第六章

 一

 総統暦一一一年四月一一日
 一九時三五分
 アルプス山中 ランツェスガーテン

 二発目の銃弾はもう避けられない。
 その事実を理解したアーデルハイドは、突撃銃を剣のように振るった。
 両手に加わる衝撃。火花。
 彼女は銃弾を銃ではたき落としたのだ。体全体を動かすよりこちらのほうが動作が小さく、短い時間でできる。
 彼女は、おそらく銃身が歪んでいるだろう突撃銃を投げ捨てた。
 残る武器は、短機関銃とナイフ。距離数十メートルの戦闘なら、射程の短い短機関銃でも問題はないか。それとも、威力が劣ることが問題か。
 問題だろうな、やはり。
 アーデルハイドはそう思った。短機関銃の弾は拳銃弾だ。防弾チョッキで止まってしまう程度の威力しかないのだ。一撃で仕留めるのは難しい。まして、今撃ってきたのが本当に第二段階アインヘリヤルなら、その生命力は人間を遙かに超えているはず。頭を粉々にするつもりでなければ殺せない。それに拳銃弾は速度が遅いからかわしやすい。
 やはり駄目だ。突撃銃が必要だ。
彼女は走った。敵の死体を、正確には死体が手にした突撃銃を求めて。
 やった。見つけた。ほんの二十メートル右前方に、血だまりを作って倒れているアインヘリヤル。その手にはStg九〇が。
だがその時アーデルハイドは、背中に刺すような殺気を感じた。
 彼女は理解した。あいつは待っている。私が銃を拾う瞬間を。いくらなんでも、速度を落とさなければ拾いあげることは出来ないから。確実に拾おうと思えばその場にしゃがみ込まなければいけないから。
 その瞬間、的が止まってくれる瞬間を待ち受けているのだ。
 だが、そうは言っても拾わなければ反撃は困難だ。どうする? 短機関銃だけでやるか。
 彼女は速度を全く緩めることなく振り返った。同時に手を背に回し、背嚢から取り出した短機関銃MP一〇〇を構える。ドイツ製らしいシンプルで無骨な外見だが、伸縮自在のストックを備えた、発射時の銃口のぶれが極端に少ない名銃だ。
 引き金を絞った。銃口から光がほとばしる。不安定な姿勢でありながら、ほぼ音速で発射された弾丸は正確にバルコニーへと向かっていた。
 これで倒す必要はない。ほんの二、三秒の間、相手が顔を上げられなくなればそれでいいのだ。
 が、敵はすでに姿を消していた。
 いないのか。どこだ。隣の部屋か。バルコニーの隣には小さな四角い窓がある。そちらに銃口を向けた。ガラスが飛び散る。
 毎分八百発の発射速度は、弾倉の中の九ミリ弾を瞬く間に食い尽くす……
 よし、敵はまだ頭を引っ込めたままだ。
 ちょうどその時、足下に突撃銃があった。
 走りながら身をかがめ、もう片方の手を下げて銃のショルダーストックにひっかける。
 つかんだ。
 と、その瞬間、飛来した弾丸がアーデルハイドの右肩を貫いた。
 痛みではなく衝撃が、彼女を転倒させようとした。地面が迫ってくる。どうにか立て直した。だが右肩はまるで動かない。
 短機関銃を背嚢に戻し、右腕一本で突撃銃をかまえてみる。プルパップ型のため小型、プラスチックを多用しているために軽いとはいっても、片腕では……いや、やるしかない。筋肉増強レベルを上げよう。
 アースメギン・ウイルスに命令入力。筋力増強レベル三から四へ。骨格補強開始。
 しかし、敵はどこから撃ってきたのだ。確かに牽制射撃を続けていたのに。
 視線を上にずらしたアーデルハイドは驚愕する。
 白い冬季コートをまとった男が、ランツェスガーテンの屋根に登っていた。
 なぜかヘルメットをかぶっておらず、肩まで伸ばした銀色の髪を輝かせていた。アーデルハイドの視力は、その男……いや少年の顔が、自分とよく似ていることまでとらえた。喜びも、恐怖も、怒りも、緊張も……いかなる種類の感情も、その白面に浮かんでいないこともとらえた。
 ……たった二、三秒で屋根まで移動した。しかも私に気づかれずに。それだけの能力。人間には出来るはずがない。そしてあの顔。やはり間違いない、あの少年は!
 私と同じ第二世代型。おそらく改良を受けている。顔が似ているのは、私の遺伝子をもとにしているということだろう。
 私の弟か。
 次の瞬間、弟は……少年は発砲していた。視界にマズルフラッシュが焼き付けられた。
 アーデルハイドも撃った。これまで使っていたAKに比べれば小さいが、それでも短機関銃を上回る反動が右腕と指にかかる。
 少年は身を翻した。小さな跳躍を屋根の上で行った。一瞬前まで彼が存在していたあたりの屋根に、五.五六ミリケースレス弾が突き刺さった。明らかに、銃弾をかわしている。
 アーデルハイドも負けてはいない。トリガーから指を離す同時に、大きく上体を振って敵弾を回避。
 脇を弾丸がかすめる。衝撃波が服を切り裂いてゆく。
 その時にはもう、銃を構え直した少年が、次の銃弾を放っていた。
 不安定な姿勢のアーデルハイドは、それでも必死に回避を試みた。
 無理だ。神経加速によって、芋虫が這うほどに遅く見える銃弾。だが自分の体の動きはそれ以上に遅い。悪いことに、今度は腰のあたりに向かって弾が飛んできていた。上半身をいくら動かしてもよけられない。腰に当てたところで致命傷は期待できないが、敏捷性を奪うことは出来る。第二世代型アインヘリヤルの能力を十分に理解しているからこそ出てくる戦術だった。
 アーデルハイドは地面に倒れ込んだ。それ以外、よけるすべはなかった。体を丸め、時速七五キロでの衝突にそなえる。天地が何度も逆転し、やすりのような地面が体中にこすりつけられたが、骨折の類はなかった。
 突撃銃をしっかり抱え、体中の筋肉を震わせて、猛烈な勢いで転がりはじめる。
 彼女の後を追いかけるように地面が爆発した。
 やはり、伏せたくらいで撃つのをあきらめてくれるような相手ではなかった。こうやって動き続けていなければ。
 その時彼女の耳元に剣の……エルンストの声が飛び込んできた。
「シュランゲ! 応答しろシュランゲ!」
 高速で入れ替わる天と地。すぐそばに着弾する銃弾。正直いって味方と交信できる余裕はないと感じたが、それでも彼女は答えた。
 おそらく呼びかけてきたのがエルンストでなければ、無視していただろう。
「こちらシュランゲ! 何ですかシュヴェルト!」
 インカムに向かって怒鳴り返した。
「何をやってるんだっ! ちゃんと敵をひきつけろ! こちらに来てるぞ!」
 エルンストの声には単なる怒りではなく、本物の焦燥感が込められていた。ああ、そうか。私がこいつに、弟にてこずっているから、囮任務が果たせなくなっているから。そういう事か。
「西だ、西にひきつけろ、俺達がいるのと逆に。そうすれば突入できる」
「無理です、今は。援護はできません。目の前の敵だけで手一杯です。独力で戦ってください。健闘を祈ります」
 それだけ答えるのがやっとだった。ただ一直線に転がるだけでは簡単に先読みされてしまう。体をねじって転がる方向を小刻みに変える。全身が砂まみれだ。服の中に砂が入り込んでくる。口や鼻の中にも飛び込んでくる。
「どういうことだっ」
「強力な敵がいます。敵が」
 台詞がそこで途絶えた。
 その時彼女は下を向いていた。腕と下半身を冷たい地面にこすりつけ、うつぶせになっていた。
 彼女は、その状態のまま串刺しにされた。
 姉の回避動作を、弟の予測射撃が上回ったのだ。
 背中から入った五.五六ミリ弾は、超音速で背筋を貫き、肋骨と肋骨の間を抜け、肺に飛び込んで、反対側の肋骨に突き刺さって止まった。
「がはっ」
「どうした!」
「やられました」
「なん……だと」
 通信機の向こうのエルンストが息を呑んだことが、アーデルハイドにも伝わってきた。彼はアーデルハイドがどれほど化け物じみた能力を持っているかよく知っている。そのアーデルハイドがあっさりやられたという事実は信じがたいことに違いない。
「第二世代型です。私と同じ……私よりもっと強い。私を改良した……弟です。私より優れた弟……」
 喋るたびに肺の中で血がゴボゴボと泡立った。苦しい。痛覚を遮断する。痛みは消えたが、背中の筋肉に大穴が開いたという事実は覆せない。これで転がる速度は相当落ちた。
 肩の傷はもう治りかかっている。アースメギン・ウイルスに命令入力。移動せよ。肩より背部の損傷修復に全力を傾けよ。化学言語、発信……!
 だが、アースメギン・ウイルスの力を持ってしてもすぐには治せないはずだ。いっそ、傷ついている方の肺を呼吸系から切り離すべきか。片方だけでもある程度の酸素供給は可能のはず。いや駄目だ、激しい動きをしたら酸素が足りなくなる。
 今度はすねのあたりに、ハンマーで打たれたような痛みが走った。
 足を狙ってきたか! 幸いにもさしたる損傷ではなかった。常人の数十倍に及ぶ筋力に合わせて、第二世代型アインヘリヤルは骨格も強化されている。それが銃弾を食い止めてくれたのだ。骨の表面に突き刺さっているだけだ。まだ動く。
 だが……
 痛みのせいではなく、恐怖でもなく、勘や直感でもなく、ただ論理的な分析によって、アーデルハイドは悟っていた。
 己の敗北を。
 第一世代型が何十人も束になって傷一つつけられなかった自分を、たった一人で、一分とかからずにこれだけ追いつめた。何という力だ。これが第二世代型か。
 弟は、反射神経も動体視力も、私より上なのだ。より新しいから当然か。
「シュランゲ、応答しろ、シュランゲ!」
「もう駄目かも知れません……弟は」
「弟だと?」
「ええ。弟は私より強い。私は、私は」
 アーデルハイドは不審に思っていた。なぜ自分は喋っているのだろう? 
 敵はまったく攻撃を緩めていないというのに。こうやって話していれば、わずかとはいえ注意力がそがれる。体を転がす速度だって遅くなるだろう。不測の事態に対処する速度も。だったらこんなものすぐ打ち切って、目の前の敵に……途方もない強敵に集中するべきではないのか。
 それなのに……言葉が止まらなかった。
「私はゴホッ」
 咳き込んだ。生ぬるい血が口の中に満ち溢れた。それを吐き捨てた。
 敵の銃撃が一瞬やんだ。弾切れか!
 とっさに回転をやめ、うつぶせになったまま銃口を少しだけ持ち上げ、撃つ!
 当たったかどうかは確認しない。すぐに転がるのを再開した。
 次の瞬間、足の甲を貫いた銃弾が、なによりも雄弁に結果を物語ってくれた。
 ……! 駄目だ。やっぱり駄目だ。闇雲に撃った弾など当たらない。頭を下げさせる効果すらない。それはそうだろう、弟はもともと自分より優れた反射神経をもち、しかも手傷を負っていないのだ。高い場所にいるため、優位でもある。
 ごぼっ、ごぼっ。吐いても吐いても血があふれてくる。
「大丈夫か、死ぬなシュランゲ!」
「無理です……」
 弱々しくそう答えるしかなかった。
「弟は本当に強い。完璧です、本当のアインヘリヤルです。でも私は……私は出来損ないだから。アインヘリヤルとしても欠陥品だし、シュヴェルトみたいな普通の人間にも……」
 今度は腹にライフル弾が命中した。
 骨で守られていない腹部を食い破ったライフル弾は、衝撃波をまき散らしながら腸を何本か貫き、ちぎり、背中から抜けていった。
 襲ってきたのは激痛ではなく、体の中心がぽっかりと欠落したような感覚だった。生命力、熱気といったものが残らず流れ出してしまったかのような。
「がっ、があ……」
「死ぬな!」
 エルンストの絶叫。
 混乱する意識の片隅でアーデルハイドは思った。シュヴェルトは……エルンストは馬鹿だ。私の心配なんかしている場合じゃない。向こうだって大変なのに。いや、弟が私を片づけたら、今度はシュヴェルトたちに襲いかかるだろう。そして……普通の人間などものの数秒で全滅するだろう。
 おかしいな。私も、彼も。
「駄目……です。私はもうすぐ……できそこ……すみま……はやくにげ……任務は。私は、出来損ないだから」
 次の瞬間起こったことが、アーデルハイドには理解できなかった。
「馬鹿なこと言うなっ!」
 シュヴェルトが、エルンストが叱咤を始めたのだ。熱のこもった叫びを上げて。
「出来損ないだから死んでもいいのか! 出来損ないの姉は死んでもいいのか! そんなのは認めない、絶対認めない! そんな考えを叩き潰すために俺達は来たんだろう! ふざけたことを言うな、アーデルハイドっ!」
 この人は……この人はなんだ?
 どうしてそんなにむきになるんだ?
 まるで理解できなかった。
 だが、嬉しかった。自分だって絶体絶命の危機にあるのに、それでもこちらのことを心配して、励ましてくれた。
 この人は前からそうだった。誰もが私のことを、元ナチス、人間以外の化け物、せいぜい便利な道具、そんな風にしか思っていなかったのに。たった一人エルンストだけは。

 二

 総統暦一〇九年一二月
 ロシア国家社会主義共和国連邦
 レジスタンス組織『リヒテン・フェーヌス』
 訓練キャンプ

「俺は反対だぜ、このクソアマを仲間にいれるなんてな」
 熊じみた体格の男が吐き捨てた。
 アメリカ軍出身のバーガーだ。
「私もいささか賛成しかねるな。いや、なにも怨恨の話をしているわけではない。確かに我が大英帝国は半世紀間ナチスの支配下にある。憎しみがないはずがない。だが問題はそれより、安全が確認されていないということだ」
 短い髭を生やした中年男が、歳のわりに鍛えられた腕を組んで言った。ロイヤル・ガーズ出身のロックウェルである。
 アーデルハイドは今、縄で縛り上げられ、おまけに銃を突きつけられていた。
 レジスタンス組織の存在を知り、どうにか接触をとって『参加したい』と言ったとたん、これだ。
 元ナチス、それもレジスタンス狩りをやっていたという過去が、これほどの扱いを生むとは。
「ふむ……」
 部屋の奥に座っていた、義足をつけた老人が唸った。他の者達と同様ロシア軍の軍服を身につけているが、風格がまるで違う。
「ヘルムホルツ大佐はどう思われますか」
 ロックウェルの質問に、義足の老人……ヘルムホルツ大佐は顔をしかめた。
「暗号名を使いたまえ。私は光(リヒト)、君は石(シュタイン)だ。まあいい。彼女の扱いについてだが……『第二世代型アインヘリヤル』だというのは確かなんだな」
「間違いありません。能力は実証済みです。なにしろ銃弾を避けた上に、腕をへし折っても一分で元に戻りましたからね」
「そんなことをしたのか」
「私が自分でやったんです。能力を実演するために」
 アーデルハイドがそう言ったとたん、銃床で頭を殴られた。
「お前には訊いてねえ! 許可してねえのに喋るな!」
「私は、私はただ」
 アーデルハイドは苦しんでいた。痛かったわけではない。人間に殴られたところで蚊が刺したほどの痛みしか感じない。誰にも信じて貰えないのが辛かったのだ。
「こいつはきっとナチのスパイですぜ。俺達を中から潰すつもりなんだ。悪いことはいわねえ、今のうちに殺っちまいましょうぜ」
 バーガーが、まぎれもない殺気をアーデルハイドに浴びせつつ言った。
 私はこんなに憎まれてる……
 当然かも知れない。私はレジスタンスを殺したんだ。この人たちの名前を大勢殺したんだ。子供まで殺した。いまさら何を言ってもその罪が消えるはずがない。
「おい、ちょっと待てよ」
 その声を発したのは、壁にもたれかかっていた男だった。年齢は二十五歳前後か。高齢化が進むレジスタンスの中では群を抜いて若い。バーガーに比べれば遙かに小柄だが、それでも平均的な白人男性よりは若干大きく、そしてその体には十分な筋肉がついていた。
 そしてよく見ると、その精悍な顔にはわずかだが黄色人種の特徴が表れていた。
「なんだよ、エルンスト」
「落ち着けよバーガー。おかしいじゃないか、この女は超人なんだろ? 弾をよけるし、負傷してもすごい勢いで治るんだろ? そんなに強いんなら騙す必要なんかない。普通に俺達を殺せばいい。いまこの場で暴れ出さないのはどうしてだ?」
「それは……」
「だろ? 少しは信じてやってもいいんじゃないか」
「あ、ありがとうございます」
「勘違いするな。お前のことを信じると決めたわけじゃない。俺一人で決められるわけでもないしな。ただ、勝手な理由で裏切り者だって決めて、こいつは生きていちゃいけないんだって決めて、殺しちまう。そんなのが許せなかっただけだ」
「ずいぶんナチの肩をもつじゃねえか、エルンスト」
「ふざけるな。むしろナチに近いのはお前の方なんだぜ、バーガー。証拠はないが、きっと裏切り者だろうから殺してしまえ……ナチそのまんまじゃねえか」
「て、てめえ……」
「いいだろう、判った」
 ヘルムホルツ大佐がバーガーの怒声を遮った。
「剣の言うことにも一理ある」
「じゃあ、仲間に入れてくださるんですか」
「その前に、一つ質問に答えてくれないか」
「はい」
「君はなぜ、ナチスを抜けてここに来たのだ」
 アーデルハイドは悲壮な表情を浮かべた顔を上げ、ランタンの弱い光に照らされたヘルムホルツ大佐の顔を見つめた。
「自分のやっていることが罪だと気づいたんです。だから罪を、罪を償おうと」
「殺されるとは思わなかったのか」
「思いました。でも、それでも」
「自分の命より、そちらのほうが大事だったというわけか」
「何もしないではいられなかったんです」
 ヘルムホルツ大佐は重々しくうなずいた。
「今日から、君の名前は『蛇(シュランゲ)』だ。言っておくが、私も含めてここにいる全員が君のことを憎んでいる。だが、君の能力は役に立つ。だから使う。それだけだ」
「ええ、それでも結構です」

 三

 数分後、屋外

「どうした、こんな所に呼び出して」
 外は零下三十度だった。雪は降っていないが、地面に多少積もっている雪を風が巻き上げる。体感温度はさらに低いだろう。
 十分な防寒装備をしているというのに、エルンストの体はこわばっていた。だがアーデルハイドの方は、ほとんど部屋着のままなのだ。彼女が普通の人間でないことはこれを見るだけで明らかだ。
「お礼を言いたくて……」
「そんなもんはいい。たかがそんなことのために呼んだのか!」
「でも、どうしても……」
「言っておくがな、俺はさっき、お前をかばったことを後悔してるんだぜ。特に『理由』ってのを聞いてからな。罪をつぐなうだって、笑わせるなよ」
「だって……」
「罪は消えやしないよ。絶対に消えやしない。償うなんてのはただのごまかしだ。まあ死んじまえば少しは減るかも知れないが、やっぱりゼロじゃないな。俺はな、どうしても許せない奴がいて、そいつを殺すために、ただそれだけの理由でレジスタンスやってるんだよ。そいつの頭蓋骨を木っ端微塵にしたら気分がいいだろうな。涙が出るだろうな。でも、それでもまだ足りないんだよ」
「じゃあ、あなたは……」
「どうして助けたのかって? わからねえ。気が付いたら助けてたんだ。全くむかつく話だ。さっぱりわからねえ。まあ、たぶん……」
 そこでエルンストは奇妙な表情をした。
 すさまじい冷気が顔の皮膚を硬直させているのだが、それでも彼は笑った。ただ笑っているのではない。微笑みのようでもあり、苦笑いのようでもある笑みだった。そればかりか、どこか苦痛をこらえているようにも見える。それでいて、全体としては明らかに笑顔なのだ。眼にも変化があった。どこか遠くを見つめているような眼。
「俺だってな、ある意味ナチスと同じことやってるんだよ。さっきはバーガーに偉そうなことを言ってたけどよ、実際には俺だって、スパイ狩りをやってる。疑わしい奴は何人も殺したさ。後になって間違いだとわかったこともある。これからもそうするだろうな。だから俺だって『罪』があるんだぜ。けど、それだけの罪を重ねてでも、どうしてもやらなきゃいけないことがあってな。お前も、償うんじゃなくて、そんな風に考えてみたらどうだ?」
 その時エルンストの表情が当惑のそれに変わった。
「俺……どうしてお前なんかにこんな話してるんだ?」
 そこで彼はまぎれもない怒りを込めて叫んだ。
「忘れろ。今の話は忘れろ。絶対忘れろ。いいなっ?」
 だが、アーデルハイドは忘れなかった。
 あの日の彼の言葉は、彼女にとって宝物になった。

 四

 総統暦一一一年四月一一日
 一九時三七分
 ランツェスガーテン

 それに……彼は、エルンストは、私のことをこう呼んでくれたんだ。アーデルハイドと。
 だから。
 だから諦めてはいけない。負けるわけにはいかない。せめて相打ちには持ち込もう。第一世代型は無理でも、一番の強敵であるあいつくらいは倒そう。
 だがどうやって?
 向こうはこちらより優れている。反射神経、動体視力、瞬発力……どれも。たぶん、私のように反乱を起こさないよう、精神的な面でも改良してあるんだろう。決して混乱しない、戦術的に最善の選択しかしないように作られているんだろう。
 弱点はない。
 いや……
 もし本当にそうだとしたら、あるいは。
 アーデルハイドは両手を地面に叩きつけ、その反動で体を起こした。勢いよく立ちあがる。
 五十メートル離れたランツェスガーテン。その屋根の上に片膝をついている、自分の弟。
 彼をまっすぐに見つめた。
 そして走った。腹と背の穴から血がこぼれるのも気にせず、すねに食い込んだ銃弾を抜くこともせず、ただ走った。真の意味で全力疾走するためには体中の筋肉が必要であるから、現時点ではできない。だがそれでも人間を上回る、時速五十キロの速度に達した。
 五十メートルの距離を詰めるのに要する時間は、およそ三秒。わずか三秒間攻撃をしのげば、それでいい。
 もちろん敵も黙ってはいなかった。よけることも考えず突進してくる人間は、格好の的にすぎない。
 アーデルハイドは見た。自分に向かって浴びせられる銃弾の嵐を。秒間十発に及ぶ全自動射撃を。
 そして理解していた。腹と背中に重傷を負い、瞬発力の多くを奪い去られた自分に、銃弾をかわす能力はもう残っていないことを。そして三秒間あれば弾倉一つ分、合計三十発の弾をたたき込めることを。ライフル弾を三十発受ければ、第二世代型アインヘリヤルでも生きてはいられないことまで、完全に理解していた。
 だから、彼女は。
 突撃銃を顔の前にかざした。単に顔というだけではない、目の前に。
 ちょうどそこに吸い寄せられるように銃弾がやってきた。鉄と鉄が音速の二倍でぶつかりあう。火花がまき散らされる。銃身が歪んだ。プラスチック製のショルダーストックが削れた。弾倉が撃ち抜かれ、爆発した。顔の皮膚からたった数センチの距離で起こった爆発が、飛び散った破片が、アーデルハイドの顔を切り裂いた。
 その時にはもう、距離は半分になっていた。
 彼女は読んでいたのだ。敵が……優秀な弟が、自分の頭部を、おそらくは眼を狙ってくることを。第二世代型の生命力を考えれば、胸や腹よりも頭を撃ち抜くのが確実だ。だが第二世代型の骨はきわめて頑丈であり、単に頭を撃っても頭蓋骨を貫けないかもしれない。骨がない部分のほうがいい。私が彼の立場なら、きっと眼窩を狙い撃つ、そう読んでいたのだ。
 読みは当たった。次は……
 ひしゃげた突撃銃を胸の位置にまでおろした。ちょうどそのタイミングで、敵は弾を浴びせる部位を下に移動させた。今回もまた、弾を銃が止める。弟の射撃がきわめて正確だからこそ起こった出来事だった。もう少し下手なら、ここまで一点に向かって……心臓に向かって弾が飛んでくることはあり得なかったはずだ。
 すでに距離は十五メートル、三分の一にまで縮まっていた。アーデルハイドは迫ってくる弟の顔を見上げた。サーチライトの光を浴びて白く輝く肌、さらさらと風に揺れる銀色の髪、自分と違って汚れのほとんどないコート、そして……自分と違って、苦痛も、恐怖も、不安も感激も浮かべていない端正な顔。
 無意味をさとった弟が銃口をずらした。
 と、その時にはもう、アーデルハイドは跳躍していた。体中の筋肉すべてを弾けさせて、大地を蹴っていた。無理な運動がたたって、肺の中で血の塊が爆発した。背中の筋繊維がまとめて千切れていくのが感じられた。
 それでも、彼女は跳んだ。
 醜い姿だった。血で固められた砂が、彼女の体のいたるところにこびりついていた。顔面さえも血の洗礼を受けている。
 だが彼女は笑っていた。とても嬉しそうに笑っていたのだ。
 あの時のように。
 笑う彼女に……弟は、エールリッヒ・シュタインローゼは銃撃を浴びせた。さきほどの失敗をふまえ、急所に特定することなく撃ちまくった。今度こそ命中した。腹に、胸に、腰に弾丸が吸い込まれる。出来損ないの姉が自分に向かって飛んでくる一秒間、彼はずっと引き金を引いていた。十発の弾丸が、一発もはずれることなく姉に浴びせられた。
 しかし姉は止まらなかった。慣性の法則は死体に対しても適用される。だから致命傷を与えたところで止めることはできない。
 回避しようと弟が身をひるがえしたその時、すでに姉の身体がぶつかってきていた。驚くほど力強い腕が、弟の体を羽交い締めにした。二人は屋根を転がり落ちてゆく。そのまま地面に転落した。
 弟が下になった。おびただしい量の血が、二人の体を染め上げた。全て姉一人の体から噴き出したものだ。
 弟を組み敷くような格好になったアーデルハイドは、「化学言語」で命令を下した。
 筋力増強レベル最高。全アースメギン・ウイルス、両腕の組織強度を上昇させよ。
 これまで必死になって腹と背中、肺を治そうとしていたウイルスが、その役目をとかれて腕に回る。もう治療など必要ないのだ。痛覚遮断は解いたにも関わらず、全く痛みが伝わってこないから。痛みのない傷は致命傷、軍人なら誰でも知っていることだ。
 片方の腕を、弟の体の下から抜く。もう片腕だけで、必死にもがく弟の体を押さえつける。弟は頭突きまでかけてきた。鼻が潰れる感触。すでに口の中は血で一杯なので、今更何とも思わない。相変わらず弟の表情には恐怖も驚愕もないが、おそらく死にものぐるいなのだろう。
 やはり、弟のほうが筋力が優れているらしい。じりじりと腕が押されていく。
 だが、あと一瞬でいい、わずか時間がかせげれば、それでいい。
 自由になったほうの腕を、弟の顔に向ける。
 指をそろえた。突き立てる。
 眼球を指が貫いた。何か柔らかいものが潰れる感触が伝わってくる。痛覚遮断が間に合わなかったのだろう、弟の喉から呻き声が漏れ、体がこわばる。その間にもう片方の眼にも指を突っ込んでいた。
「ああっ、ああ……があああ!」
 両方の眼から、文字通り血の涙を流してのたうち回る弟。ついにその暴れる力がアーデルハイドの体をはねのけた。だが弟はもう、敵がどこにいるのか知る手段を持たない。
 立ち上がったアーデルハイドは、とっさに弟の背後に回り込んだ。弟は真正面に向かって銃を向け、引き金を引く。むろん弾丸はあさっての方角にばらまかれるだけだ。その銃声がアーデルハイドの足音を消し、わずかに残っていた敗北の可能性をも消してくれた。
 背後から忍び寄ったアーデルハイドは、コートの襟に隠された白い首を、両手で掴んでいた。
 ありったけの力を込めて握りしめる。
 もちろん、第二世代型の骨は固い。首の骨は、今のアーデルハイドの筋力では折ることができない。だが、気道をふさぐことは十分に可能だった。
「う……う……え……えあっ」
 弟は、銃を放り出して苦痛にあがいた。体を激しくゆさぶり、両腕を振り回し、ブーツで地面を踏みならした。
 たいして時間はかからないはずだった。第二世代型アインヘリヤルの筋肉細胞は、その出力に比例した、大量の酸素を要求するのだ。
 弟の体が動かなくなるまで、数十秒。
 偽装かも知れないと思ったアーデルハイドは、なお三十秒間首を絞めたままでいた。それでもなお弟は動かない。やっと手を離すと、後ろに倒れ込んでくる。
 弟は、両眼から真っ赤な血を垂れ流し、口を大きく開けて……細心の注意を払って造形されたはずの美しい顔を苦悶に歪めて……
 死んでいた。
 力つきたアーデルハイドは、そのまま弟と一緒に倒れ込む。
 動かなくなった弟に、名も知らぬ弟に、彼女は呼びかける。
「さよなら……」
 もう、立ち上がる力が残っていなかった。腹、胸、腰、手足、肩……十を超える敵弾を受けている。無事なところは首から上だけといってよかった。
 第二世代型は倒した。だが、まだ第一世代型は十体ほど残っているはずだ。自分が死んでしまえば囮もいなくなる。大丈夫だろうか。連中は、エルンストたちは大丈夫だろうか。
そうだ、まだやることがある。たった一つ、やることが残っている。
 彼女は胸の通信機を手にとった。出力を全開にする。そして叫んだ。暗号化はもちろん符帳も何も使わず、ただ叫んだ。
「シュヴェルトっ! 聞いてくださいシュヴェルトっ! わたしは死にます。これ以上、支援はできません。そのことを申し訳なく思います。本当です。ナチでも、そんなことを思うことはあるんです。他の方はともかく、シュヴェルトはわかってくれるはずです。シュヴェルト、シュヴェルト、負けないで、必ず任務を達成してください。シュヴェルト、あなたには、どれほど罪を重ねてもやらなければいけないことがあるんでしょう? 大切な何かがあるんでしょう。ありがとうシュヴェルト。あなたがいてくれたから、私は勝てた。ここまでこれた。ありがとうシュヴェルト。あなたも負けないで。私にできるのはここまでだけど。でも負けないで、あなたには、どれほど罪を……」
 あたりが妙に暗くなった。なにも見えない。銃声も風の音も聞こえなくなった。薄れゆく意識の中で彼女は呟いた。
「……シュ。ヴェル……ト。きっと」
 彼女が生涯最後に行ったのは、他人の名前を呟くことだった。
「エルンスト……きっと」
    
 五

 十九時三十七分
 館までの距離五十メートル

「エルンスト……きっと」
 その言葉は、エルンスト当人の耳にも届いていた。アーデルハイドの最期の言葉は、スイッチを入れっぱなしになっていた無線機に飛び込み、顔に装着されていたインカムから流れ出していた。
 その言葉をきいた瞬間、エルンストの中で何かが弾けていた。
 彼は立ち上がった。とたんに彼めがけて銃弾が殺到する。彼はひるまず、大地を蹴って走った。
「つづけえええっ!」
 壁に向かって突進する。
「了解」「了解、援護する」
 そんな部下たちの声が聞こえてきた。
 立って走るつもりはなかった。このまま伏せて近づく、そちらのほうが損害が少ないだろう、そう思っていた。
 だが、できなかった。
 彼女の叫びを無視するなど。
 自分の命が失われようとするまさにその時、彼女はエルンストだけを信じて、エルンストのことを思っていた。そして祈りにも似た言葉を残して消えた。
 似ている……これは……似て……!
 わかった。わかったぞシュランゲ。
 お前も同じだったんだな。同じだったんだな。世界に、この非情な、冷酷な世界に、お前は生きていてはいけないんだと出来損ないなんだと勝手に決められて。それでも必死になって逆らって、生きて。
 それなのに俺は……!
 その思いだけが、他のすべての感情と判断を圧倒してエルンストの中を荒れ狂った。
 一分一秒でも早く、あの壁にたどりついてやる……!
 幸いなことに、彼に狙いを付ける銃口の数は五分の一程度に減っていた。
 それでも彼の足下で地面が爆発する。的確な射撃だ。当たらなかったのは偶然にすぎない。それがどこから飛んできた銃弾なのか、エルンストは見なかった。見てどうするというのだ。死んだアーデルハイドのような芸当はできない。
 彼の突進は続いた。あと数メートルという距離になって、身体が目に見えない力で張り倒された。左足に力が入らず、立ち上がれない。
 見ると、足首に見事な穴が開いていた。黒ずんで見える血液が流れ出して、ズボンを汚している。
 立て! たかが足一本だろう、立て!
 このままうずくまっていては、アーデルハイドと同じ運命をたどることは明らかだ。
 彼は残る片方の足だけの力だけで身体を持ち上げた。別に足がちぎれただけじゃない、動かないのはごく一部だけだ。片方の足をひきずって、はねるように進む。
「がっ」「なむさん!」
 悲鳴が無線機から流れてくる。
 あれはバガニーニと、イチジョウだな。
 イチジョウは俺と同じ日系人。いや、正確には日本人と言うべきだろう。ドイツの同盟国、大日本帝国の軍人だったことがある男だ。日本がドイツの下位に位置することに我慢ならず、わざわざ欧州までやってきてレジスタンス運動に参加した変わり種。他の連中とは毛色が違いすぎて、よく衝突を起こしていたっけ。
「陛下のため、ひいては臣民のため。独逸帝国誅すべし」「なにが誅すべしだ。お前だってファシズム国家の軍人だったんだろ。ナチスと何が違う」「なにを言うか、この主義者が!」こんな感じだったな。バガニーニはイタリアだ。あいつもイチジョウと同じような理由でやってきた。
「ファッキン!」
 絶叫が通信機から響いてきた。そして後方で爆発音。あれはバーガーだ。爆発は、最期の力をふりしぼってロケット砲あたりをぶっ放したということなのだろう。
 ……すまん、みんな。
 だが、むしろ彼は自分の幸運に感嘆すべきだった。
 数人とはいえ、アインヘリヤルが待ち受ける拠点に徒歩で突撃して、この程度の被害で済んだのは奇跡に近いことだった。
 彼は館の壁にたどりついた。

 六

 十九時三十七分
 「ランツェスガーテン」館の壁ぎわ

 壁にもたれかかり、素早く周囲を観察。
 倒れている部下たち。その多くは絶命しているだろう。散乱したパラシュート。降りてから十分ほどしか経っていないのに、これだ。
 自分がいま、一番頼りにしているのはノヴァヤ・レボルツィヤ出身のレジスタンス、セバチンスキー。「火花」と呼ばれているあの男だ。あの男の爆破技術で壁に穴を開けるのだ。あの男の悲鳴は聞こえてこなかったが、果たして生きているのだろうか。もし死んでいたら、穴を開けることは不可能。高性能爆薬はセバチンスキーしか持っていない。壁づたいに移動し、玄関など窓なりから入るしかない。とても危険なやり方だが。
「こちら剣。こちら剣。火花をよこされたし、マッチに火をつける。現位置は東西百二十、南北百」
「こちら火花。ただちに向かう」
 セバチンスキーの返答はロシア人らしい飾り気のないものだった。だが、とにかく彼は生きていた。
 彼は走ってやってきた。小柄で、銀というより白髪に近い色の髪の毛を持つ男。中年の終わりといっていい年齢で、実戦の場に放り込むのは少々酷な年齢だ。事実、走る速度そのものはエルンストよりだいぶ遅かった。だが一発の銃弾も浴びていない。
 駆け寄ってきたセバチンスキーの第一声はこれだった。
「お前だけか」
「ああ、バーガーも……」
「残念だったな」
 セバチンスキーの声は相変わらず平板で、防寒マスクのため表情も判らなかったが、おそらく本当に悲しんでいるのだろう。明るく豪放なバーガーと、陰気で無口なセバチンスキー。一見正反対に見えるこの二人が、よく意気投合して一緒に呑んでいたことをエルンストは知っていた。
「それより火花、早く爆破を」
 セバチンスキーは無言でうなずき、背嚢からビニールで包まれた見取り図を取り出した。
「このあたりは……ここか」
 あまりおかしなところから館に入るわけにはいかない。できれば敵がすぐにやってこない、それでいて総統のいる部屋にはすぐたどり着ける、そんな場所がいい。
「わかった。離れろ」
 箱状のものを取り出し、無造作に壁に貼り付けた。
「三十秒」
 セバチンスキーはそれだけしか言わなかったが、エルンストには理解できた。あと三十秒で爆発する、それまでに突入メンバーを集めろ、と言っているのだろう。
「剣より全隊、剣より全隊。鉄は叩かれた。三十の火花が散りつつあり」
「了解。石より剣。火花は石でも出せる」
 「石」だ。ロックウェルが来てくれる。
 あのロイヤル・ガーズの勇者が。
 セバチンスキーがくぐもった声で言った。
「お前、上」
 それだけで理解できた。ロックウェルがここまで来るとき、当然敵に狙われるだろう。その敵を排除する。お前は上を担当しろ、そう言っているのだ。
 エルンストたち自身は、ある程度安全にななっている。これだけ壁に接近すれば、上から撃ち下ろすのは難しい。バルコニーや窓から大きく身を乗り出す必要がある。それだけ隙の大きな動きをすれば、仕留めるのはたやすいことだろう。館の壁が遮蔽物がわりになってくれるのだ。だが、ロックウェルはそうはいかない。
 エルンストは頭上を見上げた。小銃をゆっくりと振りながら、敵があらわれるだろう場所を確認する。二階と三階には、見える範囲で二つのバルコニー、四つの窓がある。その一つから銃口が突きだした。銃だけだ。身体を出すほど素人ではない。
 だか、これだけ近いのだ。出来る。
 エルンストは引き金を引いた。
 わずか数メートルの距離を超音速で銃弾が飛んだ。銃身が跳ね上げられる。
 よし。
 あいつはもう来たか? そう思って視線をそらし、地面に向ける。
 ロックウェルの姿が見えた。上体を大きく左右に振り、空気をかきわけるようにして走っている。シルエットがエルンストたちと異なるのは、二種類の銃を背負っているからだ。
 距離はあと二十メートルか。
 またひとつの窓から銃が、先端部分だけ飛び出した。実に狙いづらい。
 狙撃のようにじっくりと狙いを定めることはできない。なかば反射的な動作で、一呼吸の間に照準、撃った。金属音。敵が銃を取り落とした。
 ロックウェルが滑り込んできた。
「あと十秒。伏せろ」
 三人はただちに伏せた。
 爆発の衝撃はさほどではなかった。指向性の高い爆薬だったせいだろう。しかし壁の破片が吹き飛ばされ、エルンストの分厚い防寒服を叩いた。
 顔を上げると、そこには人間一人が入れる程度の穴が開いていた。
 目配せするエルンストとセバチンスキー。だがロックウェルは、青い眼でエルンストを凝視しつつ言った。重々しい声だった。
「剣。火花。君たちだけが行け。私はここに残る」
「……なぜ?」
「私は屋内の至近戦闘はあまり得意ではない。足手まといになりかねん。せっかくのこの銃が泣くしな。それに、ここで敵をくい止めるものが必要だ。外にもアインヘリヤルが何人か残っている。この穴から中に入られたらやっかいだ」
 エルンストは唇をきつく噛みしめ、うなずいた。
「……わかった」
 すでに多くの仲間たちが死んだ。このうえロックウェルすら喪うのは、むろん辛かった。だが、仕方ない。もとより全滅は覚悟の上の任務だ。
 ロックウェルは顔の下半分を覆うマスクをはぎ取り、ヒゲもじゃの顔をあらわにして微笑んだ。
「行け。私は務めを果たす。君たちも」
 エルンストとセバチンスキーは、うなずいてロックウェルに背を向けた。
 こうしてエルンストは、総統と、兄と、そして聖槍の待ち受ける「ランツェスガーテン」へと足を踏み入れた。 


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