千数百年前から栄えた三島・富士山の
恵み日本一の湧水群柿田川


作者 栗田 昭平

西伊豆と中伊豆への玄関「三島」へは、東京駅から新幹線に乗ってちょうど
1時間で着きます。ホームに降り立つと、夏は富士山から吹き降ろす清涼な
風が心地よく、ほんとうに空気がおいしく感じ られます。富士山の恵みは、
市内随所にこんこんと涌き出る湧水に加えて、南西隣の清水町に日本有数
の柿田川湧水群を形成、とにかく冷たい水がおいしいところです。この水を
使って、おいしいうなぎがいたるところで食べられます。
三島といえば千数百年前から栄えた「三嶋大社」が有名です。頼朝が源氏
再興を祈願したのもここでした。奈良時代に聖武天皇の 命令で全国の国府
に建立された国分寺のひとつ、伊豆国分寺跡もあります。歴史的に由緒深
い遺跡がたくさんあります。
人口約11万人、人情厚い、しっとりとした街が旅人を包み込んでくれます。で
は、あなたを
ぶらり歴史の散策へご案内しましょう。

歴史と文教の街「三島市」

 三島市は、JR東海道線と新幹線の南側(東京から行った場合は名古屋方面へ向かって線路の左
側)が歴史色豊かな繁華街、北側が学校、官庁、住宅地区、田園というぐあいにハッキリわかれて
います。北側をもう少し詳しく述べれば、日本大学国際関係学部、同大付属三島高校、静岡県立の
北高と、三島市立北中、北小が約600メートルの樹齢数十年とみられる銀杏並木を挟む文教地区と、
その先が裾野市方面と箱根方面へ広がる住宅地区と田園地区になっています。駅前の沼津寄りには、
東レの工場が広大な土地を占め、ハローワーク、簡易家庭裁判所、三島区検察庁、労働基準監督署、
税務署といった官庁が並んでいます。住宅地区は、ゆるやかな丘の起伏が箱根方面へ向かって続い
ています。私のホームページでご紹介するぶらり歴史の旅は、全部南側ですが、北側にも竜澤寺、
歓喜禅寺のような禅寺があり、神社は八乙女神社という古い大きな格式高い神社があります。 銀杏
並木の左側には北高と北小がありますが、ここは敗戦まで旧陸軍の三島重砲兵連隊があったところで、
現在も北小の煉瓦づくりの正門は戦時中のものと同じで、傍らには銃を持って立っていた歩哨のコン
クリートづくりの屋根つき幌が残してあって、その由来を書いた背の低い石碑が建っています。銀杏
並木は600メートルも続くと、200〜300本はあるだろうと人は思うかも知れませんが、私が実際に数
えてみたところ、富士山へ向かって左側に70本、右側に53本ありました。夏は涼やかで爽やかな木陰
をつくってくれるので、人々はさもたくさん植わっていると感じるのでしょうが、大樹はそれだけ太
陽の光をさえぎってくれる面積が多いということです。左側の本数が多いのは、15本ぐらい若くて細
い銀杏の木がまざっているためです。銀杏は、オスの木とメスの木とがあり、その実である「ぎんな
ん」はメスの木になります。晩秋になると、この並木道は無数のぎんなんが落ち、早朝にそれを拾う
市民の姿が見られます。これも自然の恵みです。
 日大の国際関係学部(College of International Relations)には、国際関係学科 (Department
of International Relations)、国際文化学科(Department of Intercultural Relations)、
国際交流学科(Department of Global Exchange Studies)、国際ビジネス情報学科(Department
of International Business and Information)が設置され、ほかに大学院(国際関係研究科、
国際関係研究専攻)、短期大学部(商経学科、生活文化学科、食物栄養専攻)、短期大学部専攻科
(食物栄養専攻)が設置されています。 
 それから三島市の広報誌「みしま」によれば、三島市は2001年9月から「街中がせせらぎ事業」
をスタートさせ、「市民・企業・行政がそれぞれ主体的に協力し合い、地域の自然環境や歴史文化
資源を活かした回遊性のある三島らしい街並みと、それを楽しむ仕組みづくりを通して住んでいる
人・訪れた人が「素敵な」「ほっとできる」街をめざす」と宣言、この趣旨に沿って、「せせらぎ
と緑あふれる庭園のような街」づくりに取り組み始めました。2004年秋のいま、この計画も終わり
に近づきつつありますが、いままでは雑然と多数のバスが発着していたJR三島駅南口駅前広場が
湧水をイメージした水のモニュメントや小川のようなせせらぎを配置した広場にガラリと姿を変え
ました。つまり、小規模ながら湧水広場ができ、そこから数十メートルせせらぎが流れ、心地良い
水の音を聞かせてくれます。また、現代版の全国初の水琴窟ができたので、出水ボタンを手のひら
で押し耳を当てると、あの軽やかな妙なる音を聞くことができます。駅前に降り立った旅行者たち
は、「しっとりとした森と水の街三島にやってきたなあ」と感じることでしょう。これは嬉しいこ
とですね。白滝公園にも清らかな水が流れ、菰池公園の湧水が三嶋大社へと流れる桜川のほとりの
遊歩道のタイルも貼り替えられ、しだれ柳の並木とともに一段と雅やかさを感じさせる雰囲気にな
りました。
 人に優しい気配りで、もうひとつあげたいことは、三島市の交通信号です。ガス灯のような形を
した信号がとりつけられていて、上から下へだんだん短くなる10本の線を形成するランプがついて
いて、赤の信号になると一番上の長い線の赤から一番下の短い線の赤ランプまでが全部点灯し、時
間の経過に合わせて上から下へと赤ランプが一本ずつ消えていきます。一番下の短い線をなすラン
プが消えると同時に、10本の線をなす緑のランプがいっせいに点灯し、「ゴー」に変わります。信
号が長くてイライラすることがよくありますが、この信号の場合は、「ああ、あとどのくらいで
ゴーに変わるな」とわかるのです。しっとりとした、良い街に きたなと旅行者たちは感じるの
です。 
三嶋大社の前を広小路駅へと続く三島市のメインストリートと、それに直角に交わる大社への
旧参道も歴史の面影を残す垢抜けしたたたずまいへと、化粧直しをされました。
 では、富士山の恵み・千数百年前から栄えた三島のぶらり歴史の散策へご案内しましょう。


「宮さん宮さん、お馬の前にヒラヒラする

のは…」の小松宮の別荘だった「楽寿園」


 三島駅のすぐ前、徒歩で2分のところに、2万坪という広大な市民の憩いの森、湧水の都市公園「楽
寿園」があります。ここは薩長連合の官軍が倒幕の鳥羽伏見の戦いに勝利したとき、「宮さん宮さん、
お馬の前にヒラヒラするのは何じゃいな。トコトンヤレ、トンヤレな。あーれは幕府を討伐せよとの錦
の御旗じゃ、知らなーいか」と歌われた、官軍の総司令官小松宮彰仁(こまつのみや あきひと)親王
(上野公園に乗馬姿の銅像があります)が、明治天皇から明治維新時の功績をたたえて下賜された25万
円(いまの価値に換算すれば、数十億円すると思います)をもとに、明治23年(1890年)に建てられた
自然庭園一体型の別荘を、そのまま三島市が受け継いだ公園です。園内には120種以上の樹木が生い茂
り都市の只中で清涼の空気を放ち、多種類の小鳥が囀っています。耳を澄ますと、時にはキツツキ科の
最小種である雀の大きさのコゲラが「コツコツ」と木をつつく音が聞かれます。楽寿園の立て札には、
次ぎのようにその由来が説明してあります。断っておきますが、立て札は、ほとんどが縦書きです。こ
こではホームページの性格上、そのままの字句を横書きで掲載します。字は、立て札に書いてあるまま
です。例えば「三嶋大社」は、「三島大社」と書いてある立て札があります。
楽寿園 (国指定天然記念物・名勝)
 六万平方米に及ぶ楽寿園は、小浜池を中心とする富士山の基底溶岩流の末端にあるという
溶岩地底と、その溶岩中から数ヵ所にわたって地下水が湧出している現象が天然記念物とし
て指定されている。また、それとあわせて特殊な地形・地質に人工を加えて生み出された固
有の美観が、名勝として指定されている。
 しかし、昭和三〇年代から環境変化の激しい国土の中で湧水現象が変化しつつあり、現在
その方策を検討中である。
 明治二三年(一八九〇年)小松宮彰仁王別邸がここに築かれ、その後明治四四年李王垠殿
下の別邸、昭和に入って個人の所有となったが、昭和二七年(一九五二年)三島市立公園「楽
寿園」として市民に公開された。
                       平成九年十一月
                       三島市教育委員会



 明治36年に小松宮が亡くなったのち、楽寿園の中心「楽寿館」には、明治に朝鮮併合政策の人質として日本
に滞在し(10歳のときから)、長じて梨本宮方子(なしもとのみや まさこ)姫と結婚された李王朝26代目皇帝高
宗の皇太子李王垠(り おうぎん)殿下夫妻が、ここに移り住まわれ、第二次大戦後はアメリカの進駐軍がクラブ
に使っていたそうです。李王垠殿下は、世界旅行の費用を捻出するために、昭和2年に楽寿園を売りに出され、
資産家緒明圭造氏が庭園と建物をそっくり買い取り、原型のまま保存したのでした。さらに三島市は後日、ここ
を建物と庭園ごとそっくり引継ぎ、小動物園(小さいながら、キリン、レッサーパンダ、リス・ザルなど、珍しい動物
が愛嬌をふりまいています)、郷土資料館を造営し公開することにしました。楽寿館について、三島市教育委員
会は次ぎのように説明していま す。
楽寿園内楽寿館 (市指定建造物)
 この建物は明治二三年(一八九〇年)に小松宮彰仁親王の別邸として建てられたものであ
る。
 建築様式は全体的に京風の数奇屋造り(茶室風に造った建物)で、今では数少ない明治時
代中期の貴重な建造物である。建築用材も非常に吟味されており、現在では入手困難なもの
も少なくない。
 特筆すべきは、応接用の部屋であった「楽寿の間」の装飾絵画である。幕末から明治にか
けての一流の日本画家の傑作が一堂にあつめられており、県指定文化財となっている。
 三島市では、小松宮彰仁親王の別邸として使用された由緒と、国の名勝天然記念物に指定
されている園内の一部との照合を考慮し、この建造物を文化財として指定した。
                       平成八年十一月
                       三島市教育委員会


 入園料は大人300円、小人100円で、月曜日は休園日です。毎日午前10時半と午後1時半から30分間、女性
職員の説明のもとに楽寿館内を一巡することができます。邸内には、宮さまの邸ならではの日本建築の粋がい
たるところに凝らされ、木のふすまや唐紙の見事な絵画は、人間国宝あるいは日本画の巨匠の手になるものば
かりです。ぜひ観覧されることをおすすめします。
 子供遊園地の脇の広場は、毎年10月31日から11月30日まで行われる「菊まつり」の会場で、菊の季節には
目もまばゆい菊の楽園に変わります。昨年2001年には、金閣寺と五重塔を模した手作りの建物が建てられ、
その屋根と前庭一面が色とりどりの菊の花で覆われました。2002年は、世界遺産に指定された飛騨の白川
郷の合掌造りの家々の模型が建てられ、写真1のような夢の空間がつくられています。また、富士山と山々
を背景にした見事な幕舎(写真2)がつくられています。この素晴らしい景観を見て、入園者の市民や観光客
の人々はみんなしばし足を止めて感嘆し、記念撮影をしたりしていました。
 最近、楽寿園が違ってきたことは、看板やボードがすっかり書きかえられて説明文がハッキリ読み取れるよう
になったことです。白鳥や鴨のいる池のすぐ南側にある「万葉集の森」の歌を書いた木の看板も全部新しく書き
換えられ、各種の樹木とそれにちなんで歌われた万葉の歌が鑑賞できます。駅前の入り口は、タイルが敷かれ
見違えるようにシットリした感じになりました。

写真1
11月は例年「菊まつり」です。今年は飛騨の白川郷の模型に菊が満艦飾です。

写真2
富士山と山々の絵を背景にした幕舎の菊も
見ものです。





まず三島市のぶらり歴史散策のマップを掲載します。


 富士山が、1万4,000年前に爆発したとき、40キロのかなたからここまで溶岩が流れ着きました。つまり、三
島市の地盤は溶岩からなる人間の血管様のスポンジ状地層になり、その中にいくつもの空洞ができ、その
空洞の中へ富士山に降った雪の解けた水や雨水が流れ着き、100年間以上あるいは何十年間、あるいは
条件によっては何ヵ月間後に湧水となって噴き出しています。どれだけかかって噴き出してくるかは、その水
脈の周囲の条件によると考えられます。楽寿園内には楽寿館前の小浜池を始め、数ヵ所に湧水が見られま
す。ただ、残念なことは、上流地域の工業用水、生活用水汲み上げが原因で、かつては満々と湧水を湛えて
いた小浜池が最近は枯渇し、夏から秋にかけて運の良いときに底の方にわずかな湧水がみられるだけになっ
てしまったので、三島市では対策を検討しているところだそうです。

蛍飛び交い、さらさら流れる小川を再現し

た源兵衛川


 楽寿園の数ヵ所の湧水の一つを利用し、人工によってあの岡野貞一の唱歌の名曲、「春の小川はさらさら流
る。岸のすみれも蓮華の花も……」を歌いたくなるような源兵衛川が、楽寿園の小浜池を起点に流れています。
この源兵衛川は、有志会のボランテイア活動によって、自然が回復され、蛍の飼育にも成功し、6〜8月のシー
ズンには蛍の飛び交う素晴らしい環境を市街の只中に現出しています。夏には子供たちが、夢中で沢蟹を獲る
姿も見られます。私はほんとうに見ることができたのですが、運がよければ美しく愛らしいカワセミを見ることが
できます。この川の下流は温水池になっていて、そこから三島市南部の水田に水が引かれています。富士山の
雪解け水をいきなり引いたのでは冷たすぎるので、温水池で自然に温まった水を引いているわけです。源兵衛
川にはハヤ、ホトケドジョウ、メダカなどが見ら れます。この間のことですが、私たち夫婦は、川にはいってうなぎ
を 追いかけている子を見かけました。鳥類は、伊豆ではどこでも見られるコサギ、セキレイを始め、カワセミ(三島
のシンボルの小鳥です)、メジロ、ヒヨドリ、マガモ、尾長ガモ、アヒルなどが生息しているということです。
楽寿園の南側から始まる源兵衛川の始発点には、次ぎのような説明を書いたボードがあります。
      源兵衛川のホタル
昭和30年代までは、この辺りには多くのゲンジボタルの発生が見られました。しかし「楽
寿園」の湧水の減少と共に、1年の半分は水のない状態となり、ホタルは全滅してしまいま
した。
昭和60年から平成4年まで三島青年会議所は「よみがえれ清流」をスローガンに「楽寿園」
で蛍祭を開催いたしましたが、それをきっかけに平成3年には市民有志による三島ホタルの
会が発足し、現在蛍の幼虫の飼育に取り組んでおります。
三島市と県による源兵衛川の整備がほぼ完成した平成4年、市と東レ(株)とグラウンドワ
ーク三島実行委員会の三者が協議をして、湧水のない期間も環境水利として冷却水の供給を
受けられるようになりました。そのお陰で平成5年5月には放流した幼虫が羽化し、源兵衛
川流域に蛍が復活いたしました。
平成6年には全国的にも早い時期である4月29日に蛍の発生を確認し、以来5月の初旬に
は繁華街の中にゲンジボタルの舞が見られる珍しい川となりました。
三島では、他に花とホタルの里や泉町、沢地、竹倉、山田、押切等で蛍が見られます。

                                   

 また、源兵衛川にはミシマバイカモ(三島梅花藻)という世界で三島でしか見られない水中に咲く梅の花そっ
くりの藻が生殖しています。ホタルを説明したボードのすぐ横には、次のように書いた木のボードがとりつけて
あり、ミシマバイカモを次ぎのように説明しています。また、別に源兵衛川については、次ぎのようなボードが用
意されています。

  ミシマバイカモとは
キンポウゲ科。直径1cm弱の白梅に似た花をつけるので梅花藻。最初に三島市楽寿園で、
確認されたためミシマの名がついた。年中花をつけるが、春から夏にかけてが最盛期。水質
汚濁に弱く、水温15度前後の湧水の中でしか育たない。昭和30年代から湧水の減少と共
に、三島では絶滅してしまった。
現在、柿田川のみに自生しており、ここに移植した花は柿田川緑トラストのみなさんが育て
たものを、故郷三島にゆずってもらったものです。

源兵衛川(普通河川 延長1,500m 市管理)概要
 市立公園楽寿園小浜池を水源とする源兵衛川は、広小路町、緑町を南下し、温水池に注ぐ
灌漑用水で、古くから中郷地区の農業用水として利用されてきました。
 この河川は人工的なもので、もとは四の宮川(芝本町〜ヤオハン横〜魚春裏〜佐野美術館
前で御殿川に合流)が自然の流れであったようです。源兵衛川がいつ作られたか不明ですが、
律令時代に作られたものといわれています。
 「源平川」と書かれた史料もありますが、この水を水田用水に利用しようと計画した寺尾
源兵衛に由来するとされていますが、確たる史料はありません。
 現在、水辺の親水化が進められていますが、吉野水苑を公園として整備するなど、水をい
かしたまちづくりを進めています。
 三島ゆうすい会を始めとする市民の手で清掃活動を行なったり、市内では絶滅した「三島
梅花藻」を柿田川から移植したり、めだかを放流するなど、源兵衛川の自然を回復するため
の試みが盛んに行なわれています。


 
 駅前を南へ下る大通りを歩くと右側に楽寿園の正門があり、道路を挟んで反対側には、富士山からの湧水
が3ヵ所あります。「愛染の滝」、「白滝公園」、「菰池公園」がそれです。白滝公園の湧水は三嶋大社に向かっ
て桜川となって流れ、川のほとりは雅やかな雰囲気をかもし出す柳並木と、6人の作家や詩人、つまり若山牧
水、司馬遼太郎、高田空穂、太宰治、穂積忠、井上靖の三島にちなんだ自作の一節が書かれた文学碑が適
当な間隔を置いて立っています。なかでも私が好きなのは、穂積忠の歌集「叢(くさむら)」のなかの次ぎの一
句です。「町なかに富士の地下水湧きわきて 冬あたたかに こむる水靄」

日本と東洋の古美術を蔵する「佐野美術館」
と、回遊式庭園


 三島駅から2番目の駅「三島田町」で電車を降り、5分歩いたところにも富士山の湧水である「隆泉苑」があ
って、そこには見事な回遊式庭園があり,、散策を楽しむことができます。その庭園は、そこに隣接して建って
いる貴重な文化財を蔵する「佐野美術館」に付属しています。佐野美術館は、日本刀、青銅器、日本画を始
め、日本と東洋の古美術、工芸品を蔵しています。なかでも日本刀は名品が多く、天下の名工正宗が鍛えた
国宝の日本刀もあります。だいたい1ヵ月単位でテーマを設けて、見応えのある展示をしています。必見の価
値がある美術館だと思います。
 回遊式庭園の湧水池に臨んで、デラックスな雰囲気の和洋折衷のレストラン「松韻」と、小規模な会合に適し
た和式の催し会場「せせらぎ亭」があり、両方ともリーゾナブルな値段で食事を楽しむことができます。美術館も
レストランも、木曜日は定休日です。美術館の入館料は、成人700円、子供300円です。

どっしりした社殿、鎌倉八幡宮の原型「三嶋大社」
 三島といえば、旅行者がまず訪れたいのは三嶋大社でしょう。伊豆箱根鉄道の田京(たきょう)駅と大仁
(おおひと)駅の中間に広瀬神社という神社がありますが、ここの立て札には、「社伝によると、そもそも三島
(立て札の字のとおり)大社は下田にあったものが、のちに一時、広瀬神社に移され、さらに三島に移された」
と書いてあります。一方、三嶋大社 自身が、「三嶋大社はいつできたのですか?」という小学生からの一番
多い質問に答えたチ ラシによると、「できた時代はわかりません。古い神社の多くは、いつできたのかハッキ
リ しない場合が多いのです。三嶋大社は、奈良時代の記録にすでにその名が出てきます。実際 には、さらに
古い時代からあったと考えられています。日本の最も古い神社の一つといって よいでしょう」ということです。
 大社の境内に入ると、まず石橋を渡り、両側に池が配置され、さらに歩むと総門があって、 それをくぐると広
場になり、さらに神門を通り抜けると行く手に舞殿(ぶでん)があり、そ の奥に社殿があるのは、鎌倉の鶴岡
八幡宮と同じですが、三嶋大社の創設は千数百年の昔に さかのぼり、頼朝が旗挙げ前に百夜日参して源氏
再興を祈願したのですから、三嶋大社が鎌 倉八幡宮の原型であることは間違いありません。
 そもそも鎌倉八幡宮は、源頼義が奥州の戦乱前九年の役に出兵したとき、京都の石清水八 幡宮に参拝し
て戦勝を祈願し、勝利をおさめたのを記念し、鎌倉の鶴岡(現在の材木座のあ たり)に八幡宮を建立したの
が発祥です。時に康平6年(1063年)のことでした。その後 頼朝が天下人となり、鎌倉幕府を組織して日本
最初の武家による政府を創始したときの治承 4年(1180年)に現在の場所に移築したのですが、これが火
事で焼けてしまったため、頼 朝は改めて建久2年(1191年)に源氏守護神として豪壮な鶴岡八幡宮を建立し
たのでした。 ですから、境内と建物の配置は、三嶋大社と鎌倉八幡宮は全く同じです。いまの本殿は、明 治
に再建された総欅造りのドッシリした建物(写真3)で、全国屈指の威容を誇っていま す。このホームページ
に掲載する写真はトップページの蓮の花とばらの花の写真を除いて、すべて私自身が撮影したものです。 頼
朝は三嶋大社を痛く尊崇し、旗挙げ前には源氏再興を祈願するため百夜にわたり日参をしたのは前述のとお
りですが、その帰路参道沿いの小さな祠のかたわらの松の大樹の下で仮眠をとったといわれています。この
祠は、いまは頼朝の故事をとり、「間眠神社」(まどろみじんじゃ)という名前の神社になっています。頼朝は天
下を取って、征夷大将軍に任じられてから鎌倉にあの豪壮な鶴岡八幡宮を建てましたが、三嶋大社への尊崇
の念は消えることなく、毎年、「頼朝」の名をつけることを許した里人に自分に代わって参拝をさせたという史実
が残っています。

写真3 
三嶋大社本殿。戦乱や震災による焼失を重ね、明治
に再建された総欅(けやき)権現造りの全国屈指の社
殿です。
写真4
2002年8月夏季大祭の舞殿前での「旗挙げ式」。頼朝に扮しているのは、NHKの大河ドラマ「利家とまつ」で利家の側近村井を演じている
的場浩司さん。鎧かぶとの人々は、地元の有志と高校生、中学生です
写真5
的場浩司さんが扮する源頼朝(向かって神主さんの左側)最後列左側の向かって右から2番目の女性は、一般から
応募した人が扮する北条政子です。

いまも遠方まで芳香を放つ樹齢1,200年余の
金木犀

 三嶋大社の境内には、いまも鬱蒼とした大樹が幾本となく聳え立ち、市民はもちろん、全 国から参拝に、観
光に訪れる人々がひきもきりません。石造りの大鳥居を入ると、右側に頼 朝の従者安達藤九郎盛長が警護の
ために控えていたという相生の松があり、総門、神門を経 て見えてくる舞殿の前には頼朝と政子が座ったと
伝えられる「腰掛けの石」などがあります。 前述のように頼朝は、治承4年(1180年)に百夜の間、配流の地、
蛭が小島から三嶋大社 に日参し、源氏再興を祈願したと伝えられます。総門を通りぬけた右手には宝物館が
あり、 そのさらに奥には鹿を数十頭飼う鹿舎があります。
 神門をくぐると、舞殿の手前に樹齢実に1,200年余と伝えられる日本一の金木犀(きんも くせい)の大樹が、
開花期には芳香を放っています。その芳香は、次ぎの立て札に書かれて いるように、風向きによっては遠く
10キロのかなたにとどくといわれています。1,200年 余といえば、桓武天皇によって京都に平城京が開かれて
から約390年続いた平安時代、頼 朝が鎌倉幕府を創設してから約150年続いた鎌倉時代、足利尊氏が征夷
大将軍に任じられ てから約160年続いた室町時代、日本全国が内乱状況に陥り、天下を取ろうと武田信玄、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が覇を競った戦国時代(約100年間)、家康が天下を平定し 江戸幕府を創
始してから約300年続いた江戸時代、そして明治維新に始まる明治、大正、 昭和、平成時代の130年間の激
動の歴史を、この神木はズッと見つづけてきたことになります。


天然記念物 三嶋大社の金木犀
                  樹高 約十五米 目通り周囲 約四米
                  枝條 約二百五十平方米
昭和九年五月一日 文部省告示第一八一号により 文部大臣から国の天然記念
物の指定を受けた。
学名は 薄黄木犀という。
九月上旬より 中旬にかけ 黄金色の花を 全枝につけ 再び九月下旬より十月上旬にか
けて満開となる珍しい老木で 樹齢凡そ壱千弐百年。幾百星霜旱魃
や霖雨に耐え 又は風雪に犯されるも 樹勢 尚旺盛にして 葉の光沢も美しく新緑に輝
き 誠に神々しい御神木で 日本一のキンモクセイである。
開花時には馥郁たる芳香を放ち 風向きによっては 一〇粁に及ぶという。
      注 意
一、 柵内に立ち入らないこと
一、 枝に触れないこと
一、 其の他 モクセイを傷つけないこと




 三島市教育委員会がこの金木犀について立てた立て札には、次ぎのように書いてあります。

 

 三嶋大社のキンモクセイ
                     (国指定天然記念物)
 この樹木はウスギモクセイの植木として、日本有数のもので、大社の神木として大切に保
存されている。樹齢は一二〇〇年を数えると伝えられ、訪れる参詣者の目を引いている。
 根廻り約三m、高さ地上約一mのところで二大枝幹に分かれている。枝の展開は円形で  
あり、その先は地面に届くほど垂れている。
 九月上旬から中旬にかけて一度開花し、九月下旬から十月にかけて再び開花 
する。
 淡黄色で可憐な花をつけ、甘い芳香を発するが、その香は神社付近はもちろん、遠方まで
及び、ときには二里(八km)先まで届いたと伝えられている。
      平成九年十一月
                          三島市教育委員会
 


古式豊かな大祭に53万の人出
 三島大社の大祭は、8月15日から17日までの3日間です。私は、パート1「源氏再興・
北条一族の遺跡の宝庫−韮山から長岡まで」のなかで、頼朝が決起したのは、伊豆地方の目
代(代官)平兼隆の山木の館が三嶋大社の祭で手薄になっている8月17日だったと書きました
が、大社の祭は800年前から変わらず連綿として続いているのです。この三日間は、市を挙げ
ての行事が多くの観光客を引きつけます。古式に従っての有名なタレントを呼んでの頼朝の
旗挙げ式(2002年は、写真4、5のように、NHKの大河ドラマ「利家とまつ」で、利家の側近村井
役を演じている新進気鋭の俳優的場浩司さんでした)、10人前後の達人が見せてくれる勇ま
しくも優美な流鏑馬、「富士の白雪やノーエ」の農兵節踊りの行列(写真8と9)、三島サンバ踊り
の行列、体にふりかかる火花をものともしない手筒花火(境内で行なわれる)、奉納弓道大会、
山車シャギリ大会、合気道奉納演武、献茶式と一般人への呈茶などなど、盛たくさんの行事が
行なわれます。三島市役所に尋ねたところ、2002年には2001年を3万人上回る53万人が訪れ
たということです。
 なかでも圧巻は、最終日の17日に行われる鎌倉の鶴岡八幡宮と同様の古式豊かな流鏑馬
(やぶさめ)でしょう(写真6と7)。流鏑馬は、馬を疾駆させながら矢を3回つがえて、ヒョウと的を
射る競技で、馬術と弓道の両方を上達しなくてはならない大変難しい武術です。2002年の大祭
には、地場の10人の人々が出場し、ときどき的を見事に射て見物客のワァーッという歓声を浴び
ましたが、とくに3回目の陶器でできた的に矢が当たってそれがこなごなに飛び散る様子は、文
句なしに拍手喝采を誘います。流鏑馬は、日本が誇るべき日本文化の粋のひとつです。優美な
コスチュームと動物のなかで最も美しく、利口な馬に跨る勇姿。荒々しい癖のある馬を乗りこなし、
約250メートルのコースを全力疾駆しながら3回も矢をつがえて的を射る技術はすばらいいとしか
言いようがありません。外国のひとびとも、あまりの見事さに「オー!ワンダフル」を連発します。


写真6
日本文化の粋、流鏑馬の競技へ勢ぞろいし、スター
ト点へ向かう競技者たち。
写真7
勇ましい流鏑馬(やぶさめ)。疾駆する馬上から的を
めがけて、ヒョウと矢を放ちます。夢中で写真を撮る
人が私のカメラの前へとびだし、危うくレンズをふさがれるところでした。
写真8
富士の白雪やノーエ 富士の白雪やノーエ 富士ノサイサイ 白雪や朝日でとける」の農兵節のパレード。
三島s文化芸術協会の人びとです。
写真9
しゃみせんを引きながら、農兵節踊りのパレードをする三島南高校の生徒たち。
写真10
三島駅前のシャギリ台の横に現れた恵比寿さま。
写真11
三嶋大社近くの大宮町一丁目のシャギリ台の上から景気のいい金属製の皿の形をした鐘をたたく「カン、カン、カン!」の音と太鼓の音が鳴り響きます。子供たちも三日間頑張るのです。
写真12
三嶋大社の鳥居の前に繰り出す何十台もの山車。各
町の山車シャギリ大会が始まろうとしています。


 大社の前を参道(旧下田街道)と直角に走る道路は三島の銀座通りで、伊豆箱根鉄道の「三
島広小路」駅の前に出ます。大社構内の参道はもちろん、広小路駅前の時の鐘から大社まで
の沿道は露店で埋まり、この三島銀座通りをパレードが行進します。毎年、近隣市町村はも
ちろん、全国津々浦々からの観光客が三島市の人口(11万人)の数倍に達する日本屈指の
大祭のひとつです。
 2001年は、徳川家康が天下分け目の関が原の戦いに勝利を占めた直後に、東海道五
十三次ぎの宿場制度を創設してから400周年に当たるというので、「東海道創始400年祭」
が年間を通じて催されています。去る5月にはこの三島銀座通りに五十三次の市町が参加し
た祭があり、50万人の人出で賑わいました。

写真13
「茶っきり節」を踊る静岡市代表の踊り子た
ち。
写真14
笛、太鼓に合わせ三島銀座通りを、ところ狭しと「伊東田楽」
が踊りまくりました。伊東市から友情参加してくれた舞踊団
の人たち。こちらまでが踊りたくなりました。
                                   


  


 写真13、14は静岡市から参加した踊り子たちの「茶っきり節」と、伊東市から友情参加
した保存会の人々の「伊東田楽」の踊りの場面ですが、とくに伊東の人々の踊りと笛、太鼓
は、中国雑技団の「孫悟空」を思わせる雰囲気があり、躍動的で、すばらしいものでした。野
村万作氏のふりつけと聞きましたが、踊りを踊る人と笛、太鼓、観客が我を忘れて一体となる、
まさに芸術でした。



宝物館には、国宝北条政子の梅蒔絵手箱も
 宝物館(入場料一般500円、大学生、高校生400円、小中校生300円)には、数々の逸
品が陳列されていますが、その内容のすごさに驚かされます。大社は、主な宝蔵品として次
ぎのものをあげています。
@ 北条政子が奉納したと伝えられる国宝「梅蒔絵手箱」、A明治天皇奉納の重文(旧国宝) 
太刀 銘宗忠(めいむねただ)(鎌倉時代初期の備前福岡一文字の名工の鍛えた太刀で、
現存するものはきわめて少ない)、B重文(旧国宝)脇差 銘相模国住秋義、C徳川家光
奉納の太刀 二振、D源頼家筆 重文 般若心経(建仁3年8月10日 三島社奉納奥書
一巻)、E重文 三島大社矢田部家文書592点、F源頼朝文書、G北畠顕家文書、H宗瑞
(そうずい)文書、I重要美術品 三嶋本 日本書紀、J三十六歌仙縫取絵額、K大高
源吾の詫状文。
北条政子は、鎌倉の鶴岡八幡宮にも愛用していたと伝えられる手箱(いまでいえば化粧箱で、
国宝に指定されています)を残しています。鎌倉の手箱は、実際に彼女が使っていたもので
化粧道具一式のなかに鋏みが含まれています。、三嶋大社の手箱は奉納品ですから、彼女
が使ったものではありませんが、箱は甲盛り、胴張りがあり、口縁(くちべり)に錫置口(すず
おきくち)を回した合口づくりのたいへん優美なもので、蒔絵工芸品として比類のないもので
す。もちろん、中には化粧道具一式が入っています。宝物殿の陳列品は複製品ですが、充分
に本物を想像することができます。この10月には、特別展として本物を公開していました。
 Dの源頼家の自筆の写経は、彼が病を得たのち治愈を祈願して書いたもので、現存する頼
家の唯一の筆とされています。
 Eに矢田部家とありますが、これは代々三嶋大社の神主を務める家柄です。この矢田部家
が保存する古文書592点はものすごいものです。源頼朝、北條時政・泰時・時房・義時
基時、北條公文所、足利尊氏・直義(ただよし)、義詮(よしあきら)・基氏・義満、高師直、
北條氏綱・氏康、豊臣秀吉、徳川家康といった日本人なら誰でも知っている歴史上の人物が
キラ星のように並んでいるのですから。 
 なかでも私が魅せられるのは、足利尊氏の古文書です。宝物館には、源頼朝、足利尊氏、
豊臣秀吉の古文書が陳列してありますが、尊氏が書いた字のおおらかさ、優美さ、達筆は群
を抜いていると思います。戦中派の私などは、小中学生時代に「足利尊氏は後醍醐天皇に背
いた国賊だ」「平清盛は、後白河上皇を幽閉した不忠者だ」と歴史で叩き込まれたものです
が、戦争に負けて歴史を勉強しなおすと、とんでもない、尊氏は文武両道に長けた教養人で、
心が広く、敵をも許すことのできる知恵者であり、そのうえ死をも恐れぬ豪の心をもった武
将でしたし、清盛は神戸港を築き、これをそれまで貴族と支配層が独占していた貿易を民間
にも開放する卓見の武将でした。「字は人を表す」と言いますが、足利尊氏の書には彼の人柄
がよく表れていて、私はいつまでも見入っていってしまいました。尊氏の書を説明したボードにも
こう書いてあります。


足利尊氏  嘉元3年(1305年)〜延文3年(1358年)南北朝時代の武将
 初名高氏(たかうじ)。初代室町幕府将軍。元弘3年(1333年)4月、挙兵した後醍醐天
皇に応じて六波羅探題を攻略し、鎌倉幕府を倒すに、功績第一とされました。この時、後醍
醐天皇の諱(いみな)、尊治(たかはる)の一字を与えられ尊氏と改めました。建武2年(1335
年)秋、建武政権から離れ、翌年には室町幕府を開きます。その後、後醍醐天皇が吉野に逃
れ、南北朝の内乱となりますが、晩年にはおおよその体制固めを成し遂げます。生涯、三嶋
大社に篤い崇敬を寄せました。
 禅僧夢窓疎石(むそうそせき)は、尊氏は、一、死を恐れず、二、慈悲深く、あり、多く
の敵を許し、三、心が広く物惜しみしない人物と評しました。多くの武将を引きつけた理由
が、その人物評に表れています。

頼朝が百夜日参時に仮眠した間眠神社と、

納経した法華寺


 三嶋大社の旧参道(旧下田街道)を南へ下ると、ほどなく道の右側に「間眠神社」と書い
た標識に出あいますが、この細い道を入ると、行く手に石造りの鳥居が見え、その奥に太い
しめ縄をしたこじんまりした社が見えます。この神社はすでに書きましたように、頼朝が源
氏再興を祈願し百夜三嶋大社に日参したとき、参拝を終えた帰り道に、ここにあった松の大
樹の下で毎晩仮眠をとったところから、間眠(まどろみ)神社(写真10)と名づけられた
ということです。
 間眠神社の標識があるズッと手前の四つ角を左へ入ったところには、静かなたたずまいの
曹洞宗法華寺(写真11)があります。ここには、頼朝が法華経を写経して埋めたといわれ
る塚があり、その上には地蔵尊が安置されています。

写真10
頼朝が源氏再興を祈念し、大社に百夜日参した帰路、ここの松の木の下で仮眠をとったと伝えられます。そこで間眠(まどろみ)神社と
いう名前になりました。
写真11
「曹洞宗 法華寺」には、頼朝が法華経を写経して埋めたという塚があり、その上に地蔵尊が安置されています。


 大社の旧参道を南へ下る左側には、日蓮宗本妙寺、松井山祐泉寺、浄土真宗長谷山成徳寺、
日蓮宗妙行寺、分尼寺跡、官幣大社三島神社元末日隅神社(樹齢500年余のケヤキの大木
があります)があり、大社を見たあとに散策するのも一興かと思います。おもしろいことに、
これらの寺院はみんな大社を向いて建っており、一方、日隅神社も、宝鏡院への路面にある
守綱神社も、大社に背を向けて建っています。これは昔から神社仏閣は、大社を中心に分布
していたためでしょう。このなかの祐泉寺は昔、大興寺が建っていたところで、大興寺は白
鳳時代に三嶋大社に関係の深かった丈部富賀満の私寺でした。いまの祐泉寺の庭には、白鳳
時代には当時の塔の中心部に据えられた巨大な礎石が発掘調査の発見物として置かれてお
ります。この寺は大規模なもので、三嶋大社前の国道1号線にまでいたる薬師寺式伽藍配置
になっていたことが、調査の結果確認されています。


頼朝が命じて真言宗に改宗、いまは臨済宗

妙心寺派になった心経寺


 桜川のほとりを大社へ向かって少し行くと、左側の向こう岸は直接家々になっているので
橋がたくさんありますが、白滝公園から八番目の橋を渡って続いている道を歩くと、行く手
の左に格式高く思われる「心経寺」が建っています。入口をくぐったところに立っている立
て札には、この寺由来をこう書いてあります。


東海八十八ケ所観音霊場七十三番
 臨済宗妙心寺派 大慈山 心経寺
当山の由来縁起
往古は法相宗にして、中古、源頼朝の命により真言宗となる。神鏡と号し、三島明神の別当
たり。或る日、三島神社の神前において般若心経を読誦し国家の安寧を祈るに、忽ち不思議
の祥瑞を感じ般若心経空中より降り来たる。依って心経寺と改むと謂う。其の後応永二十二
年(今より約五百五十年前)檀越伝徳居士真言宗を改め禅宗となし、京都大本山妙心寺第四
世日峰大和尚を請じ来て開山第一祖となす。兵火に罹ること二度類焼する。再度安政元年大
震災にて堂守潰倒、明治三十年三島神社煙火の為全焼す。史実によれば武田信玄心経に陣す。
心経の住僧戸倉(清水町徳倉)城を開城せり。頼朝徳倉八幡社を此の地に摂し全国第一社と
なし、二の宮八幡と称し此の辺を二の宮町と云えり。法相時代の旧記は度重なる兵火等の為、
散逸して不詳なるも金光明経の写経等現存せる末寺として水上に大通院、沢地に竜澤寺(宝
歴九年分離す)其の他ありたりという。従前除地七反六畝二十歩余。本尊、聖観世音菩薩を
安置す。
  法系十七世歴代二十三代現住に至る 
    



 心経寺は、関心をもって気をつけて通らなければ見過ごしてしまう引っ込んだ位置に建っ
ているので、観光で訪れる人の姿はほとんど見られませんが、写真12のように堂々たる構
えの格式と風格を感じさせる寺です。立て札に書いてある竜澤寺は、JR新幹線の北側、日
大か国際関係学部のある文京区から右に遠く歩いた田んぼの小高い鬱蒼とした山地に位置
する苔むした格式を感じさせる禅寺です

写真12
頼朝が改宗を命じ、武田信玄が陣を張った般若心経の[心経寺」。


 武田信玄がこの寺に陣を張ったと立て札にありますが、これは信玄の勢力がいかに広い地
域に及んでいたかを物語っています。周知のように信玄は天下人たらんとして、大軍を率い
て上洛する途中でいまでいう肺結核のため死に、それを隠して粛然と撤退しましたが、一度
も負けたことのない信玄がもし長生きしていたならば、歴史は変わっていたと思います。


将軍義詮が建立、義詮と七代将軍義政の弟

政知の墓がある足利氏ゆかりの寺「宝鏡院」


 三嶋大社前の三島銀座通りを広小路とは反対の箱根の方角へ歩き、大場川を渡ると、すぐ
右側のちょっと引っ込んだところに足利尊氏の三男で、二代目将軍を努めた義詮(よしあき
ら)が建てた「宝鏡院」(写真13)があります。そこへ入る大通りの入口の左右には腰か
けられるほどの大きさの石がありますが、三島教育委員会による立て札は、「鞍掛けの石  
ここ川原ケ谷宝鏡院への入口の左右に一対ある。昔は馬乗り石といい、北にある川原ヶ谷神
社に参詣する人がここで馬に乗ったと伝えられる」と説明しています。
 宝鏡院の参門の入口には、次ぎのような立て札が立っています。


臨済宗建長寺派 宝鏡院
史跡
清和源氏足利尊氏の三男足利二代征夷大将軍義詮(幼名千寿丸)宝鏡院を建立す。建長元年
巳酉歳建長寺開山勅詔大覚禅師 法の弟子建長寺第四世勅詔普覚禅師宝鏡開祖となる。
当時参門は建長寺裏門を移した名工甚五郎の作と言い伝へらる。
足利義詮貞治六年十二月七日三十八歳にて没す。法名宝鏡院殿從一位左大臣道権瑞山大居
士。
足利尊氏公第七代の武将義政公の弟政知は田方郡北條館にて茶々丸に殺さる。延徳三年四月
三日五十七歳にて没す。法名勝憧殿從三位左武衛九山大居士、宝鏡院墓地に埋葬す。
本尊薬師如来 仏工師 運慶の作と言ふ。
此の地三島神霊来る。
一、 鞍掛けの石
東海道参道入口両側にあり、将軍が参拝の折りに下馬し、鞍を置いたる
石と言ふ。
一、 笠置きの石 三島七つ石
源頼朝公参拝の折り笠を置いたる石と言ふ。
昭和五十二丁巳年晩秋

宝鏡院第二十四世昌山代  檀徒鈴木条吉書

写真13
足利2代目将軍義詮(よしあきら)が建立した「宝鏡
院」。
写真14
足利2代目将軍義詮の墓。7代目将軍義政の弟政知の墓もあります。


 栃木県足利市は、足利家発祥の地ですが、日本最古の大学といわれる足利学校があり、足
利十三代の全将軍の木像を蔵する鑁阿寺(ばんなじ)は、国宝に指定されている建物があり、
本殿は屋根の稜線の緩やかで雅やかな明るい設計で人々をひきつけます。鑁阿寺も足利学校
も四囲に堀をめぐらせ、見事な鯉がたくさん泳いでいます。寺という名がついていますが、
明るく雅やかな京の都の空気が漂っています。ここ宝鏡院にも、気のせいか陰気なじめじめ
した雰囲気は感じられません。将軍義詮の墓(写真12)も、明るい感じがします。
 それから、パート1「韮山から長岡まで」のなかで書いたことですが、韮山の「堀越御所」
の由来を書いた立て札には、将軍義政の弟政知は単に「病没す」と書いてありますが、宝鏡
院の立て札には「政知は田方郡北條館にて茶々丸に殺さる」とあり、食い違っています。政
知の墓がここにあること、叙述が「北條館にて殺さる」と明瞭に述べていることから、私は、
宝鏡院の叙述が真相を物語っていると思います。

七重の塔跡が残っている伊豆国分寺
 約1,200年まえに、聖武天皇は、全国の要所である国府に、奈良東大寺にならった壮麗な
国分寺を建てるよう詔を発しましたが(実際には東大寺が建立されたのは、いくつかの国分寺
建てられたあとです。恐らく東大寺の構想が先にあったのでしょう)が、その街に地方統治の
国司が派遣されたのは周知のとおりです。記録に残っている国分寺の数は69ヵ所もありますが、
現在、その国分寺跡が確認されているのは37ヵ所です。静岡県には遠江、駿河、伊豆の3ヵ所
に国分寺が建てられました。それが広小路駅の線路を越えて少し行ったところにある「伊豆国
分寺」(写真15)です。いまは七重の塔の礎石の一部が残っているだけですが(写真16)、いま
の伊豆国分寺の外側の壁には、当時の国分寺の広大さを想像できる絵が描かれています。1,000
年以上も前にこんな壮麗な建物を建てた権力と宮大工たちの技術の高さを思うと感無量ですが、こ
こを訪れる観光客はほとんどなく、寺はひっそりと建っています。
写真15
聖武天皇の命で全国の国府に建てられた国分寺のひとつ「伊豆国分寺」の今のコンクリート造りの本殿。この後方には往昔の七重の塔の跡があります。
写真16
堂々たる威容を誇っていた伊豆国分寺構内の七重の塔の跡に残された礎石。

伊豆国分寺塔跡(国指定史跡)
 国分寺は奈良時代に聖武天皇(在位七二四〜七四九)の命により、国ごとに建てられた国
立寺院である。僧寺と尼寺の二寺制をとっており、天平十三年(七四一)ごろから徐々につ
くられたといわれている。
 伊豆の国分寺は、泉町、広小路北方の一帯に建てられていたと推定されるが、現在国分寺
の本堂裏にある塔跡だけが残っており、国史跡として指定されている。
 塔跡は高さ約六〇cmの土壇の上にあるが、すでに南半分は失われている。現在八個の礎
石が二列に置かれているが、西側の二個は移動したものである。残された礎石から、塔は七
重の塔で、高さは約六〇mにも及ぶものであったことが推定される。
 昭和三一年の日本大学教授軽部博士の調査で寺域は東西八〇間、南北一〇〇間の長方形
で、建物配置も東大寺式伽藍配置であったことがわかっている。
                      平成八年二月
                      三島市教育委員会

無慈悲なバカ殿様の手打ちに会った幼

女小菊を祭った「言成地蔵尊」


 大社の旧参道(旧下田街道)を南へ下り、しばらく行くと、左側の路傍に赤い帽子をかぶ
った小さなお地蔵さんが三体立っていて、奥には当時6歳だった幼女「小菊」を祭った木造
の堂が建っています。これが「言成(いいなり)地蔵尊」です。ここに立っている立て札の
説明のあらましを述べますと、次のようです。
 それは貞享4年のことでした。播州明石の城主松平直明は、参勤交代のため江戸へ向かっ
ていましたが、その行列が三島の宿の大社近くの道にさしかかったとき、尾張屋源内の娘小
菊が、たまたまそのとき道の向こう側にいた母親のもとへ行こうと思って行列のまえを横切
ってしまったのです。先導の侍は、「何か、犬が横切ったのだ」とごまかしてしまおうとし
たのですが、小菊は捕らえられてしまいました。驚いた里人たちは、妙法華寺の著名な高僧
日迅上人に命乞いをするよう頼んだので、日迅上人は急いで駆けつけ殿様を説得これ務めた
のですが、この無慈悲でまだ若かったバカ殿様は、聞き入れませんでした。小菊は、なんで
も言うことを聞きます、「お殿様の言い成りになりますから、命を助けてください」と何度
も泣いて頼むのでしたが、やっぱりダメでした。とうとう小菊は、手打ちになってしまいま
した。里人たちは、小菊を憐れんで「言成地蔵」として祭ることにしました。このお地蔵さ
んにお願いすると何でもかなうというので、多くの人々がいまでも訪れるといいます。
 かわいい娘の命を奪われた父親の源内は、仇をとろうと、ある時にっくき松平直明の行列
を待ち伏せて鉄砲で狙い撃ちしたのですが、直明は篭に乗っておらず失敗に終わったという
のが大筋です。
 この地蔵尊堂は無人で、街のボランテイアが手入れをしたり、掃除をしたりしていますが、
よく観光客が訪れるそうです。10月に私たち夫婦が訪れたときは、「日本人は、こういう話
が好きですからね。講談になっていて、つい最近の「門前町下田街道祭り」のときには女性
の神田すみれさんがきて、「言成地蔵小菊物語」を一席、この地蔵尊のまえで語ったところ
ですよ」と、掃除をしていたボランテイアのおじいさんが教えてくれました。


江戸時代に鎌倉から移され、家康の側室

「お万の方」が伽藍を完成させた「妙法華寺」


 ここに掲げた地図に出ていない有名な寺に「日蓮宗 妙法華寺」があります。 
三島二日町駅で下車し、徒歩で約5キロのところに妙法華寺はあります。三島市街には温泉
が見当たりませんが、始発駅から三つ目の二日町駅から約3キロ歩くと街外れに出て、突然
ひなびた竹倉温泉が現れます。錦昌館、伯日荘、みなくち荘といった温泉宿が三、四軒ありま
すが、私たち夫婦はよく宣伝をしている錦昌館へよくきて温泉に入ります。お湯は40数度の含
鉄泉ですから鉄色で、肌はすべすべ、よくあたたまる温泉です。温泉浴だけも(500円)OKです。
 竹倉温泉の1キロほど手前には左上がりの道路があり、日本のバイオ研究の総本山といわ
れる国立遺伝学研究所があります。ここは、300種以上の桜が植わっていて、春には一般公
開の桜の名所になります。
 さて竹倉温泉を過ぎると、川に沿ったまったくの山道ですが、道は舗装されているので楽
に歩けます。妙法華寺にいたる途中はまったく人家のないところも通り、爽やかな気分に浸
ることができます。三島駅の南口発玉沢行きのバスに乗り、終点の玉沢で降りればすぐ前が
妙法華寺です(写真17,18,19)
 妙法華寺は、日蓮上人の高弟日昭上人が鎌倉に開山した寺で、その後鎌倉の戦乱を避け、
新潟村田、伊豆賀殿を経て、江戸時代にここに移されたということです。次いで徳川二代目将軍
秀忠が約50万坪という広大な寺城を朱印地として寄進した由緒ある寺です。ここの七堂伽藍は、
徳川家康の側室で、紀州大納言頼宣、水戸中納言頼房の生母であり、テレビ・ドラマで有名な
あの水戸黄門(光圀)の祖母である「お万の方」が完成させたといわれます。そのほか英勝院お勝
の方、大田道灌家5代目道顕たちが今日の伽藍、道場の完成に与って力があったということです。
写真19に写っているドーム状の宝物殿には数々の重要文化財が宝蔵されていますが、なかで
も道場で講義をしているところを描いた「絹本着色日蓮上人像」、「絹本着色十界勧請大曼荼羅
図」、行間に日蓮自身が注を加えた「法華経」、日蓮直筆の「撰時抄」(五巻)はきわめて貴重な
文化財です。「撰時抄」は、蒙古来襲時の不安な世情を選んで書いた本で、日蓮はいまこそ法華
経を広める好機であると主張しているというこですが、筆跡には日蓮の激しい気性がにじみ出て
いると思います(私が現物を見たわけではなく、立て札の写真をみただけで十分にそのはげしさ
がわかります)。
 構内には「お万の方お手植えの桜」と「松」(道場の前にあります)を始め、数百年の樹齢を物
語る各種の名木が、実によく手入れされた状態で植わっており、春は桜、秋は紅葉の名所にも
なります。四季を問わず、よく写真愛好家が入念に撮影している姿が見受けられます。また、墓
地にはお万の方の墓があります。妙法華寺の正門前には、次のような由来を書いた立て札が
立っています。

  当山由来沿革と宝物
当寺は経王山妙法華寺と称し弘安七年(1284)十二月宗祖日蓮上人の嫡弟(六老僧第一)
弁阿閣梨日昭上人が鎌倉の海浜玉澤の地に創立された。その後鎌倉の戦乱を避け、新潟
村田、伊豆賀殿を経て慶長九年(1601)より日産、日達、日亮三師代にこの大木澤に移転大
成され、創立地の由緒ある地名を取って玉澤と改めた。
寛永二年九月徳川二代将軍秀忠公より約五十万坪の寺域を御朱印地として寄進され、家康
公の側室にして紀州大納言頼宣、水戸中納言頼房両公の生母、光圀公の祖母、養珠院お萬
の方並びに英勝院お勝の方及び太田道灌家五代道顕公等の絶大な資援に依り大伽藍玉澤
道場が竣工したのである。その後不幸にも寛政三年(1791)十一月二十四日参篭者の失火に
て焼失したが、四十一世桓師の尽力にて復興されて現在に至る。玉澤道路は五十七世貞師の
代に建設され、当山開発の基となった。
今日多数の重宝の伝持,清雅環境の保存はひとえに開山日昭上人の遺風を継いだ歴代先師
護法丹誠の賜である。
徳川時代は往復大名の宿舎となり、戦時は日蓮宗の練成道場となりて多数人材を養成した。六
十一世官師代新宝蔵が竣工、旧末寺五十七ヶ寺が古来六門家の筆頭として弘く尊崇さえれた
霊場である。



写真17
訪問者を受け付ける庫裏。
写真18
この寺には、有名な百間塀があります。2、3年前の台風で壊れていましたが、最近、見事に修復され、白と紅葉と緑が鮮やかな対照をかもし出しています。
写真19
右手前の桜は、お萬の方のお手植えの桜です。樹齢数百年の名木が多く静寂の空間をつくっています。左側のドームの建物は宝物殿です。


妙法華寺境内に第二次大戦で轟沈した軍艦「朝
霜」、「愛宕」と運命を共にした英霊を悼む慰霊碑

 ここで見逃してはならないのは、第二次世界大戦中に轟沈した駆逐艦「朝霜」、重巡洋艦「愛
宕」と運命を共にして戦没した英霊の冥福を祈念した石碑が、百間塀の外側の道路に近い大樹
の林の手前に立っていることです。そのさらに手前の道路ぎわには、木造で朱塗りの「忠霊殿」
があります。慰霊碑建立の経緯を書いた立て札はあとでご紹介しますが、手短かに述べればこ
ういうことです。
 「大戦も末期に近い昭和19年10月23日、重巡洋艦愛宕は、フィリピンのパラワン島沖の米海
軍との海戦で轟沈したが、乗組員1197名のうち713名は近くにいた駆逐艦朝霜と岸波の目覚し
い救助活動によって救助され、484名が戦死という悲惨な運命に会った。ところが、戦争末期の
昭和20年4月7日、今度は朝霜が九州南部の沖合いで、米空軍機30余機の攻撃を受け轟沈の
憂き目にあった。朝霜に搭乗していた駆逐艦隊司令の小滝久雄大佐と艦長杉原与四郎中佐以
下327名の将兵は全員、艦と運命を共にした。
 戦後、朝霜とともに五男道夫さんを失った三島市で綿店を営む高橋晋吾さんは、全国の朝霜戦
没者の遺族を行脚して募金、あわせて私財を投じ、妙法華寺境内に慰霊碑を12年後に遂に建
立することができた。これを知った愛宕の生存者と戦没者の遺族は、高橋さんの行為に感激し、
朝霜戦没者の慰霊碑と並べて愛宕戦没者の慰霊碑を建立した。こうして英霊の冥福を祈念する
輪は、愛宕、朝霜以外の戦没者の遺族や一般の篤志家の間にも広がった。毎年、朝霜の轟沈し
た4月7日には三島、田方、駿東に住む海軍会会員、その他の人々が碑前で慰霊祭を行ってい
る」
 慰霊祭のときには、碑前の樹齢150年以上のヤマザクラの大樹を始め、境内の多くの桜の木々
が、見事な花を咲かしているでしょう。いまや敗戦後56年の歳月が流れました。海軍会の人々も
いまや70歳代から80歳代。あの大戦の悲惨さ、10歳代の後半で志願し少年兵となり、20歳代の
若さで召集され、あるいは学徒動員され、国のためと信じて桜花のように散っていった人々の心
情を知り、伝える人々も一人欠け、二人欠けていく現在です。戦中派の私ども夫婦は、妙法華寺
に歩いて訪れるたびに必ず慰霊碑の前に立ち、私は昔式のやり方で「英霊の冥福を祈って、頭
(かしら)なかーッ」といいながら敬礼してしまいます。2001年の暮れにNHKは、スペッシャル番
組として、「そのとき歴史は動いた」を組み、3000人余の人々が乗り組んでいた「不沈戦艦大和」
の轟沈がなぜ起こったかを流していました。しかし、沈んだのは何も大和だけではありません。戦
艦大和の戦没者を悼むことはもちろんですが、他のいくたの軍艦や輸送船のほか、ある日突然、
赤紙一枚で軍隊に召集され、戦争がなければ平和な家庭生活を営んだであろう多くの人々の
悲壮な犠牲があったことを忘れてはならないと思います。NHKが戦艦大和を放送したときに、そ
ういう言葉が欲しかったと思うのは、私だけでしょうか。妙法華寺の慰霊碑は、こうした貴重な昭
和史を永久に物語るものです。

 

  慰霊碑建立の経緯
軍艦「愛宕」は重巡洋艦(壱万屯)で戦時中は第四戦隊の旗艦として活躍し昭和十九年十月
二十三日、比島パラワン沖海戦で不運にも轟沈せり。乗組員(司令部付きを含む)1197名の
うち戦死者484名、その折救援の駆逐艦「朝霜」が492名、同じく「岸波」が221名救助せり(戦
闘詳報より)。駆逐艦朝霜は昭和二十年四月七日沖縄特攻部隊として出撃中敵戦闘機三十
余機と交戦、武運つたなく第二十一駆逐司令小滝久雄大佐、艦長杉原与四郎中佐以下327
名の将兵は九州南部沖に護国の鬼と化し、悲惨、艦と共に轟沈、全員戦死せり。駆逐艦朝霜
戦没者慰霊碑の建立は三島市中央町高橋実衛氏(綿店)の父晋吾氏が五男道夫氏も朝霜で
戦死したので子を想う親として同憂の全国の朝霜戦没者遺族に呼びかけ先達となり全国を行
脚し、尚私財を投じ戦没者の冥福を供養する為に玉沢の聖地に昭和三十二年建立したもので
ある。

毎年命日には遺族会長小滝国雄氏(小滝司令息子)のもと全国より遺族が碑前で慰霊祭を行
っており、時候的に玉沢は桜花咲き乱れ好時期であり、桜花の如く散りし戦没者を想い同じ海
軍にあって運よく達者である事を感謝しつつ、戦没者の御冥福をを祈念し祭事に奉仕しておる
三島地方の出身者海軍会であります。この事を軍艦愛宕元乗組員が知り愛宕沈没の祈り、身
を挺し救助に活躍した駆逐艦朝霜の英霊の碑前で先年軍艦愛宕戦没者三十三回忌法要を愛
宕生存者と遺族の有志により海軍会員多数列席仏式により厳粛に施行し併せて朝霜の英霊に
往事に謝しつつ御冥福を祈念した。その折愛宕戦没者慰霊碑建立の議を決し、妙法華寺の御
理解を得て、駆逐艦朝霜の並びに建立することが決り愛宕関係者や海軍出身者その他各界の
協賛を得て昭和五十五年十月二十三日建立されました。

敵味方入り乱れての激戦の最中沈没寸前に救助された生存者の感激が朝霜の英霊に応える
如く愛宕戦没者の慰霊碑がが建立された事は戦後三十余年を迎えおくればせながら両艦の遺
勲をたたえると共に慰霊に御供養になることと信ずるものであります。
願わくは慰霊碑建立によって永久に平和を願い戦争の悲劇を再び繰り返されないよう楯となって
いただき祖国日本をお守りくださることを念願してやまない次第です。
このようにして由緒深い玉沢の妙法華時境内に大東亜戦の生んだ海軍の遺跡が生現した次第
であります。
    昭和五十五年十月二十三日
                               三島 田方 駿東 海軍会
 

日本有数の「柿田川湧水群」
 三嶋大社の参道を南へ約1,600メートル下ると、国道1号線が直角に交わっており、ここ
を右へ沼津方面へ1,800メートル歩いたところの左側に「柿田川湧水公園」の原生林と湧水
群が広がっています。ここは、三島市南東部に当たる清水町に入ります。道路の反対側は、
つい数年前までは田んぼだったそうですが、いまは「サントムーン」という名の大規模小売
サイトです。サン(太陽)とムーン(月)を「と」をカタカナ化して両者をくっつけ、「サ
ントムーン」と名づけたということですが、日本人ならではの変な英語の造語にはあきれま
す。
 柿田湧水群は、日本の自然百選、名水百選に選ばれた名水ですが、近頃、近辺の工業用水
や生活用水の汲み取りのため一日百万トンといわれる湧水量が半分に減っていると伝えら
れることは、残念なことです。ここの自然を懸命に保存しようと努力しておられる人々には、
頭が下がります。柿田川には、財団法人「柿田川みどりのトラスト」による次ぎの二つの立
て札が立っています。
 

柿田川湧水群
源は約40km北方の富士山に降った雨や雪である。これらが三島溶岩流の間を通り長い年
月(数ヵ月〜数十年)を経て、ミネラルを適度に含み、日本有数の
すばらしい地下水となり、ここに湧水している。
全長約1200m、狩野川と合流し、駿河湾に注ぐ。
水質PH7.2 色度0 濁度0 溶存酸素9.5前後
  電気伝導率14〜16m m/s 水温年間15度C前後
特徴
1. 全川すべて湧水。湧水量100万トン/日
湧水口は数十ヶ所、主として上中流に集中。
2. 陸上−水辺−水中に至る連続した植物相が見られる。
3. 都会のオアシス
流域はケヤキ、エノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、シイ等温帯性樹林に囲まれ、
ホタル、トンボ、チョウ、アブラハヤ、アユ、セリ、トウカイタンポポなど田園地
帯から消えつつある動植物が多数見られる。
 4.貴重な動植物  ミシマバイカモ、ツリフネソウ、ミクリ、ヤマセミ、
   カワセミ、ゲンジボタル、アオハダトンボ、ダビドサナエ、ミドリシジ
   ミ、ミズイロオナガシジミ、アユカケ、アマゴ。
5.静岡県東部(沼津市、三島市、熱海市、函南町、清水町)約35万人の飲
  料水。
柿田川は世界に誇る貴重な湧水川です。水を汚さず、動植物を痛めないよう気をつけましょ
う。
             (財)柿田川みどりのトラスト
柿田川中流部の案内
 この付近は、柿田川でもっとも川幅が広い。
湿地各所に大小数十ケ所の湧水口がある。そこからの湧水が、幾筋もの清冽な小川を形成し、
本流に合流している。流域では、四季折々、都市近郊で消滅した、ゲンジボタル、タマムシ、
カブトムシ、アオハダトンボ、ヒガシカワトンボ、ダビドサナエ、ミドリシジミ、ミズイロ
オナガシジミ、ヤマセミ、カワセミ、アユカケ、アマゴ、アブラハヤ、ホトケドジョウ、サ
ワガニ、モズクガニ、ヌカエビ、ミクリ、ミシマバイカモ、ツリフネソウ等貴重な動植物が
見られる。
冬季 周囲が冬枯れの中、流域は、クレソン、セリ、オオバタネツケバナ等が、 
   青々と繁茂し、清澄な流れには、アブラハヤ、ウグイが遊泳し、まさに
   早春そのものである。柿田川でもっともすばらしい季節ともいえる。
春季 トウカイタンポポ、タチツボスミレが可憐な花を咲かせ、モンシロチョ
   ウが乱舞し、サナエトンボ類、カワトンボ類、トビゲラ、カゲロウの仲
   間が一斉に羽化する。
夏季 岸辺では、ゲンジボタルの乱舞、水中ではミシマバイカモの水中花の見
   事な絨毯が見られる。
秋季 湿地では、ツリフネソウ、ミゾソバが一斉に咲き出し、浅瀬では、晩秋、
   産卵アユの大群が、押寄せる。アユを追うヤマセミのダイビングが見事
   である。
 柿田川は世界に誇る湧水河川です。自然を大切にしましょう。特に湿地帯に
 無断で入り、動植物を採捕しないよう、お願いします。
               (財)柿田川みどりのトラスト



三島でも、竹倉と三島ビューテイ・タウンで温泉浴
ができます



 さて、三島で温泉に入るには、これまでは三島駅前から東海バスの玉沢行に乗り、竹倉で下車す
るか、伊豆箱根鉄道の電車に乗り、三島二日町で下車し、竹倉まで約25分〜30分の道のりを歩い
て、錦昌館、伯日荘、みなくち荘の鉄分の多い温泉にひなびた雰囲気を味わいながら入るしかなか
ったのでしたが、2001年12月にはJR新幹線の北側地区の芙蓉台の奥地の新開地「三島ビューテ
イ・タウン」にある「三島スプリングス・カントリー倶楽部」が温泉を掘り当て、別館で温泉をオープンし
ました。その後同倶楽部は、経営主体が変わり、100%天然温泉の「三島温泉会館」と名前を変えました。
西側は雄大な富士山を真正面に見仰ぎ、三島市と沼津市、駿河湾、伊豆半島と海を一望のもとに見下ろす
パノラマを満喫しながら温泉浴ができるので、週ごとに男湯と女湯が東西の場所を交代します。入浴料は
成人平日1日800円、子供400円、平日夜間18時以後成人600円、子供300円、土・日・祝日3時間成人800
円、子供400円です。1時間1,050円で温泉浴ができる家族風呂もあります。近くまでは駅前から「三島ビ
ューテイ・タウン行」が出ていますから、終点から少し歩けば行けます。温泉は、透き通ったアルカリ性
単純温泉で、よく温まります。
 竹倉温泉の温泉浴だけの料金は500円です(子供は不明)で、温泉の色は鉄色です。温度は竹倉
の方が熱いと思います。竹倉は遠くから泊り込みで湯治に訪れる人も多いという気がします。竹倉は
ロッカーはなく、脱衣場は籠があるだけです。最近竹倉の手前の錦が丘に住宅街ができ、広い道路
が整備されたので、都会的雰囲気になりつつありますが、ひなびた良さを味わうなら竹倉といったと
ころでしょうか。

グルメ探訪

 ところで、私のグルメ探訪は次のとおりです。
 まず、三島で言われることは、うなぎのおいしいことです。富士山から長い間かけて湧出するおいしい
水で泥を吐かせ、炭火で秘伝のタレをつけて焼くところが多いからでしょう。どこで食べてもおいしいと思
いますが、有名なのは広小路駅からすぐのメイン・ストリートに面した「桜家」(ちょっと値段が高め)で、
いつもお客でいっぱいです。大衆的でいつも込んでいるのは、「うなよし」(緑町)で、値段も手ごろと
いえましょう。本町にも同じ名前の「うなよし」がありますが、ここもおいしいと思います。
 楽寿園の前の通りの反対側で、白滝公園の前に当たるところには、「水泉園」「味覚」があります。三
島駅から楽寿園へ向かって歩いてすぐの右側(楽寿園側)には「不二美」があります。私はよく不二美へ
行きますが、値段も安いし美味だし、そして人が割合に少なく落ち着いて食べられます。三島のうなぎの
値段は丼もので1,300〜1,500円前後、うな重で1,300〜3,500円前後ではないかと思います。中には、ぬ
かから上げたばかりの新鮮な白菜、人参、大根の漬物を器いっぱいに添えてくれて、おいしいというとお
代わりを出してくれ、その上そんなに「おいしいなら持っていってください」とおみやげにしてくれるところも
あります。「三島は、なんと人情厚いところだろう」と、私は家内と顔を見合わせたものです。それからその
店へ食べに行くと、いつもそうしてくれるのです。
 広小路駅を降りて、踏み切りを渡らないで、そのまま修善寺方向へ向かって線路沿いの広小路駅南通り
(向かって最初の通り)を歩くと、約40軒の商店、レストランがあります。ここの商店会では、「ロードギャラ
リー」を最近始め、道路沿いに絵画、写真、書道、詩、俳句、川柳、小学生のなぞなぞ、などを展示し
ていて、なかなか愉快でユーモアに富んだものがあります。誰でも出品物を応募できます。この通りの奥
の右側の角にあるこじんまりとしたフランス料理レストラン「ラディッシュ」に私たち夫婦はよく足を運ぶの
ですが、ここのフランス料理は値段も手ごろで、味は絶品です。ここのマスターは絵画をたしなみ、店には
彼の作品が二、三枚かかっています。出品希望者は、マスター小野さんにお話をされるとよいと思います。
 この通りをもう少し歩くと、関病院本部があり、その先に瀟洒な建物のフランス料理レストラン「アンフル
ール」
があります。ここは一見格式が高く入りにくいように見えるかもしれませんが、値段は手ごろで、これ
また味は絶品です。年に1、2回は、有名なシャンソン歌手を招いてライブのイベントを催します。また、2002
年にはイタリア館を増設、オープンし、こじんまりした規模ながら古代ローマ貴族の庭園つきの別荘の雰囲気
でランチ・タイムには1200円、1800円、2500円でデザートつきの最高級イタリア料理を味わうことができます。
これまた絶品です。
 もうひとつつけ加えたいのは、メイン・ストリートの本町にある「プラーザ・ホテル」のレストランです。ここの
手軽なランチ・コースは、デラックスな雰囲気のなかで、2,000円(+消費税)で大変美味なスープ、メインディ
ッシュ、デザート、コーヒーとか紅茶を味わうことができます。グルメ党もきっと満足されると思います。
 このメイン・ストリートを広小路とは逆方向に行ったところが三嶋大社ですが、大社の手前の四つ角手前の
左側には、最近開店した「丸平」という「おにぎり喫茶」があります。ここのは江戸時代末期のお蔵を店の
うしろの庭に控え、明治、大正、昭和初期のレトロな雰囲気を味わいながら、美味で懐かしい「おにぎりラン
チ」を食べられるので、観光客を始め街の人びとで繁盛しています。おにぎりランチは、セット料金で580円
で、7、8種類のおにぎりの中から二つを選び、味噌汁、ちょっとした漬物つきで食べられます。コーヒー、紅
茶などの飲み物は200円と割安です。大社に参拝したあとなどに風情を楽しむのもよいでしょう。
 白滝公園から大社へ流れる桜川の向こう岸のほとりには、黄色で瀟洒なイタリアン・パスタのレストラン
「伊豆西洋軒」があります。ここはかわいらしい雰囲気のバイキング形式のレストランで、パスタを1200円
(消費税込み)で提供しています。オードブル、ドリンク、サラダ、デザート、コーヒー、紅茶を自由に選ぶこ
とができ、ゆったりした環境のなかでくつろぐことができるので、お昼のグループ利用の光景がよく見られ
ます。パスタも工夫を凝らし美味です。

パート-1: 韮山から長岡まで

パート-3: 伊豆最古の温泉郷修善寺
感想をお願いします。
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2004年9月17日更新