弱程度と小さいが建築資料としても貴重な建物のようです。
祭りは昭和36、37年頃までは盛大に行われ、青年団の踊り、舞台もあり、恋も生まれたり、近隣から陣中見舞に来た青年団同士の喧嘩もあり、人盛りで肩をぶっつけあいながら行き交いなかなかのものでした。各家庭では親戚知人を呼び宴がありました。
だが、皮肉なもので世の中の景気がよくなりバブルが始まると共に下火になり、施餓鬼のみとなってしまいました。
我々子供にとって、観音さんの祭りはこのうえなく楽しみでいい思い出でした。
昭和52年当時区長(町内会長)であった北島貞治氏と志田一利体育部長を中心にした青年有志(後の五貫島観音様壮年部)の意見が合い『子供たちに思い出を』ということから、五貫島観音様青年部主導で模擬店などを出し、祭典の基盤をプロデュースをして祭りを復活。同時に3月に創作した観音太鼓を披露しました。昭和53年からは小学生も加わる。
当時の五貫島観音様青年部
志田一利、齋藤光弘、杉山保雄、石田幸義、鈴木祐一、齋藤一、秋山幸雄
祭典当日、志田敞巨他数名模擬店協力
祭り再開時に子供奉納相撲も復活して、祭り前の10日ほどの練習であったが、一時は市内の相撲大会で学年別、団体、個人別と総なめにした期間がありました。今は子供たちに相撲が受け入れられなくて平成14年に土俵を取り壊してしまった。
開墾魂、開拓魂の心を持つふるさとです。子供たちに「ふるさとのこころ」を思い出されるような街にしたいものです。
模擬店は平成1年より青年部が指導のもと班長さんたちが仕切り、町内の祭りとして続いている。
おこもり堂建設 昭和55年8月16日 世話人会発足 世話人 :漆畑政男・鈴木栄一・齋藤清一・齋藤久米男・ 建設委員:漆畑光雄・北島貞治・大石信一・志田勇・志田一利 (図面下書き・建築進行;志田一利、設計;逢生 裕、棟梁;渡辺沖陳) 世話人会規約交付昭和55年9月1日 |
神社調上申請書より
静岡県管下駿河国富士郡五貫島村字道悦
観音堂
一 本尊 石像 観世音菩薩
一 創建年月日由緒
観音像 台座から |
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訳 |
一 堂 間口2間 奥行き2間
一 敷地坪数 33坪 民有地第一種 宅地 持主 斎藤鉄三
一 信徒 162人
一 静岡県庁まで 距離8里20町
以上
右之通相違無之候也
信徒総代
明治19年3月
斎藤 鉄三
鈴木 甚助
静岡県知事 関口 隆吉殿
駿河国富士郡五貫島村字大道下315番
一 境内33坪 観音堂
*江戸時代は自然発生的に町や村(邑)が出来たようで、五貫島邑は加島村だった。114年前の明治22年(1889)「明治の大合併」の時、加島村を離れて、宮島邑、川成島邑、柳島邑、前田邑、鮫島邑といっしょになって田子浦村に入った。その後五貫島は上五貫島と下五貫島に分かれた。
元をただせば上五貫島だけではなく宮下、森島の観音さんでもあるといえる。
観音様
観世音菩薩の観世音とは「世の音を観る」と書き、一切の人々の声や願い事を良く見抜かれるという意味です。我々日本人にとって一番身近な仏教の菩薩が観世音菩薩、通称観音様ですよね。宗派を問わず仏教界の元祖癒し系スーパースターと云っても良いかもしれません。観音が最初に仏教の経典の中に現れてくるのは、法華経観世音菩薩普門品第25(通称観音経)においてです。この観音経が観音信仰のルーツとなります。
観世音菩薩というのが正式な名称で、般若心経の出だしに出てくる観自在菩薩という名称は玄奘三蔵(7世紀)が訳した新訳と呼ばれているものです。
観音経にはお説教は全くと云って良いほど出てきません。中心になっているのは、観世音菩薩への賛歌と、観音様のご利益の話。ただただ、困ったときに観音様の名前を一心に称えれば(一心称名といいます)、降りかかった危難を救ってくださり、大概の願いを聞いてくださるという大変にありがたい存在であります。そして、諸々の不安を一掃してくれて、無限の安心を与えてくださるという存在でもあるのです。畏(おそれ)無きを施す者、施無畏者(しむいしゃ)というのが観世音菩薩の別名になっています。いわば、なんでも願いを聞いてくれて、無限の安心を与えてくれるお母さん、と云ったところでしょうか。
一心称名は「念彼観音力(ねんかれかんのんりき)」という有名な言葉で観音経の中に出てきます。
自分の中の潜在意識の中に観世音菩薩はいらっしゃる・・・・・という事なんでしょう。
そして、「念彼観音力」は自分の潜在パワーを発動させる一つのチャンネル、方法論なのでしょう。一見他力本願のように見えるが、むしろ究極の自力、正に自力と他力の融合といったところかな。
観世音(観音)とは、世間の人々の悩める声(音)を観じ(聞き)、救済の手を差し伸べると云う意味で、三十三に姿を変えて信仰者のあらゆる災難を除いてくれるという大慈悲を表している。
菩薩とは、仏の悟りを求めて修行する人のことをさす。発心即菩薩と言われるように、仏道を志した人はすべて菩薩である。
本来は釈尊の修業時代をいったものだが後には釈尊前世の修業時代も併せて意味することになり、さらに大乗仏教では仏と同じ境地に達したいと修行に励み、それと同時に慈悲に基づいて衆生救済の努力を惜しまないものはみな菩薩と呼ばれるようになった。
観音様の功徳は
諸々の苦難除去 現世利益 病気平癒 智慧や才能授与 子授け 希望成就 開運授福 霊魂や先祖の成仏 罪障消滅 極楽往生 等幅広い。
正式名称
観世音菩薩又は観自在菩薩
他に意訳で光世音、観自在、観世自在、観世自在者等と訳された場合がある。
旧訳では観世音と訳される。「世の中の衆生の声・音を聞き観じて、直ちに救済して下さる」という意味。
新訳(7世紀、玄奘三蔵以後)では観自在と訳される。
「観る事に自在な」という意味。
旧訳新訳ともに、「観る」には「認識する」、「洞察する」というような意味がある。