「窪田篤人先生を偲ぶ会」
棺の中で静かに眠る篤人さん。…私がこの世で篤人さんに会った最初で最後の瞬間が、このような形で訪れるとは。生きているうちに、せめて一度でも会いたかった。
父に会いに来てくれたあの1月の日に、もし私が会いに行っていたら、篤人さんのことをなんて呼んだかなあ。…と考えた。たぶん「おじさん」と呼んでいたかな。そこから始まっていただろう新しい人間関係のことを思うと、すごく大切なものをみすみす失ってしまったという気がしてならない。
母も、「大事な財産をなくしてしまったという気がする。」と言っていた。
お経が唱えられたあと、お焼香。この儀式もその日の朝になって急遽決まったことなのだそうだ。ちょっと複雑な事情があるのだ。
手をあわせながら篤人さんの写真を見ると、ジーンズのシャツジャケットのようなものを着て、とても若々しい雰囲気だった。
そういえば、『新宿ムーランルージュ』という本のあとがきに、『私は新しいジーンズをはいて、次の旅にでかけようと思っている。』と書かれていた。…きっとふだん、ジーンズをかっこよく着こなしていたんだろうな。―と思った。
約1時間半後。
篤人さんのお骨を拾う。生前、なんの関わりもなかった私が、こんなふうに篤人さんのお骨を拾うなんて…と不思議な気持ちになった。まち子さんたちはやはり泣いていた。私は涙も流れない。胸がしめつけられる思いがしても、篤人さんのために流れる涙がない。思い出がない、ということが悲しかった。
その後、タクシーで「偲ぶ会」が開かれるお店へ向かう。篤人さんが行きつけにしていたお店らしい。
私は知っている人もいないし、まち子さんたちのあとにくっついてすわって、篤人さんの思い出話をたくさん聞かせてもらおう、と思っていた。
私はいちばん端っこの席。いつつ向こうの席には、長塚京三さんがすわっているのだった。
友人代表の柳沢さんという方が、この会の進行役をつとめる。
「あとでひとりずつ、先生の思い出を語ってもらいます。」…えっ? 一瞬びびった。長塚京三さんや、お仕事関係の人たちや、脚本を勉強しているお弟子さんたちの前で、私もしゃべれって言うのォ?―まち子さんが「父の代理で来たからわかりませんって言えばいいのよ。」とおっしゃる。
う〜ん。篤人さんとの思い出は語れないが、父の代理として来たからには、語るべきことはある。
「じゃあ、そちらの方から。」と、はしっこにいた私が最初にしゃべることになってしまった。まち子さんにいわれた通り、今日ここへ来れない父や母の代理で来たことから話し始めたのだが、しゃべってるうちにアガッてしまって、1月に篤人さんが父に会いに来てくれたことを話したかったのに、話しそびれてしまった。
お弟子さんという人の話で、篤人さんがシナリオスクールの講師をしていたということもわかった。「先生はあこがれの的でした。」って。初めて会ったとき、50歳くらいかと思ったという話だった。(その時、60をとうに越えていたのに)
長塚京三さんのお話は、いきなり「僕はあまり世話になっていません。」…長塚さんて、TVで見る通りの人だ。TVではこんな感じだけど、実際は…というのではなく、TVそのままの人。背が高くて、ちょっとこわい表情で。
「先生よりずっと年下なのに、いつも友だちのように接してくれた。…ひとつ言えることは、先生は他人の悪口を絶対に言わない人だった。僕が酒の席で『あいつはバカだ』などと言うと、先生は『そうやって言うのはよくないよ。』とたしなめてくれた。」…長塚さんはそんなお話をしていた。ドラマで見るのと同じ感じだった。
幼なじみという友だちは歳相応に見えるのに、写真の篤人さんは若い。でも、実際若々しい人だったらしい。おしゃれだった、とまち子さんも言ってた。海がとても好きで、将来船乗りになりたいと言っていたそうだ。なのに、物書きになるなんて…と友だちが言っていた。
いろんな人の話を聞くうちに、私の中で篤人さん像がだんだん形のあるものになってきた。表情や動きも感じられるみたいな気がしてきた。
帰りの新幹線の中で、朝から起こっためまぐるしい出来事のひとつひとつを思い出しながら、あらためて私は「あの時会いに行けばよかった」と思わずにはいられなかった。そして、「こんなふうに接してくれたんじゃないか?」――と考えると、自然に涙が出てきてしまった。篤人さんの人生の最後の一瞬に、私は関わることができたのではないか?――そう考えてもいいだろうか?
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