あれから半月近くが過ぎて…
どうにもならない後悔でグチャグチャになってしまった私だったが、ようやく少し落ち着いて、それでもあの1月の日に篤人さんが父に会いに来てくれただけでもよかったと思えるようになってきた。
そのあと、母が篤人さんにメロンなど送ったり、父もワープロで打った手紙を送ったり、何度がやり取りがあったのだ。それだけでも良かった。本当に。
――そんなことすらも思えないくらい、私の中では後悔の気持ちばかりがふくれあがってしまって、何をしていてもそのことばかり考えてしまい、洗濯物を干しながら突然涙がじわっと出てきたりしたのだ。車の運転をしながらも、気が付けば考えるていのはそのことだった。
熱海へ行けば気が済むと思っていた。
父も母も、私が行ってくれて肩の荷が降りたようだと言ってくれた。やはり、行かないでいたらあっちゃんに申し訳ない、とずっと思い続けただろう、と。
行ってよかったと思った。しかし、あの時会いに行けばよかったという気持ちは一層強く大きなものになって私を苦しめることになってしまった。
ほとんど一日中、頭から離れない。何をしていても心ここにあらず、と自分で感じてしまう。子どもたちにもいいかげんな返事をしてしまう。もう、この後悔はずっと消えることなく続いていくのだろう。
私にとっては遠い存在の篤人さんだった。しかし父にとっては4歳年下の従弟であり、昔、父が東京の工業学校へ通った時に篤人さんの家に下宿していたこともあって(その当時父は16歳、篤人さんは小学6年生くらい)、何十年会ってなくたって「あっちゃん」という身近な存在だったのだ。
戦争中、篤人さんは天竜市に疎開してきていて、浜松北高(旧制中学のとき)へ通っていたそうだ。その時、よく父の実家へ遊びにきたらしい。浜松、天竜、熊切…東京生まれの篤人さんにとっては、間違いなく第2のふるさとだったことだろう。(浜松北高の同窓会にはいつも出席していたそうで、1月に父のところへ来てくれたのは、その時に思い立って足をのばしてくれたようだ)
楽しみだった年賀状
唯一、私が直に篤人さんの言葉を感じ取れるものは、毎年父のもとに届く年賀状だった。住まいを東京から湘南に移し、数年前に熱海へ引っ越してきた。「だんだん近くなってきたね。」なんて母と話したものだ。
そして、熱海に移った頃からか、篤人さんは年賀状に『清ちゃん(父のこと)には一度会いたいと思っています。』と書いてきた。そのひとことは、私にとってもなんだかうれしいものだった。
ところが去年、篤人さんから届いた年賀状には、ワープロで綴られた文章だったが、今後年賀状を出さないことにする、ということが書かれていた。何かあった時は知らせる、と。
それを読んで母はがっかりしていた。私だって同じだ。年に一度きりのことなのに、それすらもやめちゃうなんて…。もう、接点がなくなっちゃうね、と。
そして次に篤人さんから届いたのは喪中のはがき。私はそれを見ていないが、九州に住んでいた篤人さんのおとうさんが去年亡くなられたのだそうである。―父が東京にいた頃、もちろんお世話になった篤人さんのおとうさんであるが、その後篤人さんの両親は離婚して、おとうさんは九州へ移っていたのだ。…篤人さんの母親が、私の父の叔母である。
――もう今後年賀状は出さない、と書かれた年賀状が、本当に最後のものになってしまった。しかし、「清ちゃんには一度会いたい」という言葉は、それが約束であったかのように果たしてくれた。浜松からバスに乗って…。あんないなかまで…。
あの日、車で熊切へ行って、帰りは私が掛川の新幹線の駅にまで篤人さんを送ってあげればよかった。―そんなことばかり悔やまれてしかたない。
あの日の帰り、バス停まで父が車で送っていったそうである。バスが来るのを待つ間、コートを着てすっと立った篤人さんはすてきだった、と母が言っていた。
「あの晩は当時(50年も昔、東京に住んでいた頃)の思い出が次から次へと走馬灯のように浮かび、頭が冴え、朝方まで寝付かれませんでした。」と、父がワープロで打った篤人さんへの手紙を、母が私のところへファクスで送ってきた。
「夏になれば鮎の季節にもなり、朝晩は涼しくしのぎやすいので、またおいでください。時間の打ち合わせができれば、天竜までお迎えに伺います。」
…こう結ばれた父の言葉が、夏には本当に実現するものと信じていた。実現してほしかった。でも、もう永遠にかなわない。
いつか、文章についても教わりたい、と思っていた。しかしそれも、叶わぬ夢となってしまった。
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