第四章 「ぼくの目的は、楽園を築くこと」
一
「そんなことを言ってる場合じゃないよ。時間がないんだ。早く外にいって、あの陳情に来た人たちの言葉を聞こうよ」
ここは会議室。談話室と似ていないこともないけど、もう少し狭い、そして窓の少ない部屋だった。
ぼくは二人の人間と、テーブルを挟んで向かい合っていた。
「他にやるべきことはあるはずです」
その一人、バルディチェ・スポントゥーンさんが言った。紺色のスーツに包まれた太い腕を組み、灰色の顔を苦々しく歪めている。
「そもそもですな、キリアス様はまだお若い。学問のほうも、まだ必要な全てを学んだわけではない。直接統治に当たられるのは無理がある、私はそう思います。あと数年は待つべきです」
それはもう何度もきいた。
それどころか、「キリアスぼっちゃまは当主の器じゃない」って、バルディチェさんが父さんに言ってたところ、ぼく見たことあるよ。ぼくのこと嫌いなのかな、この人。
「私は長年に渡り、伯爵閣下のお仕事を補佐しておりました。いえ、伯爵閣下は大まかな指示を下されるだけで、細かな計画は私が立てる場合のほうが多かったといえるでしょう。このジリオース二十億の民が何を望んでいるか、私は知っているのです。また私はマキシムガロン大学で経済学、ベルテグラム大学で現代政治を学んでおり、今のキリアス様に書けている知識を持っております。さらに……」
この人の話はとても長くて回りくどい。父さんはこの人が気に入っててたみたいだけど、喋っててうんざりしなかったのかな。
「つまり……政治は自分がやるから、ぼくは黙っていてくれ、っていうことでしょ?」
「まあ端的にいえばそういう事です。私でなくても、誰か代官を雇うべきです。いえ、百歩譲ってキリアス様が統治を行うとしましょう。しかしそのさいにも、私たちの助言を無視するべきではありません」
たぶんそう言われるだろうとは思っていたんだ。十五歳の領主はたまにみかけるけど、自分で政務を行うっていうのは聞いたことがない。
でも、ぼくはもう決めたんだ。
「ルーンさんは?」
ぼくはもう一人、デミ・ルーンさんに向かって問いかけた。スポントゥーンさんと比べれば半分くらいの体格しかない女の人。落ち着いた色の服装。タイトスカート。男みたいに短く切った黒い髪と、金色の眼をした、とても奇麗な……だけど冷たい感じをふりまいている女の人。美女というより、どこか美少年っぽい。縁の細い、少しレンズの小さな眼鏡をかけている。本当に眼が悪いのかどうかは知らない。もしかすると父さんの真似をしているのかな、と思ったことがある。
ここ何年か、父さんの秘書をやっていた。
スポントゥーンさんとは違う意味で、ぼくはこの人のことが苦手だった。ほとんど喋ってくれないんだ、この人。
吸い込まれそうな光を放つ眼でぼくをじっと観察しているだけ、という感じ。もちろん挨拶はするし、ぼくが何か尋ねたら丁寧にこたえてくれるんだけど……でもそれだけ。凄く機械的だ。
「はい」とか「いいえ」とか、「私にはわかりません」とか「エギナル様に伺ってください」とか。
ぼくのことを人間だと思っていないんじゃないか、ものすごく値段の高い壺とかを扱っているつもりなんじゃないか、そう思わずにはいられないんだ。
だからルーンさんに呼びかけた時、ぼくはまったく期待していなかった。いつも通り、猫の一種みたいな眼でぼくの顔を見つめて、白い顔にまったく表情を浮かべずに「わかりません」とか「私には決める権限がありません」とか言われるんじゃないかって思っていた。というより父さんの秘書だったんだから、
「キリアス様に政務をとらせるくらいなら私がやります。エギナル様の仕事を間近で見ておりましたから」くらいのことは言いかねない。
ところが。
「そうですね……わたくしは、キリアス様にまかせてみても良いと思います」
「え……」
「なんですと?」
ぼくはルーンさんの顔を見つめた。するとルーンさんの白い顔には、ほほえみが浮かんでいた!
「正気ですか、ルーンどの」
「ええ。私はキリアス様の能力を信じております。なんといってもエギナル様の血をひいておられますから。さあキリアス様、遠慮なさることはありません。まず、何をするべきだと思いますか?」
あまりにも意外だった。ぼくはルーンさんの顔から眼をそらすことができなかった。ルーンさんがぼくの言うことに賛成した。それどころか……いままでぼくの前では愛想笑いも浮かべたことがなかったのに、今は笑ってる。つくりものには見えない笑みを浮かべている。
「さあ、キリアス様?」
いつのまにか、声までうれしそうに……
こんなルーンさん見たことないよ。
「ぼ、ぼくは……」
ルーンさんは真剣なまなざしでぼくを見ていた。ぼくは普段の癖で眼をそらしそうになって、意志の力でどうにかそれを止めた。
「ぼくは、だから、さっきもいったみたいに、みんなの望んでいることを聴きたいんだ。耳を傾けたいんだ」
「陳情を受け入れるということですか」
「うん、そう。父さんはそもそも聴こうともしなかったけど、それじゃいけないと思うんだ。だから、まずみんなに向かって発表する。ぼくは前の領主とは違う、ちゃんと意見を聞くって」
「ええ、私もそう思います」
信じられなかった。でも、現実だ。
あのデミ・ルーンさんがぼくの言葉にうなずいて、微笑んでくれている。父さんにすら向けていなかった微笑みをぼくに。
ぼくの気持ちが伝わったんだ。そう思った。その確信は自信を生んでくれた。
「わかってくれてうれしいよ、ルーンさん」
「ルーンで結構です。エギナル様は……お父上はデミと呼んでおりましたが」
「じゃあ……デミ、さん。放送局に連絡をとってくれないかな。全領土に放送したいんだ」
「キリアスさま……」
スポントゥーンさんはうめくような声を出した。
でも、なんと言おうと、ぼくはやめないよ。自分が正しいと思ったことを、ここの領民を救うために必要だと思ったことをやるよ。
父さんは「やってみろ」って言ったんだ。死ぬ寸前、そう言ったんだ。だからやめるわけにはいかない。
それに……理解してくれる人も、こうして現れたしね。
ぼくがデミさんのほうをちらりと見ると、デミさんは視線を合わせてきた。レンズの向こうの眼には、うたがいようもない本物の喜びがあった。
二
ぼくは壇上に立っている。
ここはジリオース放送の放送局。スタジオのひとつに急遽つくられた演壇の上。
まぶしい光が頭上から浴びせられている。
前方には浮遊式カメラが二つ浮いている。左右にも同じようなやつがいくつかある。そのうち現在作動しているのはどのカメラなのか、実際に画面に映るのはどれからの映像なのか、ぼくには確かめる方法がない。
そんなことを考えてしまうのは緊張している証拠なんだろうな。
動揺することなんかない。ぼくは正しいことをするんだから……
「正しいことをするんだ、正しいことを……」その言葉を口の中で繰り返す。少し体のこわばりがとれてきた。そうだ、それでいい。領主になったんだ、大勢の前で話すことができなくてどうするんだ。
大丈夫、きっとうまくいく。演説の草稿だって、かなりいい感じだ。ぼくとデミさんが一晩かかって考えた文章。あれはきっと、この星を
「キリアス様、開始十秒前です」
撮影スタッフの声。ぼくは小さくうなずく。
時間が過ぎていく。五、四、三……
はじまった。
息を大きく吐いた。
「ジリオースの領民へ。私はキリアス・カーン・ジリオース・アルカゼルである。先代領主エギナル・アルカゼルの息子である。知ってのとおり、父エギナルは不慮の事故により亡くなった。
このことをみなさんは嘆いているだろう。私も深く嘆き、悼むものである。
だがそれはそれとして、泣くよりも先にやるべきことがある。新しい領主を選ぶことだ。父エギナルが果たしていた務めを継ぐ者が。
私がその新領主だ。私は父のすぐそばで、領主としての仕事ぶりをつぶさに見てきた。その結果気づいたこともある。父の統治は見事なものだったが、まだ足りないものがあると。
この星には、まだまだ多くの虐げられているものがいる。本人のせいではない飢えや貧困に苦しむものがいる。そういった人々を救いたい。父は力およばず、あるいはそういった人々の存在に気づくことすらなく、彼らを十分に救うことが出来なかった。
死者をむち打つのか、そういって怒りを覚える者もいるだろう。だが私はあえて問いたい。貴族は何のために存在するのか、何故領主はいるのかと。
すべては統治のためではないか。ならばその統治をより完璧に行いたいと思うことの何がいけないのだろう。私は、貴族の責務とは領民を守ることだと教わった。だからそれを実行に移したい。それこそが、本当の意味での弔いになるのだと思う。
その第一歩として、領民の陳情を受け付けたい。私はかつて館の前に集まった群衆を見た。陳情に訪れた人々だ。あんなにも多くの人々が現状を嘆いていたというのに、父はその声に耳を傾けることがなかった」
そこでぼくは一度言葉を切った。
真正面のカメラをしっかりと見つめる。心臓の高鳴りがきこえた。顔が、体がこわばる。でも今度は緊張のためじゃない。決意のためだ。ぼくはたぶん今から、凄いことを言おうとしている。
「私は違う。私は諸君らの声を聴きたいのだ。 このジリオースを、これまでとは違った世界にすることを約束する」
三
「……ものすごい数だね……」
ほとんどうめくような調子で、ぼくは言った。
会議室のスクリーンに映し出された映像が、あまりに凄すぎたからだ。
「五万人はいますね」
デミさんが言った。う、具体的な数をあげられるとますます意志がくじけそう。
スクリーンは、上空からこの屋敷をとらえた光景を映していた。
四角い、塀で囲われた敷地。中は庭園と館がいくつか。そこまではいい。問題は、塀にからみついている黒い帯みたいなものだ。
あれは人だ。人の列だ。正門の前に並んだ、五万人以上の人間達。列がながすぎてまっすぐにできず、屋敷をひとまわりして、まだ伸びる。
「整理はどうなってるの?」
「ご安心ください。昨日のうちに警備の人員は配置しておきました。ごらんの通り混乱は起こっていないでしょう」
「この分だと、ぼくが全員の話を聞き終えるまでにすごく時間がかかるね。食べ物とかはどうしているのかな」
「持ってきていない者も大勢いるようですね。非常に雑多な人間の集まりです。高級車で乗り付けてきた大企業代表もいれば、着替えも食料も持たず徒歩でやってきた者も」
「じゃあ、食べ物と着替えを用意して。あと、テントとかも。足りない人には分けてあげようよ」
「わかりました。さっそくその準備を整えます」
ぼくの言葉に、デミさんはてきぱきと応えてくれる。
「キリアス様、本当に実行されるのですか? 一人一人キリアス様がじかに会って話を聴くと?」
これはスポントゥーンさんの声だ。体が大きすぎて椅子に腰掛けることができないので、ぼくたち二人のかたわらに立っている。
「くどいよ。やると言ったらやるんだ」
もう迷いはなかった。だってデミさんが信じてくれたんだ。
「キリアス様、場所はどちらに。やはり会議室で」
「うん、ここでいいよ。もともと話し会いをするために作られた場所だからね」
スポントゥーンさんは顔をしかめた。ほとんど泣きそうな顔だ。
「キリアス様、素性も知れない平民を館の奥深くまで入れるというんですか! 威厳の問題もあります、せめて謁見用の広間をお使い下さい!」
「いやだよ。だってあそこは、威張り散らすための部屋じゃないか。あそこでやったら、話をきいてやるからありがたく思え、っていう感じになっちゃう。それじゃ今までと何も変わらないじゃないか。だからぼくはここでやる。ね、デミさん?」
「ええ、私もそう思います、キリアス様」
「ではせめて……せめて、私を同席させてください」
スポントゥーンさんは顔に似合わず心配性だなあ。
「それは別に構わないよ。よく見ててくれ。見守っていて欲しい。ぼくが世界を変えていくのを」
世界を変える。ものすごい言葉。その言葉がぼくの体を震わせた。そうだ、ぼくは今から世界を変えるんだ。
「さあ、一番最初の人を呼んでくれ」
四
会議室のドアが開いた。青い制服の警備兵二人にはさまれて、若い男が入ってきた。
その男の姿を見たとたん、ぼくは椅子から立ち上がりそうになった。必死になってそれをこらえる。
その男は汚いジャケットを羽織っていた。あちこちが破れている。得体の知れない染みがいくつかもついている。ほとんど雑巾のような代物だ。そのへんで拾ってきたようにしか見えない。
髪の毛もぐしゃぐしゃで、まるで油にまみれているような光沢を放っている。
まだ何メートルも離れているというのに異臭かただよってきた。ぼくがいままでかいだことがない種類の臭いだ。馬の体から出る臭いに似ているけど、少し違う。
いや、それはいい。それはまだいいんだ。
眼が、眼が……
男には左目がなかった。もともとそういう顔をしている種族だってわけじゃない。どう見ても、最初はふたつ眼があった。でも左側はえぐりとられたようにへこんでいて……
男はテーブルの前まで来ると、立ち止まった。ぼくのほうに視線をむける。
「よ、よく来てくれた。まず名を名乗ってくれ」
いけない。動揺しちゃ。でも少しどもってしまった。
「クナンガスと申します。北大陸ウェンゼー市で暮らしているものです」
ウェンゼー市か。あの宇宙港がある都市だね。「ジリオース五大都市」といったら入らないけど、「十大都市」なら間違いなくウェンゼーも挙げられる。そのくらいの大きさの都市だ。ぼくは上空を通ったことしかないから、あまりよく知らないんだけど……最近は治安が悪くなったり、失業者が増えたりしているらしい。
この人もたぶんそうなんだろう。ものすごく貧乏そうだ。というより、もう何年も風呂に入っていないように見えるこの格好、この臭い……失業者というより浮浪者だ。
「わかった。クナンガス。座ってくれ」
その言葉に、クナンガスの片方しかない眼が見開かれた。
「い……いいんですか?」
ああ、普通平民は貴族と話すとき、立ったままだからね。特にクナンガスさんは、平民の中でも特に身分が下、みたいな扱いを受けていたんだろうから……驚くのは当然かも知れない。
「うん、じゃなくて……ああ、構わない。楽にしてくれ」
クナンガスは椅子にこしかけた。とても丁寧……というより、おどおどした動作。
「で、何を陳情しに来たんだい」
できるだけ相手を怖がらせないように、いばらないように、それでいて威厳がゼロにはならないように、工夫して喋ってるつもりだ。
でも、やっぱりぼくも緊張していた。
「私は……ウェンゼーのアシュマール地区で暮らしています。アシュマールというのは……言ってみればスラム街です。暮らしは見ての通りです」
ぼくはぜんぜん怖い顔じゃないのに、クナンガスは顔を伏せたくて仕方がないらしい。
「ほら、顔をあげて。それで?」
スポントゥーンさんが鼻を鳴らした。
「やはり思った通りでしたなキリアス様。この男はただの物乞いです。キリアス様が甘いのを良いことに、金や食べ物をねだりにきたのですよ。早く追い返してしまいましょう。こういった手合いを相手にしていたらきりがありませんよ」
「スポントゥーン! 黙れ!」
その言葉はほとんど反射的に出ていた。叫んだ瞬間、ぼく自身あっけにとられた。
「キリアス様……?」
「黙れと言っているんだ。そうやって頭から決めつけていたら、何も変わらないじゃないか。ぼくはもう、そういう事をしないって決めたんだ。……さあ、クナンガス、この者の言った通りなのか。君は食べ物や金をもらいにきたのか」
「……いいえ」
彼ははっきりそう言った。片方しかない彼の瞳、そこに浮かんでいる感情の種類が急に変化した。ついさっきまで充満していた怯えの色はもうない。
かわりに、そこには静かな怒りがあった。
「……私たちが貧しいのは、私たちがゲルグル人だからです。私たちゲルグル人は……きいたことはありませんか『邪眼のゲルグル』という名前を。こちらの眼は地球人と同じような眼なのですが……もう片方の眼は、とても醜い眼なのです。今はもうえぐりとってしまいましたが、無数の血管がからまりあったような形をしているのです。地球人はむろん、他の種族たちも我々を不気味がります。それが何世紀も続いたおかげで、我々はスラムにしか住むことができません。そこでも底辺の生活です」
「すべて、その眼のせいで?」
「ええ、そうです。この醜い顔のためです」
ぼくは息を深く吸い込んだ。
そして考えた。それがどういう生活なのかと。ぼくが街で出会った、あの強盗たち。あれと同じ……いや、あの人たちだってもう少しは奇麗な格好をしていた。それ以下なのか。
「仕事をしてお金を貯めれば、外に出られるんじゃないのか? 無理なのか?」
少なくとも、あの強盗たちはお金を欲しがっていた。つまりお金があればあの状況から脱出できたということ。
「無理に決まっています。私たちは汚い生き物だと言われているのです。私たちはどんな仕事にもつけない。食べ物を売ることも、荷物を運ぶことも、建物を建てることも……私たちが触ったものは全てけがれる、近寄っただけでもけがれる、と言われているからです。盗みもできません。スラムには盗みを行っているチームがいくつもあって、そのチームに属さないと盗みもできないのです。一人で盗みを働けば、なわばり争いということで殺されます」
クナンガスの眼からは怒りが消えていた。
話しているうちに、その顔には「あきらめ」が充満していった。
「……本当のことかい、デミさん、スポントゥーンさん」
デミさんは沈痛な表情をつくってうなずいた。
「ええ、この者の言うとおりです。『邪眼のゲルグル』だけでなく、平民の中でもとくに卑しい存在とされる賤民階級が存在することは事実です。不可触民というらしいでね。ある意味では奴隷以下かも知れません。奴隷だって働けば、食べ物くらいは供給されるわけですから」
一方スポントゥーンさんは、いかにも不快そうに大きな顔を歪めて、こう言った。
「キリアス様。この者の言っていること自体は本当のことです。ですが、このような者まで救おうとすることはありません。どうかこの者を館から追い出し下さい。こんな者と同じ空気を吸っているのかと思うと吐き気がします。この者の言葉を聞くと耳が腐ります」
ぼくは思わずスポントゥーンさんの顔をまじまじと見つめた。怒るより先にあっけにとられた。本人の見ている前でこんなことを。
「スポントゥーンさん!」
ぼくは怒鳴りつけた。
「キリアス様。わたくしはキリアスのことを考えて申し上げているのです。このような者を屋敷に入れた、いえ、会ったというだけでも伯爵家の名に傷が付きます。高貴な帝国貴族の体が汚れます。どうか……」
「ぼくの前でそんな事を言うな!」
貴族と平民の間には、「身分」の差がある。平民の間にも、法律では定められていないけど、実はそういう差があるらしい。仕事をがんばればお金がたくさんもらえて、平民の中では偉くなれる……っていうほど簡単なものじゃないことは、一応知ってた。話にはきいていた。
でも、まさかこれほどとは。
ぜんぜん人間扱いされない人間がいるなんて。そしてそんな扱いをする人がぼくのすぐ側にいたなんて。
「キリアス様……」
ぼくは顔を上にむけた。スポントゥーンの大きな顔をにらみつける。ぼくは昔から女の子みたいな顔だって言われるから迫力はきっとなかったと思うけど、それでも精一杯、ありったけの怒りをこめてにらんだ。
「……ぼくはそういうのが嫌なんだ。何度も言ったはずだ。そういうのをなくしたいんだ。だから言うな。言ったら……」
「わたくしを馘になさるつもりですか。何十年も伯爵家にお仕えしてきた私を?」
「そうだ!」
意外とあっさり、その言葉は出てきた。父さんとずっと一緒だった、父さんの仕事を補佐してきたスポントゥーンさん。そりゃ、その知識は惜しいし、家族みたいに一緒に暮らしてきた人に「出て行け」って言うのは辛いさ。でも……
ぼくはもう、あの言葉をきいてしまった。そして気づいたんだ。スポントゥーンさんが「吐き気がします」と言ったとき、本当に気分が悪そうだったことを。この人は、ぼくが作ろうとしている世界とは根本的に相容れないことを。
「話を戻すよ。仕事はできない、盗みとかもできない。じゃあ、どうやって生きているの」
「物乞いと、残飯あさりと、死体あさりです」
ぼくは声もでなかった。
ぼくはその時どんな顔をしていただろう。顔をしかめていただろうか。それとも泣きそうだったろうか。
あるいは怒っていたのかも知れない。顔はともかく、胸の中には怒りがあった。そんな生活を強いられている人がいるという事実に。強いられている? 間違った表現を使うべきじゃない。それじゃ他人事みたいだ。実際には、強いているのはぼくなのに。ぼくたち貴族が、そういう人たちのことを見て見ぬふりして、助けようともせずに。
一番怒っていたのは、たぶん自分に対してだろう。ただ本の中、物語の中に逃げ込んで、世界にはこういう人たちがいるってことを知ろうとしなかった自分に。
大きく息を吐いた。そうでもしないと泣き出してしまいそうだった。
「……よくわかった。助けよう。助けたい。君たちの種族を。君たちは、ただお金とか食べ物が欲しいんじゃなくて、自分たちの種族がそんな目に遭わされる世の中を変えて欲しかったんだよね。そうだよね」
「ええ」
クナンガスは、一つしかない眼でぼくの顔を見ながら言った。確かにうなずきながら。
「わかった。わかったよ。そんなの許されていいはずがないよ。必ず助ける」
ぼくは胸を張って言い切った。クナンガスの顔をまっすぐに見つめて。
「さあ、もう帰っていいよ。きっと助けるから」
クナンガスが深々と礼をして退室する。
「デミさん、さっそくこの状況を変えたいと思う。クナンガスの種族を助けるにはどうしたらいいと思う?」
デミさんはすぐに答えた。
「法律を作りましょう。差別を許さない法律を」
「さべつ……?」
ぼくは首を傾げた。そんな言葉は聞いたことがなかった。
「昔、こういう考えがあったのです。この世の全ての人間は平等だと。同じ扱いを受けて当然なのだと。それで、その平等さが失われている状態を『差別』というのです」
「ルーン殿! それは反国家的な危険思想ですぞ!」
スポントゥーンが巨体を震わせてわめく。でもルーンさんは口元に手をやってくすくすと笑い、こう言い切った。
「あら、ここにいるキリアス様は、まさにそういった古い考え、カビの生えた考えを打破しようとしているのですよ?」
ぼくは確信した。この人は本気だ。本気でぼくを信じてくれたんだ。
「デミさん……ありがとう」
「いえ、それより法律の整備を急ぎましょう。種族間差別を許さない法律です。法律に違反したものの処罰はいかが致しましょう。やはり死刑ですか?」
相変わらず微笑みながら、そんな事を言う。
「えっ、死刑はちょっと……」
ぼくが弱々しく抗議すると、デミさんは涼しげな微笑みを浮かべたまま答える。
「よくお考えになって下さいキリアス様。このクナンガスたちに対する虐待は、昨日今日はじまったわけではないんですよ。もう何十年も、いえ、何百年も昔から続いていたんですよ。おかげで、それが当然なんだと思っている人間が多くなってしまいました。ここにいるスポントゥーンを見ればよくわかるでしょう。
そんな人間達に、差別するのが当然なんだと思っている人たちに、一体どうやってそれをやめさせることができるというのですか?
口で注意すればやめますか? 説得できますか? 本当に? もし出来なかったら、これからも差別がずっとずっと続くことになるのですよ」
「うっ……」
確かにそれは言えてるかも知れない。
ぼくはスポントゥーンの顔をまた見上げた。彼は憮然としていた。自分は正しいことを言っているのに、なぜご主人様は理解してくださらないのか……そう言いたげな顔だった。
スポントゥーンは決して珍しいタイプじゃない。たぶんこういう人が世の中の大勢を占めてるんだろう。だからこそ、いつまで経っても世の中は変わらなかったんだ。
顔を下げ、またデミさんと視線を合わせた。それを待っていたかのようにデミさんは語り出す。
「ですから、刑罰を厳しくするしかありません。キリアス様の正しい考えを理解できない者には、力をもって、正義の裁きをもって思い知らせるのです」
「……でも、殺してしまうのは、他に方法が」
「キリアス様は約束したではありませんか。必ず助けるって。本人を前に言い切ったでしょう。それなのに、手段を選んでいてよいのですか? ええ、確かに方法はあるかも知れません。でも、他の方法、もっと良い方法を探していたら、手遅れになるかも知れません。その間も差別はずっと続くのですから。見つかる前に何人も、何人もの人が殺されることになるでしょう。あのクナンガスという男も死んでしまうかも知れない。約束を守れないことになるのですよ。それでいいのですか」
デミさんの言葉はぼくの胸を貫いた。あの惑星サクリファイスで見た光景が、耳にした台詞が蘇った。
そうだ、それじゃペルーサと同じだ。きっと助けるって言いながら助けなかった。それは罪だ。どうしようもない罪だ。
なにがなんでも助けなきゃ。
ぼくはもう、それだけしか考えていなかった。ペルーサと同じになりたくない。
「わかった。デミさんの言うとおりにする。差別は許さない。違反した奴は……死刑。それでいいんだね、デミさん」
「ええ。キリアス様は正しい目的をもっておられるのです。正しい目的の為に力を使うことを恐れてはいけません」
デミさんは顔を近づけてきた。整った白い顔。髪の毛は黒いのに肌はとても白い、陶器のように。銀縁の丸い眼鏡。そして金色の眼。澄んだ、深みのある光をたたえた眼。うっとりする。吸い込まれそうだ。この人は、ついこの間まで「冷たい」「怖い」という印象しか与えてくれなかった。でも今は違う。顔そのものは全然かわってないのに……
「うん……そうだね」
ぼくはうなずいた。うなずいていた。
「キリアス様、少し不安げですね」
「……そうかな」
「ええ、とても。でも安心してください。キリアス様は正しいことをしようとしているんですよ。自信を持ってください」
「自信を……」
「わからないのですか、キリアス様はいま、楽園をつくりだそうとしているのですよ」
「楽園」
「そう。すべての人間が、貴族も平民も奴隷もなく、等しく幸せに暮らせる世界を。弱い者がなぶり殺しにされることもない、見て見ぬ振りをする卑怯な貴族もいない、そういう世界です」
「楽園……」
ぼくはまたその言葉を繰り返した。熱のこもった言葉だった。楽園。そうだ楽園だ。ぼくは楽園を作りたかったんだ。ぼくの心の中で渦巻いていた得体の知れない思いを、デミさんが形にしてくれた。
「私、見てみたいんです。キリアス様のつくる楽園を」
「……できるかな」
「できますよ、きっと」
どうしてデミさんはそんな事を言うんだろう、これが本当にあのデミさんだろうか、あの氷のように冷たかったデミさんのどこに、こんな情熱があったんだろう、そう不思議に思いもした。したけれど……そんな小さな疑問は興奮の中に溶けていった。
ぼくはキリアス・アルカゼル。
ぼくの目的は……楽園を築くこと。
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