第五章
一
総統暦一一一年四月一一日
十九時三〇分
ランツェスガーテン上空
エルンストは全身の筋肉に緊張感がみなぎるのを感じていた。
すでに高度は百メートル以下である。
ランツェスガーテンが三階建てで、四角形をしていることも、そのすぐそばに塔が立っていることもわかった。塔の先端にある窓から、煙が吹き出していることも。あれは見張り塔で、アーデルハイドがそこに一撃してくれたのだろう。
ついに高度五十を割った。
眼下に散らばっているアインヘリヤルたちの姿がはっきり見える。その顔までも。細長い顔の男が、建物の向こうに逃げ込んだアーデルハイドに自動小銃を連射していた。眉毛の太い男が、部下らしい若いアインヘリヤル数人になにやら怒鳴っていた。すでに倒れているアインヘリヤルもいる。
ランツェスガーテンのバルコニーには機関砲が据え付けてあって、何人かのアインヘリヤルが機関砲にとりついて対空射撃を続けている。比較的小型のサーチライトが眼球のように動く。光の円錐を四方に投げつける。それを追って光の線が上方に延びる。
……だが、大丈夫だ。それは俺をとらえてはいない。ずいぶん違った方向に向いている。
よし。あと数秒。
だが、建物の壁のすぐそばに立っていたインヘリヤルの一人が。ふと顔を上げて。もちろんそいつも、自動小銃くらいは持っていて。
……見るな。俺をみるな。
頼むから俺を見つけないでくれ。
ああ、あいつは暗視ゴーグルをつけていない。だったら大丈夫ではないか。だがアインヘリヤルは夜間視力も強化されている……サーチライトもこちらに向いている。どうだ、どうなんだ? 黒いパラシュートが見えるのか?
そいつは顔をあげて。
発砲、した。
心臓がはねあがった。
次の瞬間、通信機に絶叫が飛び込んできた。耳の中でイヤホンが震え、鼓膜がかきむしられる。
「ぐううあああああ!」
何が起こったか、見るまでもなかった。そのアインヘリヤルが構えたStg九〇突撃銃が放った銃弾は、エルンストから十数メートルの空間をえぐるようにして飛んでいったから。そこには、エルンストと同じく脱出に成功した仲間がいたから。
……おそらくあいつは、俺にも気づいていたのだろう。どちらを先に撃つか、一瞬迷って……結局向こうを選んだ。それだけだ。あいつの気まぐれが俺を救ったんだ。
そいつが、今度はエルンストに銃を向けた。だがもう遅い。エルンストは両足を交差させ、衝撃を覚悟していた。そして地面が近づいて。もう人の顔などは視界から消えて。館もなく、ただ地面だけが。足先から脳天までを貫く衝撃。
即座に転がった。冷たい、かちかちに凍り付いた地面。人間の筋力ではスコップの刃を立てることも出来ないほどに硬い地面。その上に横たわる。
落下傘降下の真価はスピードにある。
だからといって、このまま走って館に突撃、というわけには決していかない。なぜなら。
次の瞬間、黒い何かが、エルンストの身体の上に覆い被さった。視界が完全に遮られる。
それが何なのか判っていても、呼吸が荒くなった。何も見えず、ただ銃撃の音だけが聞こえる環境。それが神経を刺激する。
これはパラシュートだ。風をはらんで膨らんだパラシュートがかぶさってきたのだ。ここから抜け出さなければ何もできない。紐に手足がからまる可能性もある、気をつけなければ。
闇の中、頼りになるのは触覚と聴覚だけだ。どちらも手袋と銃声のおかげで鈍っているときている。だがどうにか、パラシュートから頭を出すことに成功した。その瞬間銃弾が飛んできて、などということもなかった。虫のように這って、彼は脱出を果たした。
「があっ!」
絶叫が鼓膜を打った。
すぐ隣、十メートルそこそこしか離れていない場所で、仲間が背中から血を噴き出して倒れていた。下半身はまだパラシュートの中だ。おそらく焦るあまり身体を起こしてしまい、そこを撃たれたのだろう。
駄目だ。
エルンストは顔をしかめた。
……やはり、走って館に向かうことはできない。敵はこらちを捕捉している。立ち上がった瞬間、正確きわまりない射撃が俺たちを襲うだろう。くそっ、大部分の敵はアーデルハイドが引きつけてくれているはずなのに。
倒れた男の身体、その痙攣が止まった。死んだのだ。顔の下半分が防寒布、上半分が暗視ゴーグルで覆われているため、その男が誰かは判らない。判ったとしても、エルンストは特に悲しまなかっただろう。あと一歩だったのに愚かなことだ、と思っただけだろう。
他人の死に涙できる状況ではないのだから。
まず、暗視ゴーグルを外した。敵がこの広場の四方にサーチライトを設置してくれているおかげで、明るさは十分だ。逆にいえば、こちらが敵弾を喰らう可能性も高くなったといえる。
次に、這ったままの姿勢で、胸の通信機のスイッチの通話ボタンを押す。
「……剣より金星。剣より金星。蛇により楽園は荒らされた。人形たちが踊るうち、我らは宴を済ませよう」
アーデルハイドが囮となっているうちに、自分たちは館に侵入しよう、そう言っているのだ。
うつぶせで、眼球を動かして周囲を観察する。人影が見えない。発砲の光も見えない。アーデルハイドはちょうど、向こう側に敵を誘導してくれているようだ。
エルンストは闘志を奮い起こした。腕の力で前進する。いくら敵の数が少ないとはいえ、走ってしまうのは危険すぎる。それは最後の最後、壁にとりついて爆薬で穴を開けるその瞬間だけでいい。今は匍匐前進だ。たとえそれがどんなに惨めでも。アインヘリヤルではない自分たちには銃弾を目で見てよけることなどできないし、ここには遮蔽物もない。身体を低くすることだけが攻撃をかわす手段なのだ。
館の壁。設置されたサーチライトに照らされ、雪のように輝く壁。そこまでの距離はたった五十メートル。
それが無限にも等しく思えた。
二
十九時三十五分
その後方三十メートル
アーデルハイドは脱力感にさいなまれていた。手足が重く感じる。背骨のあたりに冷たいものが通っているような感覚。そして頭ががんがんと痛んでいる。彼女には風邪をひいた経験がなかったが、もしあれば「まるで風邪のようだ」と思っていただろう。そう、彼女は熱を出していたのだ。
理由は一つしかない。運動のしすぎである。
常人の数十倍の筋力をもち、それを制御し得るだけの反射神経さえ備えたアインヘリヤル。だが筋力が超人的ということは、体内で発生する熱エネルギーも桁違いに多いということだ。人間は汗をかくことによって肉体の冷却を行うが……普通の人間ならそれで間に合っても、アインヘリヤルの場合はそうもいかない。かといって汗の量まで劇的に増やしたら、たちまち干物になってしまうだろう。この過熱の問題こそが、第二世代型アインヘリヤル最大の弱点なのだ。
気温の低いアルプスの環境は、それをある程度防いでくれていたが……やはり限度はある。もうそろそろ、走るペースを落としたほうがよさそうだ。
速度を百キロから七十五キロ程度に下げる。それでも、周囲の景色か目にもとまらない速さで流れることには違いない。
地面に広がった多数のパラシュートから、彼女の仲間……エルンストや、ロックウェル、バーガーといった者たちが這い出してくるのを先ほど確認した。彼らは立ち上がらず、匍匐前進で館を目指す気らしい。その方が敵に撃たれにくいだろうが……こちらの負担はいっそう大きくなる。稼ぐべき時間が長くなるからだ。館までの数十メートルを這って移動するのには、意外に長い時間を要する。
たった数十メートル? 十秒足らずで走れる? そう思うものは、第一次大戦で歩兵突撃がどんな結果を生んだか、少しでも調べてみればいい。人間の身体は銃弾に大してあまりに脆弱なのだ。ことに直立した人間はそうだ。
そう、立ち上がってはいけない。館に突入できる味方は一人でも多い方がいい。だから指揮官としては正しい決断なのかも知れないが、それでもアーデルハイドはエルンストに怒りを覚えた。
私のことはどうなってもいいと考えているのだろうか。私がアインヘリヤルだからか。ナチだからか。
そうだな、それは思われて当然だ。しかし……では、嘘だったのか? あの男が示してくれた優しげな態度は嘘だったのか?
そうは思いたくなかった。
その途端、彼女の強化された視力は館のバルコニーで弾けた閃光を捉えた。
馬鹿な! あそこの敵はもう掃討したはずだ!
驚くと同時に、身体が動いていた。百倍では間に合わない。神経加速千倍に増速。筋肉増強率レベル四へ。大地をえぐるように蹴って、上半身をスライドさせる。
その回避は成功した。彼女の肩をかすめて銃弾が飛ぶ。
しかし次の瞬間、またバルコニーで発砲。
今度の銃弾が回転しつつ、磁石が鉄に吸い付けられるように自分めがけて飛んでくるところを彼女は見た。
馬鹿な、そんな馬鹿な。これほど矢継ぎ早に、しかも私がよけることを計算に入れて二発目を撃ったというのか。掃射ではなく、まるで機関銃のような速度で狙撃を繰り返したというのか。人間にそんなこと……
まさか!
なるほど、人間には不可能だ。第一世代型アインヘリヤルにも無理だろう。だが、これを可能とする存在が一つだけあった。
三
同時刻
二階東側バルコニー
『彼』はすぐに室内に飛び込んだ。
敵が……アーデルハイドが動揺しているのは一瞬のはずだ。すぐに撃ち返してくる。向こうは走っており、こちらは止まっているから射撃の正確さではこちらに分があるとしても、油断は大敵だ。
なにしろ彼は絶対に負けられないのだから。
彼こそはアーリア科学の結晶、遺伝子工学の生んだ芸術品、真のアインヘリヤル……
脳に異常を来した「できそこない」になど、負けるはずがない。それが彼の誇りであり、彼の全てだった。
ほんの数ヶ月前に培養槽の中で誕生した彼には、あらかじめ脳に刻まれた命令と知識以外、なにひとつ知らなかったから。
彼は、Stg九〇突撃銃を構えたまま隣の部屋に移った。
廊下の電灯に照らされて、銀色の流れるような長髪が奇麗に輝いていた。極端に白い肌。ギリシャ彫刻を少々華奢にしたような容姿。アーデルハイドによく似ている。
当然だ。この少年……エールリッヒ・シュタインローゼは、アーデルハイドの弟なのだから。
四
総統暦一〇八年
ロシア国家社会主義共和国連邦
ウラル山脈
アーデルハイド・シュタインローゼは歩いていた。
彼女が進むのは、常人なら立っていることもできない急斜面。右には人の数倍の背丈をもつ岩、左には断崖絶壁。吹きすさぶ零下三十度の風が、むき出しの頬に浴びせられる。だが彼女の白い肌は凍傷にかかることもなく、痛みを訴えることすらない。この環境は、アインヘリヤルにとってまさに最適だった。
着込んでいるのは野戦服。白い冬季迷彩コートもある。背嚢には食料。肩にはもちろん武器。持っているのはStG九〇突撃銃が一丁、それから予備弾倉、後は無反動砲が一門、手榴弾がいくつかあるきりだったが、それで十分だった。彼女の能力ならたとえナイフ一丁でも、完全武装の一個小隊数十名を壊滅させられるはずだった。
もうひとつ、重大な装備品がある。体内に埋め込まれた生体コンピュータだ。これは常に彼女の身体を監視している。体温や脈拍、筋肉疲労などを調べるのはもちろん、脳と連結し、彼女が見る画像すべてを記録、スヴァルトアールヴハイムに伝える。
これらは次のアインヘリヤルの製作に生かされるはずだった。もちろん戦闘だけではない、ここに至るまでの行程も、山岳地踏破能力を確認するための資料として使われているはず。
……わたしは、何でこんなところにいるんだろう?
空の半分は雲に覆われ、残り半分から冷たい星の光がそそぐ。彼女は微かな光を浴びながら、彼女はそんなことを思っていた。
いや、もちろん、本当に判らないわけではない。
ゲリラ相手の単独掃討戦が行われることになった、これは初の実戦テストであり、この結果しだいで計画の是非が決まる……
わかっている。それが命令だということは。
私はなぜここにいるのか。
自分に問いかければ、答えはすぐに返ってくる。
私は戦士。アインヘリヤル。
やがて来る「ラグナロク」のために集められた勇者。人を超えた者。
私は戦士。アインヘリヤル。国家社会主義の勝利の象徴。アーリア科学の優越性の証し。
だから。だから。
敵は殺す。世界にいまだ残っている、第三帝国に歯向かう反乱分子どもを殲滅・浄化する。それは私に与えられた聖なる使命だ。
答えはあまりにも瞬間的に返ってきた。あの日、培養槽の中で眼を覚まして以来、彼女は繰り返し繰り返し、それを教えられ続けてきたのだから。
だが、何かが違う気がする。国家社会主義の教えだけでは説明できない何かがこの世にはある気がする。そんな考えが心の奥底にこびりついて、決して離れなかった。
装備の点検は終わった。頭の一部が勝手に働いて、予想される敵戦力と、その対処法を算定しはじめる。彼女の心は完全に分割されていた。精密機械の部分と、悩める人間の部分と。
右半分はいらない。私は機械でいいんだ。
そう教えられたから。
だがそう思っても、不要なはずの部分を切り離すことはできなかった。わずかに鎮めることすらできない。どくどくと脈打ち、激しく自己主張してくる。
……私には、戦士としてひどい欠陥があるのではないか。これが終わったら報告しよう。
彼女は立ち止まった。
目的地にたどりついたからである。
ここは標高二千。野の獣と、わずかな猟師くらいしか入り込まない場所。
だが衛星軌道に展開された偵察システム「フギン・ムニン」は、この地に集落があることを確認していた。
彼女がいるのは崖っぷち。そこから、一団低くなった場所を見下ろすことが出来る。
……なるほど。情報通りだ。確かに誰か済んでいる。
彼女は灰色の眼を見開いた。星の明かりだけで、彼女は闇の中に並ぶ粗末な小屋の集まりを見つけていた。
彼女の受けたブリーフィングでは、この集落は「新しき革命」のアジトだという話だった。レジスタンス組織「新しき革命」。もう四十年以上前に滅んだ国家、ソビエト連邦にいまだ義理立てする連中。夢から醒めない人々。
もうとっくに祖国がなくなったのに、自分たちの考えは何十年も前に敗北したのに、どうして、この人たちは何かを信じ続けることができるのだろう、戦い続けることができるのだろう、少し不思議に思った。
……自分など、生まれてから毎日毎日語って聞かされても、それでもまだ国家社会主義というものが何なのかピンとこないのに。
彼女は眼をこらした。視力を「赤外線重視」に切り替える。人間の網膜には「棹状体」「錐状体」という二種類の光センサーが敷き詰められており、それぞれ一長一短ある。アインヘリヤルはそれに加え、赤外線を関知できる器官を備えているのだ。むろん、通常の光をとらえる能力も、人間の比ではない。彼女には暗視装置など必要ないのだ。
あたりはやはり真っ暗だった。が、小屋の中にはぼんやりと光を放っているものもいくつかある。
あれと、あれと、あれ……あそこは人がいる。いや、あの温度の高さからして、火を焚いているのかも知れない。まだ寝ていないのだ。危険だ、発見される前に攻撃しなければ。
彼女は脳の中で命令を念ずる。
……化学言語、発信開始。アースメギン・ウイルス活性化。神経パルス加速、十倍速。
頭の中で、しびれるような痛みが膨れあがった。
背嚢から、望遠鏡を思わせる円筒を取り出した。クルップ社製、ヴァレンシュタイン九十ミリ無反動砲だ。
装弾し、安全装置を解除、眼下の集落に向ける。スコープをのぞき込んだ。
引き金を絞った。
背後に、反動をうち消すためのプラスチック片が盛大にまき散らされた。もちろん前方には九十ミリ砲弾が飛び出している。
閃光、一瞬のちに爆発。
集落の中心にあった、ひときわ大きな小屋は炎上していた。周りの小屋の扉が開き、毛皮をまとった男たちが飛び出してくる。彼らの手に小銃らしきものが握られていることを、彼女は確認した。
彼女は駆けだした。
連中が訓練されたゲリラ兵だという情報が事実なら、この場にじっとしている訳にはいかない。無反動砲は目立つ。たちまち発射地点を特定され、反撃をくらうだろう。
数メートルの落差がある岩の階段を、跳躍を繰り返して降りる。ひとつ、ふたつ、みっつ。そのたびに足に衝撃が走るが、耐える。骨格や腱の強度も、普通の人間よりは遙かに高いのだ。
村までの距離はまだ八百メートルある。この銃ではまだ遠い。
彼女は無反動砲を背嚢に放り込み、変わって黒光りする銃を取り出す。
このStg九〇突撃銃は五.五六ミリケースレス弾を使用している。極限まで銃弾を小型化、さらに薬莢を省略することでさらに軽いものとした。そのおかげで、歩兵の常識を超えた数の銃弾を持ち歩くことが出来る。多数を相手に戦わなければいけない今の状況には向いている銃だ。
けれど、小さく軽すぎる銃弾はひとつの問題を呼び起こした。木の枝などに当たった場合、かなり大きく弾道がそれてしまう。風にも流される。いくらアインヘリヤルといっても超能力者ではない、自然現象ばかりはどうにもならない。
だから、もっと距離を詰めなければ。
走った。薄い雪に覆われた岩肌を蹴り、白い雪と砂を舞い散らせながら。
距離五百!
彼女は手近な岩陰に飛び込んだ。上半身の一部だけを露出し、人影に銃を向ける。引き金を絞っているのはほんの一瞬だ。
秒速九百五十メートルという超高速で飛び出した銃弾が人影をつらぬくのを、彼女の眼は確かに見た。すぐに銃口を動かす。次の目標を探す。いくらでもいた。相手はこちらの方に向かって駆けてくる。
数は十、二十、二十五か。この銃一丁ではすこし難しいのではないか。やはり大口径の狙撃ライフルをもってきて、もっと長距離からしとめた方がよかった。十五ミリ対物狙撃銃と、接近戦用の軽機関銃という組み合わせはどうだろう、今度具申してみよう。あるいは火力重視の方法もある。擲弾筒を……
そんなことを考えている間にも、彼女の眼球は敵の姿を確実にとらえ、分析していた。
妙に小柄。毛皮を羽織り、頭にはウールの帽子。手には、AK五九とおぼしき突撃銃。別名AK四七。もう四十年以上前から使われ続けている、ロシアの象徴とも言うべき銃だ。だが、命中精度が低く、なにより重すぎる。頑丈であることだけが取り柄の旧式銃だ。
走り方は、あまり軍隊慣れしているようには見えない。あの武装を見る限りゲリラだという情報は正しかったのだろうが、どういうことだろう。
そして五百メートルの距離をおいて、Stgのスコープが、銃口が、その小柄な人間をにらんだ。
頭の中で反射的に計算式が展開される。Stg九〇の弾道特性。風向き。重力。すべてが混ざり合い、手が最後の照準調整を行う。
閃光が銃口からほとばしった。両腕を必死に振って駆けてくる小さな人間は、頭から真っ赤な液体をまき散らしてつんのめった。
次の標的。今の射撃である程度こちらの位置をつかんだのか、横に向かって走ってくる者がいる。迂回するつもりなのか。
こいつは愚かだ。私ならともかく、普通の人間がこれだけの悪路を、それも空気の少々薄い場所だというのに、迅速に走れるものか。絶好の射撃チャンスを与えてしまうだけだ。
敵がくれた隙を逃すつもりはなかった。銃身を斜めにずらす。左目でおおよその見当をつけ、スコープに当てた右目をこらす。
闇の中、微かな星の光に浮かび上がる顔。下半分を布で覆い、冷気をしのいでいる。表れているのは眼だけ。アーデルハイドの暗視能力は、その眼の色が「緑がかった灰色」であることを確認した。そしてその瞳に怯えの色が浮かび、眼の周りの筋肉が引きつっていることも。
引き金を絞った。弾道が目標とアーデルハイドを結んだ。腹を貫かれて、よろめく。まだ生きているかも知れない、もう一発だ。今度は頭に撃ち込んでやった。
銃声が山と山の間に響いていった。
……あの連中が本当にゲリラなら、そろそろ私の位置に気づいても良さそうだ。そのまま走ってくるだけでは倒せない、ということにも。
アーデルハイドの予測は正しかった。馬鹿正直に突進し、銃の餌食になるものはもういなかった。みな、その場に伏せた。伏せたままじりじりと動き、岩の陰や、雪の塊の向こうに隠れようとしているらしい。
こうなると狙うのは難しい。面積が極端に小さくなるからだ。
それでも、あいつとあいつは、やれるはずだ。
精神をとぎすまし、視神経の活性化レベルを上げる。ゆるやかな呼吸を何度か繰り返して、照準の微調整を行う。
撃った。
雪に寝そべり、這いずって移動を試みていたゲリラの一人が、背中に銃弾の杭を撃ち込まれた。
絶息が確認できないため、もう一発。
身体が、電気ショックを受けたように跳ね上がった。
もう一人も同じ方法で倒した。
だが、ここまでだった。角度の問題もあり、地面の起伏によりそうようにして横たわった人々を、アーデルハイドの銃口はとらえることができない。
もっと近づく必要がある。
だが、それは敵の思うつぼのはずだ。こちらが我慢できなくなって降りてくることを狙っているのだ。この岩陰から出て、坂を下り、彼らの前に姿を現す、その一瞬を彼らは見逃さないはずだ。
考えろ。
……戦術算定開始。想定状況におけるこの行動の成功率、実施した場合の損害を算出せよ。自分の脳にそう命ずる。戦闘のためだけに極限までカスタムされたアーデルハイドの脳は、一瞬で結論を導き出す。
……実施は可能。結果は敵の殲滅。損害は被弾一発程度。ただし、神経加速百倍を使用すること。
……よし。わたしならできる。
……神経加速、百倍。アースメギン・ウイルス活性化率上昇。強襲仕様への肉体移行……完了!
そして、アーデルハイドは疾風と化した。
蹴り上げられた雪が飛び散る。その速度は人間の限界はもちろん、どんな動物の限界をも超えていた。山の中であることを考えに入れれば、自動車ですらこれほど速くは走れないだろう。数メートルの崖を飛び降り、速度をゆるめることなくまた走る。四十度を超える、そこに立っている人間にとっては垂直とすら思えるほどの急斜面を、ふらつくことすらなく駆け下りる。岩に出くわす。跳躍。着地。さらに加速。速度は時速百キロを超え、百五十キロを超えた。
地面に伏せていた者たちが、あわてて射撃を開始した。けれど、すべての銃撃は、闇を切り裂いて走った火線は、アーデルハイドが一瞬前に存在した空間を切り裂くのみ。
そう、たとえ連射機能を持つ自動小銃といえど、これほど高速の物体を補足することはできない。なにより、「人間にこんなことできるはずがない」という思いが、動揺が、ゲリラたちの射撃を狂わせていた。
ゲリラたちが伏せている場所にたどついた。そこで立ち止まっていたら、彼女とて撃たれていたろう。けれど、アーデルハイドは少しも減速しなかった。時速百キロ超で駆けながら、突撃銃を斜め下に向ける。そちらにちらりと視線をやっただけ、狙っているようにすら見えなかった。
引き金を引く。五.五六ミリ弾が帽子ごとゲリラの頭を砕く。そのまま通り過ぎる。次の目標を探す。いた。必死になってこちらに銃を向けようとしている。よほど慌てているのか、身体を上げてしまっていた。面積が大きくなった、これで撃ちやすい。射撃。また頭を撃ち抜く。たとえ百キロで走っていても、これだけの近距離、たかが数十メートルで外すことなど絶対にあり得ないのだ。
撃った、撃った。一発撃つごとにゲリラの数は一人ずつ減っていった。敵はひるまずに撃ち返してきた。大半はこちらの速度を読み切れず、一瞬のちに敵がどこにいるのか予測できずに、まるで見当違いの場所に弾をばらまくばかりだった。もちろんわずかだが、まるでアーデルハイドに吸い寄せられるように的確なコースを飛んでくる銃弾もあった。敵にも優れた兵士がいるのか。それともまぐれ当たりか。
どちらにせよ、その銃弾すらも効果を発揮しなかった。「百倍速」のアーデルハイドにとって、時速三千キロのライフル弾は時速三十キロと同じ。自動車よりも遅い物体にすぎなかった。ほんの少し身体をよじるだけで、銃弾はそれていった。頬を、髪の毛を、肩を弾がかすめ、衝撃波で微かな切り傷をつけていく。
やがて、敵は沈黙した。
アーデルハイドは油断せずに倒した数を確認する。ひとつ、ふたつ、みっつ。「百倍速」に加速された時間の中で数を数える。
間違いない、最初に小屋から飛び出してきた連中はこれで全滅させた。
実に簡単だった。こちらは一発の銃弾を受けることもなかった。弾が足りないかとも思ったが、弾倉一つすら使い切らなかった。
なんと弱い連中だ。
アーデルハイドの心の中で何かが囁いた。
そうだ、その通り。ゲリラは弱い。それは悪だから。悪だから滅びるのは当然、負けるのは当然。お前が勝つのは当然。お前は正義だから。人類を正しく導ける唯一の国家、第三帝国の正義を代行する者だから!
甘美な囁きだった。
教育係の黒妖精たちは、さまざまな考えを彼女に教え込んだ。
「国家社会主義」という思想を、「アーリア人優越思想」を、「劣等者は滅ぶべし、優良者は生き残るべし」という思想を。
黒妖精たちも、他のアインヘリヤルたちも、そんな考えを頭から信じ込んでいるらしかった。けれど彼女にとっては、それは「ただの理屈」でしかなかった。
なぜ? なぜ? どうして劣っているから死ななければいけないのか? どうして、少しくらい能力が優れているからって、支配する側に回れるのか? そんなことをしていいって、誰が決めたのだ?
それが不思議でならなかった。他にどんな考えがあるのか、どう生きればいいのか誰も教えてくれなかったから、やむなく従っていただけだ。
だが、今や全ての疑問は氷解した。
こいつらは弱い。こんなにも弱い。武器を持っていても、数が多くても、まるで相手にならないくらい弱い。これはもう戦闘ではなく、害虫駆除のたぐいだ。こちらがほんの少し暴れただけで、こんなにも簡単に滅びてしまう連中。これが劣っていなくてなんだろう。
自分と、こいつら劣等生物の間には絶対的な能力差がある。自分は絶対者だ。上に立つ者だ。はっきりとそれがわかった。理屈ではなく、生理的に理解できた。快感だった。知らず知らずのうちにアーデルハイドは笑みを浮かべていた。それは彼女が生まれて初めてつくる、笑いの表情だった。頭の中にもやもやと渦巻いていた疑問や悩みは全て消え去り、世界そのものが水晶細工のようにきらめいて見えた。何らかの宗教に帰依した人間というのは、まさにこんな心理状態なのだろう。
高揚した気分のまま、アーデルハイドは任務を続行した。
……本当に敵はもういないのか?
今度は聴覚神経の感度を上昇させる。
山と山の間を吹き抜ける激しい風は、、少し離れれば会話が出来なくなるほどの強い風の音を生んでいたが、彼女にとっては障害にならない。大量のノイズの中から重要な音だけを拾い出す能力は、コンピュータより人間の方が優れている。彼女の能力はその人間よりもさらに上なのだ。
最初に耳に飛び込んできたのは、集落のはずれにある小屋の中からのうなり声だった。人間のものではない。獣だ。扉に体当たりを繰り返しているような音も聞こえる。家畜を飼っているのだろう。このさい関係ない。無視していいだろう。さあ、他の敵は。
斜め後ろの小屋から、物音が聞こえてきた。足音だ。すすり泣きのような声も聞こえる。
なんだ、まだいたじゃないか。
十分に警戒して、そちらのほうに向き直る。「百倍速」を続けたままだ。
小屋の粗末な扉が開いた。毛皮を頭からすっぽりかぶった、ひどく小さな人間が出てくる。その人間は顔を布で隠してなかった。幼い。まだ十歳を過ぎたばかりだろう。そんな子供が、AKを抱えて歩いてくるのだ。
アーデルハイドの超視力は、その少年の目元に光るものがあることを、少年が泣いていることを認識した。
眼があった。少年がこちらを見た。
見た? 違う、睨み付けたのだ。殺気を、憎悪を込めた眼で。
数十メートルの距離をおいても、はっきり伝わってくる殺意
「……せ」
少年の唇が動いた。唇の間からロシア語が飛び出してくる。彼の顔面には冷気の針が突き刺さっているはずだが、吹き付ける風がたちまち凍傷を生んでいるはずだが、彼はそれでも唇を動かした。そして言った。絶叫した。
「……せ。とうさんをかえせえええええっ!」
子供か。この子供の親たちを、わたしは殺したのか。胸の中にひろがっていた幸福感が、ほんの少し揺らいだ。
だが、とアーデルハイドは自分に言い聞かせる。
この子供を生かしておいたら、またきっとゲリラになるんだ。第三帝国の使命を妨害する悪になるのだ。いまのうちに芽を摘んでおかなければいけない。
それは、研究所で受けた授業の丸暗記でしかなかった。それ以外、彼女を支えるものはなかったのだ。
だから彼女はStg九〇を持ち上げ、少年に銃口を向けた。また殺せばいい、脳に刷り込まれた命令、与えられた正義に従って殺せばいい。そうすればまた、あの震えるような興奮が蘇ってくると、そう信じて。
だが、彼女は引き金をひけなかった。
「……かえせ……とうさんを……かあさんを……ねえさんをかえせ」
その言葉が彼女の身体をこわばらせた。
かあさん? ねえさん?
眼球だけを動かして、雪の上に転がっている死体を見る。ある者は頭を砕かれ、ある者は腹を貫かれた無惨な亡骸。これまでよく見ていなかったが、フードの下からのぞく顔は……そうだ、妙に小柄な兵士だな、とは思っていたのだ。
ゲリラたちの中には女が混ざっていた。老人もいた。普通の軍隊と異なり、ゲリラは若い男だけに戦わせるという訳にはいかなかったのだ。
だからどうしたというのだ、と叫ぶ声があった。先ほどまで彼女の内心を支配していたものの叫び。だがそれはもう力を持たなかった。彼女の手は震えていた。その震えが何故起こっているのか、自分の中で膨れあがっていくこの感情はなんなのか、アーデルハイドには判らなかった。
そうこうしている間に、少年はAKを持ち上げる。重厚な光を放つ銃身がこちらを向いた。四キロを超えるAKを支えるのは辛いのだろう、わずかに銃は揺れていた。
腹に響く銃声。銃身が跳ね上がった。銃弾は見当違いの方角に飛んでいく。少年は後方に吹き飛んだ。AKの欠点は反動が強すぎることだ。鎖骨を折ってしまうことすらある銃なのだ、十歳そこそこの子供が使えるわけもない。
倒れた少年は、すぐにAKに飛びついた。はねるように起きあがると、またこちらに銃を向ける。
……何をやっている射殺せよ。アインザッツを行え。
アーデルハイドの脳の中で命令が発せられた。だが彼女は銃弾を放つことが出来ずに、ただ少年に歩みよっていった。銃を降ろし、雪をブーツで踏みしめて、一歩ずつ。
少年の目の前に立った。アーデルハイドはようやく気づいた。自分の中に生まれた感情が何であるかを。自分は何をしたいのかを。
これは罪だ。私は罪の意識を感じている。どうしてだろう。これは正しいことのはずなのに。この気持ちはどこから出てきたのだろう。
……何をしているアーデルハイド。アインザッツを行え。反乱分子を抹殺せよ。子供だからどうしたというのだ。劣性な遺伝子しか持たない子供など生かしておく価値はない。
いやだ、いやだ、わたしは!
彼女は銃を取り落とした。両方の腕をいっぱいに広げて近づいてゆく。
抱きしめかった。抱きしめて謝りたかった。
すでに少年とアーデルハイドは数十センチの距離しかない。少年の顔はこわばっていた。数十人もの仲間をたちまち全滅させたアーデルハイドの戦闘能力を思い出したのだろう。相手が意味不明な行動をとっていることに、ことさら不気味さを感じているのかも知れない。だがそれでも後ずさることなく、銃をアーデルハイドの胸に向けて……撃った。
さすがに外れようがなかった。
最初に来たのは痛みではなく衝撃だった。アーデルハイドは後方に跳ばされる。
げふっ、げふっ。血を含んだ咳が口から飛び出す。銃弾は肋骨を叩き折って肺に飛び込み、背中から飛び出していった。この時点でようやく、弾けるような痛覚が襲ってくる。
「あっあ、ああああ!」
少年の口から叫びがあふれた。彼は反動に耐え、またしても銃撃を放った。アーデルハイドの服が裂かれ、乳房と肺をえぐりとって銃弾が抜けていった。
脳に焼き付けられた戦闘プログラムが自動的に起動、痛覚遮断が行われる。アースメギン・ウイルスが活動を開始、破壊された組織をつなぎ合わせ始める。
だが重傷には違いない。彼女の意識は揺らいだ。息を吸うたびに肺の穴から零下二十度の空気が侵入した。喋ろうとしても、ひゅうひゅうと空気の抜ける音だけが発された。
激痛の中で、しかしアーデルハイドは笑っていた。
嬉しかったのだ。もっと撃って欲しかった。そうすれば自分の罪が消えそうな気がした。
少年が浮かべていた恐怖が当惑に変わる。撃たれて微笑んでいる、その反応が彼の理解を超えていたのだろう。それでも銃をアーデルハイドからそらさない。
……さあ、撃って。
おそらく、彼女の脳に刻印された「プログラム」は、時を待っていたのだろう。精神が喜びによって弛緩したその瞬間、「プログラム」が身体の支配権を回復した。
……アインザッツを遂行する。
……手段、白兵。
やめろ、やめろ!
しかし、 すでに身体は動いていた。わずか数十センチ、腕を伸ばせば届く距離である。少年が四度目の銃撃を行うよりも早く、その首根っこをアーデルハイドの手がとらえていた。凄まじい筋肉収縮力が少年を宙づりにする。そのまま手首がしまった。細い首の骨が砕け、その中の気管と脊髄が跡形もなく潰される。おそらく苦痛はなかったろう。少年は一瞬で絶息した。
第二世代型アインヘリヤル試作一号、アーデルハイド・シュタインローゼは、こうして初任務を完了した。
五
同時刻
帝都ノイベルリン地下
スヴァルトアールヴハイム
管制室
ここは十数人の研究者が詰めている、スクリーンとコンピュータだらけの部屋。中央の大スクリーンには、アーデルハイドの眼がとらえている画像がそのまま映っていた。つまり、首を砕かれて死体と化した少年。
アーデルハイドの脳内には疑似生体組織で作られたコンピュータが埋め込まれている。このコンピュータは彼女の肉体・精神状態を常にチェックし、また見たもの・聞いたもの……彼女の感じたすべてをデータに変換にして、回線を通じてこちらに送っていた。
先ほどの戦闘はすべて、ナチスの人々に見張られていたのだ。
所長は大変な緊張を味わっていた。
なにしろ背後には総統と、それ以上に冷酷と呼ばれるSS長官アルベルト・アズマがいるのだ。
だが、もう終わった。一時はどうなることかと思ったが、結局はプログラムが正常に作動した。
「どうです、総統閣下」
総統はとがった顎をなでるばかりで何も返答しない。かわりにアズマ長官が、魚じみた灰色の眼を光らせながら尋ねる。
「……最後の行動は一体何ですか?」
「え、ええと……それはその。まだ若干の精神の乱れが。それがこうして行動の遅延につながるわけでありまして……」
「若干? 果たして若干でしょうか。武器を捨て、あの反乱分子の少年に近寄った。これは任務放棄を企てた、ということではないのですか?」
「それは……」
「心理的なデータ、感情の動きもこちらで記録されているはずです。見せてください。あの瞬間、アーデルハイド・シュタインローゼは一体なにを考えていたのですか?」
元々あまり良くなかった所長の顔色がますます悪化した。それを見せるわけにはいかない。なぜなら……
その時、研究員の一人がモニターを見て叫んだ。
「……実験体、感情曲線が急激に変化しています。脳内麻薬の分泌制御が混乱しています。感情種類は……悲しみ。同情。怒り。これらの複合形です! 強度八五〇、いえ九〇〇を
超えました!」
大スクリーンの映像が乱れていた。レンズが歪んだかのように、少年の顔が溶け、雪山の景色が溶ける。いや、これは。
「泣いています。実験体の落涙を確認」
「実験体、反乱分子の死体に抱きつきました。解不能な行動です。感情曲線、さらに上昇」
「……どういうことですか?」
例によって、アルベルトの声に感情らしい感情はなかった。だがそれでも所長は背筋が凍り付くような思いを味わった。
「ち、ちがうのです。これは、これは」
「ですが、正しく国家社会主義思想が指導されていれば、反乱分子に同情するはずなどあり得ません。教育係は誰ですか? また、その係を任命した者は……?」
想像は当たった。この長官は粛正の嵐を吹かせようとしているのだ。
「違うのです、これは」
所長の必死の抗弁を、またしても叫びが遮った。
「ナチス! ナチスどもっ!」
それはアーデルハイドの声だった。数千キロ離れたウラル山中で、彼女は叫んでいた。その叫びが彼女自身の聴覚で捉えられ、通信回線に乗って運ばれてきたのだ。
六
同時刻
ウラル山中
すでに廃墟と化した集落
「ナチス! ナチスども!」
アーデルハイドは天を仰いだ。
暗い空。灰色の雲。わずかに見える星。
叫びはその空に吸い込まれていった。
「聞こえているんだろう! わたしは、私はもう嫌だ! 嘘ばかり教えられた。スラヴ民族は下等だから殺していいって、反乱分子は人間ではない、病原菌にすぎない……あんたたちはそう言っていた! でも、でも……こんなに柔らかいじゃないか! あったかくて……どんどん冷たくなって! わたしが! わたしがやったんだ! もう嫌だ! 私はこんなのは嫌だ!」
すでに少年の身体は外気と大差ない冷たさだった。支えをなくしてだらりと垂れ下がる首の上には、まず愛らしいと言っていい造形の顔が乗っている。けれどその顔は当惑と恐怖の入り交じった表情を浮かべたまま凝固している。決して笑うことも、泣くこともない。なぜ? 言うまでもない、自分が殺したからだ。
訓練とこの戦いで、アーデルハイドは合計百人近い人間を殺してきた。けれど彼女が本当の意味で殺人を犯したのは、あるいはこれが最初だったのかも知れない。人間が命あるものだと理解したのは、喪われたら決して戻らない大切な何かを抱えた存在だと認識したのは、今がはじめてだったのだから。
「嫌だ……もう嫌だ!」
頭の中でがんがんと誰かが叫んでいる。サイレンよりも百倍やかましく、耳ではなく、直接心の中に突き刺さるような叫び。
……警告。警告する。貴方はアインヘリヤルである。第三帝国の兵器である。国家社会主義にもとづく人類統治の道具である。役割を忘れてはならない。アインザッツは正義の行いである。悩んではならない。迷いは心を曇らせる。断固たる意志をもって行え。寛容さは弱さの証しである。国家への忠誠を……
うるさい。
頭の両側に手を押しつけた。耳をふさいだのだ。もちろん、そんなことをしても声はやまない。
……警告。警告する。貴方は機能不全を起こしている。論理的思考力の減衰、退廃思想による精神汚染が見られる。ただちに帰投、医師団のメンテナンスを受けよ。帰投手段については本部の指示を仰げ。勝手な行動はこれを厳禁する。警告。警告する。貴方は……
声はますます強くなっていった。これは自分の中にいるもう一人の自分の声なのだと、彼女はようやく気づいた。だとすれば、どうして逃れられよう。そのうち、また支配力を取り戻し、この身体を乗っ取ってしまうかも知れない。どうすればいいのだ。
そうだ。
アーデルハイドは再び笑みを浮かべた。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのだろう。どうして、もっと早くやらなかったのだろう。
彼女は心の中で呟いた。
命令入力。骨格白兵仕様・硬度最大。
命令入力。筋力最大。
命令入力。痛覚遮断。
体内に充満しているアースメギン・ウイルスに「化学言語」で命令を発したのである。ウイルスが超高速で細胞配列を変換、右手を強化してゆく。脳内の神経配列が組み変わり、痛覚を感じないように設定される。その作業が終わるやいなや、アーデルハイドは右手の指をそろえて突き立てた。渾身の力で。
どこに? 自分の側頭部に。
指はヘルメットを貫き、短く整えられた銀色の髪をなんの抵抗もなく貫通、ついに頭蓋骨にまで到達した。アインヘリヤルの骨の頑丈さは人間の比ではなく、ここで指はかなりの抵抗を受けた。凄まじい筋力で指の先端にひびが入り始める。それでも力をこめると、ウエハースが砕けるような音とともに、頭蓋骨に穴が開いた。
脳を指が突き破っていく。
頭の中で稲妻が舞った。視界が歪んだ。痛覚を遮断しているはずなのに全身の筋肉がわなないた。手や足、体がそこにある、という感覚が一瞬だけ薄れる。必死に取り戻す。
痛覚を感じないとはいえ、これだけ多くの脳組織を破壊しているのだ、身体に影響が出ないはずがない。完全に意識か思考力を失ってしまう前に、果たして「切除手術」を終わらせることが出来るか。
揺らぐ意識の中、あらんがきりの意志力をこめて、指先の神経に命令を発する。
……触覚増強。精密作業モード。
ついに見つけた。周りの脳組織とは明らかに違う手触りの異物。といっても金属やプラスチックのたぐいではない。生体コンピュータだ。脳と同じような原理で動く、タンパク質製のコンピュータ。クルミほどの大きさ。柔らかい。これが彼女を第三帝国に縛り付けている。彼女に命令を送っているのも、彼女の行動を監視しているのもこの生体コンピュータだ。
……脳の他の部分と融合している。
これは時限爆弾みたいなものなのか。れを外そうとしたら、他の部分まで道連れにする、そういう設計なのか?
だが、外してみるしかない。いかにアーデルハイドでも、何億何兆もの細胞の連なりである脳内回路を残らず調べ上げることなど出来るはずがないのだ。
指をひっかける。力をこめる。そのまま握りつぶしてしまおうかとも思った。その途端、頭の中で鳴り響く警報がその強さを増した。鈍器で殴りつけられたような衝撃が襲ってくる。
……警告! 警告! 警告! あなたの行為は第三帝国とNSDAPに対する重大な反逆行為である。ただちに中断せよ。
腕が震え出す。筋肉が勝手に収縮を始める。またしても「声」が、この生体コンピュータが、彼女を乗っ取ろうとしているのだ。
二本の指でその部分をつまみ、えぐりとった。声が消滅する。
アーデルハイドはその場にすわりこんだ。いや、立っていられなかったのだ。腹や胸に開いた穴から血があふれだした。頭蓋骨の穴には冷え切った空気が飛び込んだ。いかにアインヘリヤルとはいえ、これだけの傷を負っては安心できない。
けれど……アーデルハイドは笑っていた。この上なく、幸せそうに笑っていた。
もう、あの声をきくことはない。ああやって子供達をころすことは、もうしなくていいんだ。
七
総統暦一一一年四月一一日
一九時三五分
ランツェスガーテン
……こうして私はナチスを捨てた。
私の反乱で、責任者の多くが粛正されたはず。あの計画はかなりの打撃を受けたとばかり思っていたのだが。
それなのに完成していたのか、第二号、私の弟が!
驚く間もなく、弾丸は眼前に迫っていた。