第五章 「今はお休み下さい」

 一

 ぼくは執務室の机に頬杖をついていた。
 するとデミさんの声が。
「キリアス様、これが新しい報告書です」
 机の上にデミさんが紙束を置いた。
 ぼくはそれを手にとって、首をかしげる。
 えーと、「エリエスバルレイン市第一回職業訓練プログラムの実施状況と成果」?
「これは……なんの報告書?」
 少し疲れがたまっているのだろうか、頭がうまく働かない。
「ほら、階級差をなくすためには貧しい人に学問を教えなければいけない、とキリアス様がおっしゃっていたじゃありませんか。あの教育プログラムですよ」
「ああ、そうか」
 ぼくの意識が少しはっきりした。そういえば、確かにそんなことも頼んでおいた。
 報告書の中を開いてみた。ふんふん。まず住民の教育水準を四段階に分け、それぞれに合った教育を行うと。第一段階は文字と計算……うわっ、全体の六割が第一段階なのか。
「これ……」
 ぼくがそのページを指さしてデミさんに見せる。
「ええ、その数字には私も驚きました。まさかエリエスバルレインの識字率がそこまで低かったとは」
「うん、それじゃ仕事を選べないのは当然だよね」
「他の都市では三割を超える数字は出ていません。この都市が特別なんですね」
「三割でも多いよ。だって何十万人もの人が、ただ読み書きできないってだけで一生を決められちゃうんだよ。ところで、教師の数は足りてるの」
「今のところは。こちらのページをご覧下さい。ただ、第一段階ならともかく第二第三と高度になれば、当然不足することが考えられます。その予想もこちらのグラフに書かれています。一年後には二十パーセント、二年後には三十五パーセントの不足が生じます」
「うーん、でも高等学問を教える先生は、そうすぐには育成できないしなあ……普通の学校から引き抜いてくるしかないね」
 ぼくはため息まじりに言った。
「大学からの抗議がありそうですね」
「大企業に続いて大学まで、かあ」
 ぼくが初めて陳情を聴いたあの日から、すでに半年が過ぎていた。
 あれからぼくは来る日も来る日も、人々の声に耳を傾け続けた。
 ……鉱山で働いているものです。労働の条件があまりにも厳しすぎます。すでに多くの仲間が飢えと病気、事故で死んでいます。
 ……私たちの村にはお医者さんがいません。そのせいで多くの人が病気で死んでいきます。
 ……私たちの種族は、この醜い外見のせいで普通の職業につくことができません……
 ……私たちの村はこの間の台風で大変な被害を受けてしまいました……
 ……私たちの住む地区に大企業が工場を建てるそうで、私たちは追い出されようとしています。しかし、どこに行けというのでしょうか。
 ……息子が殺人の容疑で捕まりました。ろくに証拠もないのに、もうすぐ処刑されようとしています。私たちがこういう種族だからなのです。息子の命を救っていただけませんか。そしてどうか、公正な取り調べと裁判を。
 ぼくは出来る限り詳しく話を聴いた。本人だけでなく、関係者をできるだけ多く呼んで話を聴いた。デミさんに頼んで文献資料も集めてもらった。その上で一つ一つ問題を解決していった。鉱山とか企業の代表者を呼んで話し合った。最初は向こうも仰天していたが、何度も頼むうちに、ひどく疲れたような表情で納得してくれた。働いている人たちの給料は上がり、働く時間は短くなった。
 台風で被害を受けた村にはぼく自身が行った。みんなを励まして、食べ物と薬を配って、あとは業者を呼んで家を建て直させた。みんな泣いて喜んでいた。
殺人事件の話は、どういう根拠で犯人だと決めたのか、治安警察の面々に訊ねてみた。ぼくの名前を出しただけで、やたら分厚い資料が送られてきたけど、デミさんが『嘘がたくさん混ざってますね。このやり方なら誰だって犯人にできますよ』と言うとおり、限りなくでっち上げに近いものだった。ぼくは、その男を釈放しろと命じた。今回はこれで済んだけど、捜査と裁判のシステムを根本的に改めさせる必要があるかも知れない。
「もう一つ問題がありますね」
 デミさんが言う。
「言われるまでもなくわかってるよ。お金でしょう?」
「ええ、そうです」
 デミさんは小脇に抱えていた別のファイルを開く。奇麗にまとめられたグラフだ。
「う……」
「これじゃ全然足りないよ」
「税を減らして、これだけ大規模な援助をしているんです。お金が足りるはずないですね」
 デミさんの顔を、ぼくは正面から見つめた。
 今、その眼は、情熱とか信頼みたいな圧っぽいものは浮かんでいない。
 金色に光る眼の奥には、憂いがあった。
 でも、それだけじゃない。
 いままで「冷たい」とだけ思っていたけど、今ではその下にはいろいろな感情がひそんでいることに気づいている。
 半年の間に色々あったから。
 いつだってデミさんはぼくの側にいて、ぼくを助けてくれていたから。
「デミさんの言いたいことはわかるよ。税率を元に戻すべきだっていうんでしょ」
「はい。一時的なものでもいいんです」
「でもそれじゃ……人を助けるために別の人を苦しめるなんて、何か違ってるよ」
 そう。ぼくは半年間いろんな事をやってきて、それで多くの人を助けてきたつもりなんだけど……でも「何か違う」って、いつも思い続けてきたんだ。
「デミさん、税率全体を上げるんじゃなくて、できるだけ貧しい人に影響を与えないような上げ方はできないかな」
「それは、収入の高い人だけ上げる、ということですか?」
「うん、たとえば。それに……貴族だけ、とか」
「それは猛反発が起こりますよ!」
 デミさんは少しだけ眼を見開いていた。
 無表情に近いデミさんにとって、これは最大級の感情表現だ。
「それは最初っからわかっていたことじゃないか。貴族だけに徹底した高税をかけるんだよ。それしかないよ」
 そうだ、考えてみれば簡単なことじゃないか。これまでは企業とかを相手に、ああしろこうしろって命令してた。でも企業が潰れちゃったら平民だって困るから、どうしてもぼくは手加減していた。
 その点、貴族なら遠慮はいらない。
 貴族の持っているお金は、ほとんど全部が平民から巻き上げたものだから。そして貴族が貧乏になっても、平民には悪影響ないし。
 どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
 答は判りきってる。ぼくも貴族だから。
 だから、どうしても自分たちに矛先を向けることができなかったんだ。楽園を作るためならなんでもやるって、そういう覚悟を決めたのに、まだ逃げていた。心の中に、いくつもタブーがあったんだ。
 駄目だ、ぼくは駄目な奴だ。
「キリアス様……」
「そんな顔しても駄目。わかってるよ、デミさんがぼくを心配してることは。ぼくのやり方が急激すぎるっていうか、過激するっていうんでしょ。でも、仕方ないんだよ。ぼくはもう約束しちゃったんだよ……」
 そうなんだ。夜眠っていても、声がするんだ。ご飯を食べている時も声がする。一人で報告書に眼を通している時も、こうしてデミさんと喋っている時だって、本当は頭の中にずっとずっと声が響き続けているんだ。
 ……たすけてくれるって。
 ……ひとごろし。
 ……じゃあ、やってみろ。
 そうだ。ぼくは「助ける」って言ったんだ。
ペルーサに「人殺し」って言ったんだ。
 父さんが「やってみろ」って言ってくれたんだ。
 だから、ぼくはやるしかない。立ち止まるわけにはいかないんだ。絶対、絶対に。
「わかりました、キリアス様」
 そこでデミさんは弱々しく微笑んだ。
「貴族の税率はどの程度が適当か、すべての貴族を対象にするべきか特に位の高い者に絞るべきか、いろいろな案を検討してみます」
 さすが父さんの補佐を長年やってきただけあって、デミさんはこういう仕事をやらせるとすごく早い。だからぼくは大まかな指示を下すだけで済む。
「それから、キリアス様」
「ん?」
「キリアス様は勘違いしています。私が心配しているのは、キリアス様の心のことです」
「心?」
「近頃のキリアス様は、とても思い詰めていて……心に余裕が全くない、そう見えてなりません。少しお休みになられたらどうですか」
「そんなに疲れてる? けっこう寝てるよ、ぼく」
「寝ている間も、心が少しも安まっていないのでしょう?」
「よくわかったね」
「エギナル様のおそばにおりましたから。あの方もキリアス様同様、思い詰める方だったんですよ。自分は本当にこれでいいのかって悩んでいたんですよ」
「そうかなあ……そうだよね」
 そうでなければ自殺なんかしないよね。
 父さんはすごく冷たい、あっさりいろいろなものを切り捨ててしまう人だ、そんな風に思っていたけど……そんな人だったわけないよね。
 デミさんの白い顔に、なんとも表現しようのない表情が浮かんでいることにぼくは気づいた。悲しみといえば、それは確かに悲しみの表情なんだけど……どこか怒りにも似ている。いや、これは怒りだ。心の隙間からのぞく怒りだ。ものすごく強い怒りを、それ以上の意志力で押さえつけて悲しみに変えている……そう見える。
 そうだ。ぼくは父さんを殺した。ああ、確かに殺したんだ。ぼくの父さんを、そしてデミさんのご主人様を。
 それをぼくは、一言だってあやまっちゃいなかった。
「……デミさん。父さんを死なせてしまったのはぼくのせいかも知れないんだ。父さんと一緒に長いこといたんなら、父さんのこと、すごく好きだったんだよね。友達っていうか、なんていうか、ご主人様って、ぼくには判らないけど……とにかく凄く……ごめんね、ごめんなさい、デミさん」
 デミさんは、ぼくが驚くような行動に出た。
 笑った。笑ったのだ。今までの微笑みとは全然違う。嬉しさの感情がそのままあふれ出したような笑顔だった。次の瞬間にも口を大きく開けて大笑いしかねない。
「くすっ、うふふふ」
「デミ……デミさん?」
「キリアス様……そんなことを気にしていたんですか? 安心してください。私は確かに、エギナル様に拾われて今の職につきました。エギナル様がいなければ、私は貴族のそばにお仕えすることはもちろん、満足に学問を習うこともできなかったでしょう」
「えっ、そうなの」
「ええ。私の生まれた星では、女が学問をやることなど、とんでもないことでしたから。でもエギナル様は私を見つけて、見所があるって、この星に連れてきてくださったんです。私はエギナル様の恩にむくいたくて……」
「ああ、それで勉強して、父さんの補佐をするようになったんだ」
「ええ。その事はとても感謝しています。どんなに感謝しても足りないくらい。だからエギナル様が亡くなったことはとても悲しいことです。でも……キリアス様がいる。エギナル様の果たせなかったことを果たそうとしている、キリアス様がいる」
 そこでデミさんは笑顔を無理矢理元の表情に戻した。目元がすこしだけ、まだ歪んでいる。
「だから……私は幸せです。だからいいんです、キリアス様は何も心配しなくて。どうか、ご自分の信じた道をまっすぐに進んでください」
「うん、ありがとう」
 ただ、その言葉しか出てこなかった。  

 二

 浮遊車が着陸した。
 ぼくは象牙色のコートを羽織って、一面雪がひろがっている庭に足を踏み出した。
 デミさんが後から続く。
「わざわざキリアス様のがわから出向くことはなかったのでは? こんな北の果てまで」
「違うよデミさん。ぼくはお願いする立場じゃないか。だから呼びつけるんじゃなくて、こっちからいかなきゃいけないんだよ」
「キリアス様は、まだ『お願い』をするつもりなのですね」
「うん、一応ね。それが難しいことはわかつているけど」
 ここは北大陸のほとんど最北端。どうしてこんなところにぼくはいるのかと言うと、ここにはウルゴス子爵という貴族の館があるから。ウルゴス子爵は大規模な企業グループを経営している。爵位のわりに強い力を持っているんだ。だからどうしても、この人とは話をつけておかなければいけない。
「向こうは、あんまりその気じゃないみたいだけね」
 ぼくはため息をついた。息はもちろん真っ白かった。顔が痛い。
 ぼくたちの目の前には、何十人もの男女が待ちかまえていたから。
 その戦闘にはウルゴス子爵が痩せた体をこわばらせて、ぼくたちを睨み付けていたから。光輝く個人用バリアで完全に寒気をシャットアウトし、そして顔面には、とても友好的とはいえない表情を張り付かせて。
「わが領地へようこそ、アルカゼル伯キリアス殿下」
「歓迎感謝する……と言いたいところなんだけど、歓迎って感じじゃないね」
「歓迎されると思っていたのですか?」
しわの多い顔には……嫌悪がにじみ出ていた。怒りとか、憎しみじゃない。きたないものに対する生理的な嫌悪感、そんな感じだ。
「私としては、今のキリアス殿下とは顔を合わせたくもない。病気が移ってしまいそうですからな。丁重にお帰り願いたいものです」
「待ってくれ。せめて館の中に入れてくれよ。コートを脱ぐヒマすらくれないのか?」
「ええ。そう思っているのは私だけでありませんよ」
 ウルゴス子爵は哀れむような笑みを浮かべた。
 そうだろうね。
 ぼくはウルゴス子爵の後ろにいる、何十人もの人々を眺めた。男がいる。女がいる。若者が、中年が、老人がいる。コートや毛皮、あるいは個人用バリアを身につけ、背筋をすっくと伸ばしている人たち。
 子爵クラス、この惑星の主だった貴族たちだね。あそこにいる顔色の悪い女の人はエルゼスト子爵、エルゼ財団の総帥だ。隣の太った人はクシャムドス子爵。第七惑星の執政官を代々務めている。そしてその隣は……
 中年の男だった。歳のわりに鍛えられた、ごつい体つき。貴族というより軍人を連想させる顔。コートもどっちかというと実用性重視のものだ。黒い髪。茶色い肌。その眼は猛々しい、けれど少しいたずらっぽい光をたたえて……
 エスペラン子爵。たった一代でエスペラン総合貿易を築き上げ、星系でも五本の指に入る富豪になりあがった、ペルーサのお父さんだ。
 エスペラン子爵は苦い表情を浮かべていた。他の人たちとは明らかに違う。ぼくの視線に気づくと、はっきり眼をあわせてきた。
 わかっていた。わかっていたよ。ペルーサの父さんも敵に回すって。わかっていたけど、やっぱりこうして睨まれてみると、つらいや。
 でもへこたれる訳にはいかないんだ。ぼくはエスペラン子爵の顔から眼をそらし、精一杯胸を張って、萎えてしまいそうな気力を奮い起こした。
「みんな。せめてぼくの……私の話をきいてくれないか」
「駄目ですな、キリアス様。われわれ貴族の財産を没収するなど、到底聞き入れられる話ではありません」
「すべてを没収するわけじゃない。ただ税をかけるだけだ。きいてくれ、平民たちが……」
 ぼくの言葉を、ウルゴス子爵は片手で遮った。
「結構、結構です。いえ、そんな顔をしないで下され。わたくしどもは実のところ、キリアス様のことを可哀想だと思っているのです。同情しているのです」
「なんだって……?」
「先代のアルカゼル伯爵、つまりキリアス様のお父上は立派な方でした。貴族の本分をよくご存じでした。その跡取りが、万民平等などという退廃思想にとりつかれるなど……あるはずのないことです。普通なら」
「何が言いたいんだ」
「ずばり病気ですな。キリアス様はご病気なのでしょう。父上を喪った悲しみのあまり、心を病んでしまわれた」
 おどけた調子で首を振った。
「ふざけないでくれ。ぼくを侮辱するのか」
「これは心外な。わたくしめは、キリアス様の名誉を救う唯一の方法を申し上げているのですよ」
「名誉?」
「ええ。病気であれば、すべては病気のうえのうわごとであれば、キリアス様の責任ではなくなりますからな。わたくしはキリアス様のためを思って」
 冗談だろうか。本気だろうか。
 どちらにしても、許せない。
「ウルゴス子爵。ぼくは本気だ」
「ここに集まっている面々をよくご覧下さい。それでもまだ、同じ事がいえますかな」
 ぼくは理解した。いや、たぶんこうなるだろうとは思っていたんだ。
 ここにいる子爵たちは、みんな大きな企業グループを動かしている。農業、工業、物流、情報通信、医学……
「おわかりのようですな。我々はこの星の産業を握っております。このジリオース星系を本当の意味で動かしているのは、キリアス様ではないのですよ。むろん平民どもでもありません。我々子爵クラスの貴族です。食料を生産しているのは? 宇宙船や浮遊車、地上車を造っているのは? 道路やビルを造っているのは? 他の惑星との貿易は誰がやっているのです? すべて企業です」
「そこまで言わなくてもいいよ。わかった。ぼくが考えを変えなければ、そういう活動をすべてやめるっていうんだろう。すべての会社を潰すっていうんだ。脅しだね」
 ウルゴス子爵はまだ笑っていた。
「最悪の場合、それもありえますな。無論キリアス様はそこまで愚かではないと信じておりますが」
 ぼくはコートの袖の中で、手をぎゅっと握りしめた。すぐ側のデミさんが、ぼくの耳元で何事か囁いた。
「……キリアス様」
 さすがに焦りを隠せない声だ。
 でも……大丈夫だよ。こう言われるかも知れないって予想はしてた。ここまであからさまだとは思わなかったけど。だから、どう対応するかも決めていたんだ。
「どうですか、キリアス様? わかっていただけましたか? いっそこのまま療養生活に入られて、統治の方は我々に……」
「駄目だ」
「……なんとおっしゃいました」
「駄目だっていったんだ。ぼくはもう決めたんだ。すでにぼくは教えたんだよ、平民たちに教えてしまったんだ。君たちは汚い路地裏で、半分腐ったものを食べたり医者にかかれなくて死んだり、そんなふうに苦しむ必要ないんだって。ぼくたち貴族とおんなじように、しあわせになっていいんだって。だからここでやめたら……ぼくはウソツキになる。ウソツキは嫌だ。それだけだよ」
 いつの間にか、口調が戻っていた。伯爵っぽい言い回しは消えていた。「私」も「ぼく」になっていた。
 でも、それでいいと思った。
「わ、私の話をきいていなかったのですか! 我々なしでどうやってこのジリオースを……」
「簡単じゃないか! 必要なのは企業だ、君たちじゃない!」
 ウルゴス子爵の眼が丸くなった。顎が落っこちそうになるほど開く。乱杭歯がのぞいた。
「き、き、キリアス様はまさか……」
「うん、そうだよ。やめてもらう。君たちは全員、会社を手放してもらう。一切、運営には口を出せないようにする。かわりに平民の代表に、君たちの代わりをやってもらう」
 子爵たちが凍り付いた。まさかぼくがここまで言うとは思っていなかったんだろう。
「キリアス様!」
 またデミさんの声。今度は、恐れと喜びが半々くらいの比率でまざった声だ。
 ほらね、デミさん。覚悟はできてるよ。
「キリアス様! あなたは正気ではない! こんな事は前代未聞だ!」
 もうウルゴス子爵は冷笑をうかべてはいなかった。つかみかかってきそうな表情だ。両手を振り回し、叫ぶ。
「こんな事が許されるとお思いか! 明らかに帝国の理念に反する! 我ら貴族は……」
「そうだ、キリアス様は本当におかしくなってしまったんだ!」
 ウルゴス子爵の隣にいた男がわめいた。怒りというより、彼の顔には恐怖があった。特権をとりあげられることへの恐怖? たぶん違う。帝国に真っ向から歯向かう人間が、目の前にあらわれたから。
 でもぼくはたじろがなかった。狂人扱いされるのがなんだっていうんだ。あんな眼で……本当に一点のくもりもない奇麗な眼で、こっちのことを信じてる眼……そんな眼で見られるくらいなら。そんな眼でぼくのことを見てくれる人を、また裏切ることになるくらいなら。
 あの砂の星にいたフェリサという女の子。他にもたくさんいた村人たち。ああいう人たちを増やすくらいなら。
「帝国には、必ず認めさせる!」
 ぼくは雪の上に一歩を踏み出した。
「実績を見せればいい! これまでは、政治とかそういう難しいことをできるのは地球人だけだって言われてた! 平民たちは劣った種族だから、できないんだって! 貴族たちの命令をこなすのがやっとで、人の上には立てないんだって、そう言われてた! だから、貴族が平民を支配することが認められていたんだ。誰も、それがおかしいって思わなかったんだ。だったら、見せればいい。そんな事ないって、どんな種族でもちゃんとできるんだって証明すればいい!」
「そんな事ができるものか!」
 ぼくはもう一歩踏み出した。
 もう、ぼくとウルゴス子爵はとっくみあいができるくらい近づいている。彼の真っ白い息が顔にかかる。
「できる。必ずやってみせる! やってみせれば、帝国だって考えをかえるさ。事実が目の前にあるんだもの!」
 言い切った。言い切ることができた。
 ここまで言うつもりは……実のところ、なかった。でも、すんなり出てきた。
 言葉を失っているウルゴス子爵達に、ぼくはさらに一言を投げつけた。
「この領地も取り上げるつもりだから、近いうちに出ていけるように荷物を整理しといて欲しいな」
真っ赤な顔で、空気を求める魚のように口を開閉させるウルゴス子爵。
「それじゃあ」
 それだけ言って立ち去ろうとした。
「待てよ」
 そんな声がかけられた。
 見ると、エスペラン子爵……ペルーサの父さんのものだった。彼だけは、怯えも怒りもしていない。少なくとも表面上は、そういう顔をしていない。ただ、苦虫をかみつぶしたような顔が一層ひどくなってはいる。
「……なにか。エスペラン子爵、あなたもやっぱり反対? そりゃあそうだよね。でも、例外はないよ」
「少し話がしたい。それだけだ」
 エスペラン子爵の声はぼくの声を遙かに圧倒した。声量そのものも大きいけど、その声には形のない力がこもっていたんだ。
 他の人たちとは全然違うごついブーツで雪をえぐりながら、ぼくに近寄ってきた。
「あんたは……」
 他の貴族たちがざわめいた。
 みんな、あれだけ「頭がおかしい」とか言っておきながら、敬語を崩しはしなかった。でもエスペラン子爵は平然と「あんた」と言ってみせた。
 ぼくも身構えた。他の人より数段激しい非難の言葉がやってくるに違いないと。
「あんたは、平民も貴族も、奴隷だって平等なんだと思っているそうだな。だとしたら子爵と伯爵も平等なはずだ。爵位もなにもない、こういう言葉で喋らせてもらう。駄目か」
「かまわないよ」
 こんなことを言われるとは思わなかった。
「あんたのことはペルーサからよく聞いていた。うちのガキの遊びによくつきあってくれたそうだな。俺からも礼を言いたい」
「……うん」
 あっけにとられて、ぼくはうなずいた。
 礼とかいってるけど、エスペラン子爵の顔は相変わらずの渋面だ。太い腕を組んで、彼は次の言葉を発した。
「で、ペルーサから聞いた話なんだけどよ……お前、よく人の言うことに影響されるそうじゃねえか。親父の言うがまま。口では嫌だっていっても、実際には家を飛び出すこともできない、表だって逆らうこともできない。言われた通り館に閉じこもって、言われた通りの勉強ばっかりやっていたそうだな。遊びに行くときもうちのガキに振り回されるままらしいな。どこに行きたいとも、行きたくないとも言わねえそうだな」
「……そういうこともあったのかもしれないけど、だから何? それがこの件と何の関係があるの?」
「わからねえか? 今度は誰に影響されたのか、誰の入れ知恵なのかってきいてるんだ」
 そういうことか。
 ぼくは両方の拳を固く握りしめた。
「……エスペラン子爵。ふざけないで欲しい。これはぼくの考えだ。ぼくが自分で考え、自分で出した答だ。確かに今までずっと、ぼくは父さんの言いなりだったかも知れない。逆らう勇気がなかったし、それ以外の道とか世界があるなんて想像もできなかったし。でも、今は違うんだ。ぼくは父さんに逆らった。だから父さんは死んでしまったけど、でも、ぼくはとにかく逆らったんだ。だから……これはぼくの意志だ」
 ごつい顎に生えている黒くて硬そうな髭を、エスペラン子爵はなでた。
「……そうかい。まあ、ペルーサの友達だからな、まあ信じてやるよ」
「……言いたいことはそれだけ?」
「俺はまあ、あんたみたいな名門貴族とは違うわけで」
 エスペラン子爵はまるで関係のない話をはじめた。でもその眼はこちらに向けられたままだ。表情も険しい。
「俺の親父は、貴族とは名ばかり、平民以下の貧乏人だった。だから俺が持っているあの会社は、俺が一人で作った。威張るつもりはないさ、いろいろと汚いこともやった。ああそうさ、そんな眼で見られて当然だ。だが俺は一つだけ自慢できることがある。俺は自分の意志で会社を作ったんだ。こんな生活は嫌だと思ったのは自分で、這い上がってやると思ったのも自分だ。そのためにはどうすればいいのか考えたのも自分で、実際にそれをやったのも自分だ。ペルーサにも、そんな風になれって教えた」
「それがあの結果だっていうのかい? ペルーサが何をやったか知っているか?」
「ああ。俺と同じことさ」
 子爵は初めて笑った。白い歯をむき出しにした笑い方。
 だが、とぼくは思った。
 こんなものは虚勢だ。はったりだ。もったいぶった言い方でぼくをこわがらせているだけで、結局この人は。
「……つまりあなたもペルーサ同様、苦しんでる人を助けなかったんだね。で、『それは仕方ないことだ』って言い訳したんだね」
「ご名答。まあ俺は一歩先に進んで、苦しんでる奴を生産したこともあるぜ。ほら、何しろ大きな会社になるといろいろな」
「消えてくれ」
 その言葉が自分の口から出てきたことに、ぼくは驚いた。だが出てしまった言葉は止まらない。
「ほう、ずいぶん攻撃的な言葉じゃないか、お前らしくもない」
「もう、ぼくは今までのぼくとは違うんだ。間違っていることには、はっきり間違っているって言える、そういう人間になったんだ。だから遠慮はしない。子爵、あなたは間違ってる。しかも……逃げてるんだ」
「そうだろうな」
 子爵は大げさにうなずいた。
「でもまあ、あんたは俺の話を聴いてないな。たぶん近いうちに後悔することになると思うぜ。それじゃあ」
 ぼくの返事も待たず、子爵は勢いよく舞われ右すると、貴族たちの群れに戻っていった。
 ほれみろ。やっぱり答えられないじゃないか。自分の間違いを本当は認めているじゃないか。エスペラン子爵、あなたもやっぱり他の貴族たちと同じだ。現実を変えることから逃げてるんだ。それだけだ。
 ぼくは精一杯胸を張った。
「……意見はこれだけ?」
 静まりかえる貴族達。目配せしあう。
「これだけか、と訊いているんだ」



 ぼくとデミさんは屋敷に戻ってきた。
 使用人たちがエントランスで勢揃いしていた。これでもずいぶん数を減らした。
「キリアス様、おかえりなさいませ」
 ぼくは特に返事をしなかった。それどころではなかったからだ。
 外套を脱いで執務室に急ぐ。
「キリアス様、そこまで急がなくとも」
「デミさん、まだわからないの。心配しないでいいって言ったじゃないか」
 廊下を足音が響く。
「正直言って生きた心地がしませんでした」
「ぼくが貴族達に啖呵きったから? でも、ぼくは結局ああいうしかなかったんだよ。何を言われたって、それでこっちの考えをひっこめるわけにはいかない。だって」
「だってこちらの考えは正しいんだから、そうですよね」
「うん」
やっぱりデミさんはわかってくれている。
 ぼくは執務室にまでたどりついた。そのままドアを勢いよくあけ、机にむかって勢いよく歩く。
「デミさん、さっき言ったファイル見せて」
 デミさんの方に顔もむけずにぼくは言う。
「教育訓練の成果に関するファイルですか」
「うん、そう。これからは忙しくなるよ。これまでは貴族がやってたことを全部平民に肩代わりさせなきゃいけない、向こうだっていろいろ妨害をかけてくると思う。だから高度な教育を受けた平民がいる。向こうの手を借りずに、立派にこの星を運営していけるような」
 椅子に浅く腰掛けて、受け取った黒いファイルを開く。
「う……」
 まだ教育プログラムははじまったばかり。だから当然といえば当然なんだけど、管理職が任せられるような人はまるで育っていなかった。
「これは……期待しない方がいいね。じゃあ、すでにいる社員のなかから筋のいい人を選んで抜擢するしかない。あ、そうだ、そのまえに人を呼んでくれ。教育プログラムを根本的に見直ししたい。ええと……」
 ぼくは震えていた。口からは次々に言葉が、指示がでてきたけれど、それは自信があるからじゃなかった。逆だった。怖くてしかたがないから、ぼくは馬鹿なことをしたんじゃないかって気がするから、それをごまかしたくて喋っているのだ。ひっきりなしに何か言っていれば、そういうことは忘れていられるから。
「キリアス様」
 デミさんの声に、ぼくは顔をあげた。
 これまでぼくは何度も何度も、デミさんの声をきいてきた。でもこれほど優しい響きをもった声は、いちども聞いたことがない。
 顔をあげると、目の前にデミさんがいた。体を曲げて、ぼくに目線をあわせてくれていたんだ。
 デミさんは外套を脱ぎ、上着をぬぎ、黒いズボンと真っ白いワイシャツ姿になっていた。飾り気のない服装だ。ほとんど男装といってもいいような格好。でも細いベルトで締め上げられた腰と、ワイシャツの胸もとを持ち上げているものをみれば、女性であることはすぐにわかる。
「どうしたのデミさん。ぼくはやらなきゃいけないことがたくさんあるんだよ。そうだ、これからは毎朝、専門家によるブリーフィングを受けよう。いや、デミさんが信用できないってわけじゃないんだ。でもほら、できるだけ生に近い情報の方がいいし、書類だけじゃ伝わらないモノもたくさんあると思うから。だからほら。それからええと」
「キリアス様」
 とても柔らかい声でデミさんはもう一度繰り返した。そして……
 机の上に身を乗り出して、ぼくを抱きしめた!
 匂い。この甘い匂いは何だろう。
 やわらかい。デミさんの体はこんなにやわらかい。
「なにをするの」
「本当はキリアス様、とても不安なんですね」
「それは……」
「ごまかしても駄目ですよ?」
「うん……不安ではあるよ。でも、そういうところを見せるわけにいかないから」
「私の前でも、ですか? 私はいままで半年間、ずっとキリアスさまの一番そばにいて、その仕事ぶりを見守ってきました。これからもずっとそのつもりです。仕事だけでなく、心の面でもキリアスさまのお役に立ちたいと思っています。そんな私の前でも、弱い部分は見せられませんか?」
「う……」
「キリアス様の選んだ道は正しいと思います。でもそれはとても辛い道、険しい道。疲れたり恐怖を感じるのはあたりまえです、それをなかったことにしようとしても駄目です。すぐに無理が来ます。疲れた時は疲れた、怖いときは怖い、それでいいじゃないですか」
 そういってデミさんは、ぼくの肩と背中に回された腕の力を強めた。
「そうなのかな?」
 難しいことを考えられなくなってきた。この柔らかさに溺れていたい。目の前は真っ白い。これはデミさんのシャツなのか。それともぼくの眼にはもう現実の世界が見えていないのか。それもわからない。
 ただやわらかい。ぼくは顔を下にずらした。服の向こうの感触がもっと柔らかさを増した。
「……さっきから胸ばかりですね。まだお母さんが恋しいんですか?」
「……そんなことないよ!」
「いいんですよ、今は、今だけは嘘をつかなくとも。弱くなる一瞬は誰にだって必要です」
「うん……」
 何故だろう、逆らうことができなかった。
 いや、どうしてさからわなきゃいけないんだ? こんなに……こんなに。やわらかくてきもちいいのに。
「いまはお休み下さい、キリアス様。これから辛い戦いが待っているのですから。思い切り甘えてください」

 次の章 前の章 楽園迷宮の入り口 王都に戻る