第四章
一
総統暦一一一年四月一一日
一九時二七分
ランツェスガーテン管制室
「だいぶ苦戦しているようだな」
総統の言葉に、警護部隊の隊長は口ごもった。
「……」
「そうではないのか? この画面を見る限りはそのようだな」
管制室のモニターには、このランツェスガーテンを見下ろした図が表示されていた。菱形の敷地、その中央には四角い建物。そしてその周囲に、赤い点と青い点。青は味方、
赤は敵。
赤はたった一つしかないようである。だか、とてつもない速度で移動し、青を翻弄している。建物の周囲を走り回り、次々と青を消滅させていく。
「敵はアインヘリヤルですね」
アルベルト・アズマが、相変わらずの陰気きわまりない声で言う。
「間違いないな。それも第二世代型だ。そうでなければ、ここまで第一世代型が手玉にとられるわけがない。ああ、隊長、そう恐縮することはないよ。敵が第二代型だとすれば、君たちが苦戦するのは別段おかしなことではない」
「アーデルハイド・シュタインローゼ実験体が、リヒテン・フェーヌスに加わっているという情報はやはり事実だったのですね」
「ああ。アズマ君、これは君のミスだよ。情報収集はSSの重要な任務だ。君はそれに失敗した。違うかね」
「その通りです」
「ふむ。なかなか素直だな。まあいい。それは後でいいだろう。まずは敵を撃退することだ」
「第二世代型を出すことのですか」
「それしかないだろうね。不出来な姉を、優秀な弟が倒してくれるのさ。世の中には出来損ないの姉をかばう弟もいるらしいがね」
アルベルト・アズマの表情には、やはり変化がない。顔色を変えないまま、彼は言った。
「その不出来な弟……エルンスト・アズマが襲撃部隊に加わっている可能性があります」
「ほう。攻めてきたのはアーデルハイドだけではないと?」
「ええ。この画面を見てください。建物の周りを走るだけで、中には入って来ない。怪しいではありませんか」
「なるほどな。陽動の一種ということか? で、本隊どこからどうやってくるのだ」
アルベルト・アズマは無言で天井を指さした。
「上? 空か」
「ええ。おそらくは」
その途端、モニターを睨んでいたアインヘリヤルの一人が報告した。
「上空より敵襲。グライダーによる降下部隊。数は三十名ないし四十名」
「ただちに迎撃しろ!」
総統は眼を丸くした。
「大したものだな、アズマ君。やはり弟の考えることはよくわかる、ということか?」
「いいえ、ただの消去法です」
アルベルト・アズマは思った。
弟の考えることがわかる、か。
ああ、確かに判る。
エルンストが姉にどんな感情を抱いていたか。そしてその姉を私に殺されて何を思った。なぜ収容所を脱走し、レジスタンス組織『リヒテン・フェーヌス』に加わったのか。なぜ戦闘訓練を受けたのか。強大なアインヘリヤル部隊に守られたこの場所に、なぜ死を賭して乗り込んできたのか。
ああ。わかるとも。
だが決めたんだよ、約束を果たすと。
だから……お前のことを理解はしても、賛成することはできない
決して、な。
……お前があれを知ったら、どう思うだろうか? 再びたちあがり、総統と私に銃を向けることが出来るだろうか?
二
総統暦八〇年(西暦一九六八年)
六月
アズマ家
家の中は重苦しい空気が充満していた。
原因は、居間のソファに転がっている赤ん坊。まだ歯の一本も生えていないだろう、本来なら母親のそばを片時も離れるべきでない年齢だ。
それなのに母は、赤ん坊を抱こうともせず、思い詰めた様子で部屋のすみに立ちつくしていた。
つい先日産み落とした赤ん坊を凝視したまま。放っておけば二日でも三日でも突っ立っているかも知れない。父が見かねて声をかけた。
「……どうしたんだ。急にルイーゼを放り出して。まさか、お前……」
「……」
「おい、二人で決めただろ、殺してしまうのは可哀想だって。だから書類を書き換えてまで、ここに連れてきたんだ!」
「あの時はそうするしかないと思ったの。でも考えてみて。この国は、ルイーゼみたいな子の存在を認めてない。生きていくことも認めてない。ルイーゼはずっとこの家に閉じこめられっぱなし、十五になっても、二十になっても、三十になっても、死ぬまでずっと」
「だからなんだって言うんだ? 自分の子供がかわいくはないのか?」
「黙っていてよ! わたしだって、いえ、わたしのほうがきっと、この子をかわいいと思ってる。ほら見て、この子の顔……まだ何もわかってないはずなのに、気品があって、聡明な感じで、意志も強そうで……そうで……」
そこで母親の声はかすれた。音楽家としての鍛錬も、今の彼女の声を安定させるのには役立たなかった。
「……でも、でもっ! だからこそ思うのよ。かわいいからこそ、このまま苦しみ続けるよりはって」
本気だった。父は言葉に詰まる。
「やだよ。ルイーゼころしちゃだめだよ」
かん高い声がした。はっとして部屋の入り口に目をやると、そこには半ズボン姿の男の子がいた。アルベルト・アズマ、九歳。すでに眼鏡をかけている。
「あんた、きいてたの……」
「うん。ころしちゃうなんてかわいそうだよ」
「子供はもう寝なさい。これは大人の話なんだよ」
「いやだ。ぼくがねたら、かあさんはルイーゼをころしちゃうんだ。きまってる。だからねない。ずっとルイーゼをみてる。誰かがころそうとしたら、ぼく、ルイーゼをまもるんだ」
「おまえ……」
「目がみえないからってなんだよ。それじゃ学校の先生たちといっしょじゃないか。ナチスといっしょじゃないか。どんな人間だってしあわせになれるんだって、そういう世の中をつくりたいって、ぼくに言ってたのはうそなの」
「そ、それは……」
「だから。ぜったいころしたりしちゃいや」
「アルベルト、おまえ」
父は目線をアルベルトと合わせた。
アルベルトの灰色の眼には、真剣きわまりない決意が浮かんでいた。
「……わかった。ルイーゼは殺さない。お前の妹、私たちの大切な娘を、誰が殺したりするものか。いいな、母さん?」
「え、ええ」
「そのかわり、言った以上は約束を守れ。何があっても、ルイーゼを守るんだぞ」
「うん!」
生命を救われたルイーゼは、もちろんそんなことなどつゆ知らず、すやすやと寝入っていた。
それからずっと、アルベルトは約束を守り続けていた。妹のことは誰にも話さなかった。なにかを隠しているという素振りも見せない。「障害者を殺せ」という授業には、とりあえず賛成しておく。もし逆らったら、怪しまれることは確実だからだ。
それでいて、家の中でルイーゼに接する時は、アルベルトはそんな暗い部分を見せなかった。お前のせいで兄や親が苦労している、なんてことを教えてどうなるというのだ。
アルベルトが十二の時、もう一人男の子が産まれた。エルンストと名付けられたこの子供はひどく活発な性格で、走り回り、物を壊し、つまみ食いといたずらが大好きだった。本ばかり読んでいたアルベルトとは正反対。けれど、「ルイーゼを守る」と決意したことに関してはまるで同じ。この歳の離れた兄弟は、ことあるごとに誓いを確かめ合った。
ルイーゼは、僕たちの大切なきょうだいだ。
たとえ世界のすべてが、ルイーゼを許さなくても。僕と、弟のエルンストだけはルイーゼの側にいる。
このままずっと、僕は弟と共に、ルイーゼを守って生きていく。それだけでいい。それは僕の義務なんだ。
そう思っていた。
あの日までは。
三
総統暦九六年
六月二十六日
けれどルイーゼが十三歳になったその日、アルベルトは気づいてしまった。自分の中の思いが、守ってあげたいという気持ちが、いつのまにか別の物に変化していることに。
彼女のそばにいたい、彼女と言葉を交わしたい、彼女の心の中を知りたい、彼女の身体に触れたい。彼女が好きだ。
彼はその気持ちを必死に押し殺した。こんなことを思ってしまってはいけないのだ。僕とルイーゼは兄妹じゃないか。妹相手にそんな気持ちになるなんておかしい。人倫にもとる行為だ。
だから、これはただの義務感なんだ。それ以外のものじゃない……彼は来る日も来る日も、そう思い続けようと努力した。妹以外、家の外で知り合う女性を好きになろうと努力した。そして、ことごとく失敗した。彼の心の中にはいつもルイーゼがいた。長い黒髪をもてあそび、もう片方の手でシーツをぎゅっと握っている、世界から見捨てられた少女が。
そのまま一年が過ぎ、二年が過ぎた。日に日にルイーゼは成熟し、美しくなっていった。自分の中にある気持ちを悟られるのが恐ろしい、だから彼はあまり妹に近寄らなくなった。世話は弟のエルンストに任せた。彼はとても喜んで、役割を引き受けた。
さらに一年が過ぎた。六月のある日、アルベルトが廊下を歩いていると。天井裏から声が聞こえてきた。ルイーゼとエルンストの声だ。
ああ、駄目じゃないか、そんな大声を出しては。
次の瞬間、心臓が止まった。
屋根裏から聞こえてくる声。
それは、こんな会話だった。
……ねえさん、ねえさん! だいすきだよ。ずっと、ずっと、ねえさんのことをまもるからね!
……エルンスト、ほんとうにそれでいいの? 私なんかのために。絶対外に出られない私なんかのために、きっと苦しむに決まってるのに。
……いいよ。だってねえさん苦しいんでしょ。一人だけ苦しませるなんて嫌だよ。ぼくも、ぼくも一緒にくるしむよ!
弟も、自分と同じものを胸に抱えていたことをアルベルトは知った。たった一つ違うのは、弟には勇気があったということ。いや、もう一つ。ルイーゼはそれを受け入れたということ。
彼は泣かなかった。憤ることも、弟を責めることもなかった。
ルイーゼがそれで幸せなら、私に何ができるというのだ。常識、倫理、世の中、そんなものを気にしてばかりいた私に。ルイーゼのためなら世界を敵に回してもいい、そう口では言っていた癖に、ほんとうは『常識』ごときに遠慮していた私に。
だから私は納得している。
これで……いいんだ。
四
総統暦九十六年
七月五日
アズマ家の屋根裏
「話って何だい、ルイーゼ」
アルベルトは、実に久しぶりにルイーゼの部屋を訪れていた。
懐中電灯で妹の顔を照らし出す。浮かび上がった顔は相変わらず雪のようだった。
光の円錐をゆっくりと振り、室内を探る。
「……お兄ちゃん、気づいているんでしょう? 私とエルンストのこと」
心臓が弾けそうになった。
「あ、あ、……何のことだい」
「ごまかしたってだめよ。お兄ちゃん鋭いもの、気づかないわけない。それにエルンスト、こっちが慌てちゃうくらいうきうきしてるから。駄目よね、あの子。すぐ態度に出ちゃうの。良くも悪くも素直なのね。わたし、エルンストのそういうところ好きだったんだ」
妹は好きな相手と結ばれたのだ。それなら何を悩むことがある。なにをたじろぐ必要がある。祝福するべきだ。それなのに、この身体の震えは一体なんだ。どうして私の拳は、こんなにも固く握りしめられているのだ。
「……だからね、ナチスにもすぐばれると思うの」
「……えっ」
深刻でも悲壮でもなく、ごく落ち着いた、夕食のメニューを話すような口調で、彼女は言った。
次の台詞も、そんな調子で放たれた。
「その時は私を殺して」
転がり落ちる懐中電灯。妹の顔は再び闇の中に消えた。ただ声だけが闇の中に染み渡り、アルベルトの鼓膜を打った。
「ナチスに捕まったらどうなるか、よく知ってるから。拷問にかけられたり、強制収容所に……違うな、私の眼はこんなだもんね、労働できないよね。絶滅収容所のほうかな。すぐにガス室かな。どう思う?」
震える声で、しかし明瞭な発音で、アルベルトはこたえた。こんな時でも彼の頭脳は勝手に働き、豊富なデータバンクとしての機能を果たしてしまうのだ。
「……身体障害者は、『新T4作戦』に基づいて殺される。注射か毒ガスだ。その前にさんざん生体実験にかけられる。もちろん、その過程で死んでしまうこともある」
「……だから。その前に殺して」
アルベルトは激しくかぶりを振った。
「わたしに……わたしに。そんなことをしろと。できるはずがない!」
「でも、そんな目にあうくらいなら」
「駄目だ……駄目だ……それなら逃げればいい」
「逃げることなんて無理でしょ。ちゃんとした組織を持ってるレジスタンスの人たちだって、次から次へとつかまってるのに」
「わたしが……わたしが連れて逃げる。必ず逃げて見せる」
「……できないって、少なくとも今の自分にはできないって、本当はわかってるんでしょ?」
エルンストは絶句した。奥歯をかみしめた。否定できない。
「この事はお兄ちゃんにしか頼めないの」
その瞬間、アルベルト・アズマの肉付きの薄い顔に、ひとつの表情が浮かんだ。闇の中、誰の目にもとまることがなかったが……それは紛れもない愉悦のそれだった。
ずっと劣等感を感じていた。すべての栄養が脳にだけ集まり、がりがりにやせ細った、あまりに貧弱すぎる、明らかに男性的魅力を欠いているこの身体に。難しい理屈を頭の中でこね回すばかりで、行動できない自分の性格に。
自分と正反対の存在であるエルンストが、光り輝いて見えた。
弟がルイーゼと愛し合っていると知ってからは、その思いは限界にまで高まっていた。胸の中で膨れあがっていくどす黒い思いを、渾身の意志力で押さえ込む日々が続いていた。
それなのに妹は、弟ではなく、自分にこそ「頼む」という。
「本当はエルンストにやってほしいの。最後の瞬間まで、彼にさわっていて欲しいの。でも、私を殺したら彼、一生罪悪感を背負ってしまうと思う。それは嫌。エルンストが傷つくのは嫌。私は彼のこと好きだから。彼も、私の事好きだから」
私もだ。私もルイーゼが好きだ。
その言葉は、身体の中を駆けめぐり……だがしかし、ついに口から出てくることができなかった。
「だから私を殺して。そうすればエルンストはお兄ちゃんを憎むだけで、自分を責めたりしないと思うの」
なんと残酷なことを要求するのだ、彼女は。
だが……それはエルンストのことを心から思っているからこそなのだ、ということがよくわかった。これは死にゆく人間、未来というものを持たない人間の最後の願いなのだ。
それを無視することが、かなえずにいることが、どうしてできよう。
だから、だから。
「わかった。必ず殺す」
その声は、意外に震えていなかった。
「ありがと、お兄ちゃん。それからもう一つお願いがあるの。……世界を変えて」
「世界を……?」
「私みたいな人が殺されないで済む世界を作って」
「世界を……創る?」
「うん。私みたいな人、たぶんたくさんいると思うんだ。私は逃げられなくて殺されちゃうけど、他の人は助けたいなって。ほら、いつまでたってもこんな世界なんて、あんまりじゃない? これは今だけなんだ、いつか変わるんだ、そう思っていたいじゃない。私はそれに間に合わなかったけどって。……そう思ったら、安心して死ねるから」
その言葉には、まさしく祈りそのもののような真剣な思いがこめられていた。
どうしてだ。
どうして、これから死ぬというのに、他の人のことを考えていられるのだ。自分が死んだあとのことを考えていられるのだ。どうしてだ。普通なら、他の人は死んでも自分だけ生きたい、と思うものなのではないか。たとえお前がそう思っても、私は決してお前を軽蔑なんかしないぞ。それなのにどうして。
そこまで思ったところで、アルベルトは気づいた。
ルイーゼはこんな女性なのだ。だからこそ、ずっとこの部屋に閉じこめられていても、自殺することも発狂することもなかったのだ。
そして、こんなにも強い女性だからこそ。私は。私とエルンストは。ルイーゼを。
アルベルトは闇の中で眼をこらした。どんなに凝らしたところで闇を見通すことはできず、妹の顔の輪郭すらとらえることはできなかったが、それでも凝らした。
きっと彼女は、泣いてもおらず、恐怖に震えてもおらず、奇麗な微笑みを浮かべているのだろうと信じて。
「……わかった。必ず創る。そんな世界を。何十年かかっても。絶対に。お前は私の……私の……!
私の大切な妹だから」
五
総統暦九十六年 七月一五日 夕刻
ルイーゼの言うとおり、「その日」はすぐにやってきた。
いま、アルベルトはルイーゼを抱えて、階段に立っている。すぐ目の前には二人のゲシュタポ隊員、そしてその下にはエルンスト。
「妹をアインザッツし、忠誠の証しとするつもりです」
これは誰のことばだろう、ひどいことを言うなあ。心のどこか、現実から逃げようとしている部分が、そう嘆いた。だが、紛れもない自分自身の言葉だった。自分が自分の意志で、自分の口を使って喋った言葉。ルイーゼの願いを叶えるための。
「銃の使い方は知っているな」
「もちろんです」
ゲシュタポの問いに、アルベルトは答える。その間にも、彼は自分で自分に暗示をかけていた。
ルイーゼの為だ、ルイーゼの。
約束を果たすんだ。最後の望みをかなえるのだ。
だから、だから……
冷たい金属の塊が、自分の手の中に滑り込んだ。すでに安全装置は解除してある。もちろん弾も込められている。やるべきことは、もうほとんど残っていない。
……考えた。自分はあの後ずっと、眠れずに考え続けた。その結果は一つしかなかった。世界を変えるには、たった一つの方法しか。
弟が突進してきた。その瞬間、すべての光景が奇妙なスローモーションとなった。エルンストの顔が涙と血に塗れ、苦痛に引きつっていること、歯をむき出していること、すべてが判った。ルイーゼが指を組んで、キリスト教徒のように祈り始めたことも。
自分の手が、プログラムされてあった機械のように動き……拳銃をルイーゼの頭に押し当てる。
そして。
引き金に力をかける。とどろいた銃声。ルイーゼの首が曲がる。耳のあたりに風穴が開き、頭の反対側から脳が飛び散る。踏みつぶされた豆腐のような脳は、階段中にぶちまけられた。
エルンストの突進は、ついに間に合わなかった。彼は糸の切れた操り人形のように倒れ、うめき声を漏らす。
やせたゲシュタポが感嘆の声を上げる。
「素晴らしい。実に見事なアインザッツです」
そうだ、もっと褒めてくれ。もっと、もっと、もっと褒めてくれ。高く評価してくれ。
私にはもうそれしかないのだから。
ナチスの仲間になり、出世に出世を重ねて、極限まで登り詰める。……総統になる。そして、世界を変える。これまでのナチスのやり方は間違っていたと、そう断言して。
そのために、そのためには今は。
耐える……この事実にも。弟の突き刺すような憎悪にも、ルイーゼが生暖かい死体と化したという事実にも。
彼はすべての感情を封じ込め、微笑を浮かべた。それはまさに、殺戮を楽しんでいるかのような表情だった。
六
総統暦一一一年
四月一一日
ランツェスガーテン管制室
一九時二八分
そして、アルベルト・アズマはここにいる。
十五年の歳月はアルベルトの顔色を一層悪くし、頬からすべての肉を削ぎ落とし、そして眼に宿る光を非人間的なものへと変えた。
思想統制。教育法。反逆者狩り。絶滅収容所で、より効率的に収容者をアインザッツする方法。そういったものにアルベルト・アズマは関わってきた。彼は今までに何十万人もの人間を殺しているのだ。
それだけの代償を払った結果、いまや彼は『SS長官』という地位にある。
あと少しだ。あと少しなのだ。総統になる。そして全てを変える。あの日の約束を果たすのだ。すべてはそのために。そう思えば耐えられた。劣等者は殺せ、裏切り者は殺せと叫び続けることも。実際に殺戮の計画を立てることも。その指揮をとることも。忠誠心を試すため、「絶滅対象の女や赤ん坊を自分の手で殺せ」と命ぜられることもあったが、それすら難なくこなした。ほんの少しでも動揺したら、嫌がったら、すべてが明るみに出るかもしれないから。そうしたらルイーゼが死んだことは全くの無意味になるから。
だから彼は仮面をかぶった。冷酷無比な、SS長官アルベルト・アズマという仮面を。その仮面を片時も外すことなく生きてきた。最初はとても苦痛だったが、そのうち仮面が勝手に物を考えて行動してくれるようになった。演技の必要がなくなったのだ。
……たまに、わからなくなる。
実は、こちらの仮面こそが本当の私、私の本心なのではないか?
本当は私は、共産主義者や身体障害者を殺戮して回るのが楽しくて仕方ないのではないか。効率的な人の殺し方を考えるのが好きなのではないか。とっくの昔に、自分はそんな人間になっているのではないか。
それを認めるのが嫌だから、これはルイーゼのためなのだと、妹の願いをかなえるための擬態にすぎないのだと自分に言い聞かせ、だましているのではないか。
だとすれば私は……
……そうさ、本当はお前は殺しが大好きなんだよ。それも、絶対に自分が傷つかない立場をつくりだして、無抵抗な奴をなぶり殺しにするのが好きなんだ。おまけにそれを認めることすらできない。あくまで手段にすぎないってごまかしてる。全くお前って奴は。
『仮面』が、せせら笑うような調子でそう囁きかけて来る。
違う。絶対に違う。
そう反駁するアルベルト・アズマ。だが、根拠はもはやない。すでに彼はいかなる時も仮面をつけていた。仮面に言動のすべてを委ねていた。だとすれば、そちらこそが本質だと言ってしまってなんの支障があろう。
私は……
その苦しみは、数年前からいや増すばかりだった。『仮面』にはひび割れ一つ見られなかったが、その内側では精神の内圧が刻一刻と高まっていたのだ。
「どうした、アズマ長官? 黙りこくって」
「いいえ、なんでもありません」
総統の呼びかけに、アルベルトは答える。
そう、これもアルベルト本人が答えたわけではない。『仮面』が答えたのだ。
……だから、それが自己欺瞞だっていってんだろ。
……黙れ、黙れ。
「何も心配することはないさアズマ長官。『彼』は、あらゆる能力においてアーデルハイドを上回っている。おまけに第一世代型も一個小隊ばかりいるのだ。確実に仕留められるよ。そうだろう?」
「はい、総統閣下」
「隊長もそう言っている。だから……待てよ、君はもしかして、弟を殺したくないのかね。それで迷っているわけか」
「ご冗談でしょう」
その言葉はすぐに出てきた。
「あのような男は弟でもなんでもありません。退廃思想に精神を汚染され、祖国と総統とドイツ民族に弓を引いた最悪の反逆者ですよ。あんな男と血がつながっているかと思うと嘔吐感がこみあげて来ます。妹だけでなく、あの男も私自身の手でアインザッツしたいところです」
『仮面』がそう言った。
声のそのものは平板だが、嬉しさがにじみ出ていた。
いや、これは本当に私の本心なのではないか。そうだ、私は確かに……ずっと昔から……エルンストのことを……
どうしたらいい?
仮面が仮面でなかったとしたら。
そして、先ほど総統から見せられた『聖槍』の記憶。あれがもし事実なら。あれが真相なら。だとすれば私は一体なにをやってきたのだ。
……さっさと認めればいいのさ。殺すのは楽しいって、気持ちいいって。
頭の中に響き渡る『仮面』の声。
「ふむ」
総統はとがった顎をなでた。
「そこまで言うなら、君にやらせてもいい」