源氏再興・北条一族の遺跡の宝庫
   −韮山から長岡まで−





                            作者      栗田 昭平 

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」。いまでこそ伊豆は、首都東京の庭先の観光地として有名で、全国から四季を問わず大勢の観光客が訪れますが、奈良時代、平安時代、鎌倉時代には京の都から遠く離れた疎遠な地として負け戦の武将の妻子が、罪人の孤島への島流しと同様に配流される草深く淋しい土地でした。平家物語の冒頭に出てくるこの有名な文句がピッタリ当てはまる源平盛衰と北条氏の政権簒奪を物語る歴史の土地、江戸時代に入っては大御所徳川家康の居所・駿府城下町として栄華を極めた駿府(現在の静岡市)の狩場となって、そこここに家康の足跡をとどめ、幕末には江川太郎左衛門が大砲の製造、砲術の教練、パンの製造、農兵の組織を幕府に建言して、列強に並ぶ近代化の基礎をつくり、最南端の下田はアメリカのペリー提督が艦隊を碇泊させて開国・修交を迫り、「蒸気船、たった四はいで、夜も寝られず」と日本がひっくり返るような騒ぎになった歴史の土地、そして西部海岸一帯からは秀麗の富士山が箱庭のようにすぐ前に眺められる(写真1)、それが伊豆なのです。

 なかでも伊豆箱根鉄道沿線は、頼朝による源氏再興の決起の地「韮山」を懐に抱き、その子頼家二代目将軍が非業の死を遂げた修善寺を最終駅とする、源氏戦勝の喜びと悲劇が入り混じる歴史に彩られる土地であると同時に、短かかった征夷大将軍源氏三代の御家人のなかの得宗家
(北条家嫡流)として源氏の血統が途絶えたのちも京都から親王を将軍に迎え、自分は執権職の形を守りながら、その実天下の実権を掌握し、鎌倉時代の文化を築いた北条一族の発祥の地であり拠点となった土地です。

写真1
三島市のとある丘の住宅地からの富士山の眺望です。
                                                                                                                                                                                                                                                

                                          

さて日本の道路を走るマイ・カーを観察すると、100台のうち90台前後までが、ドライバー1人か、助手席の人を入れて2人が乗っているだけです。独立家屋の庭先に2台車を入れている家はザラです。ちょっとした雑用にも車を駆って行くのがあたりまえの世の中なのです。名所、古跡めぐりにも車で神社仏閣などの駐車場に車をのりつけます。旅行会社のアレンジするパッケージ旅行は、観光バスを使うのが常識。その上格安を売り物にしますから、歴史探訪といってもごみごみした要所要所しか回らず、ゆっくり名所の由来や景勝地の美を堪能する時間はありません。なんにでもすぐ車を使うし、バス旅行は車内で飲み食いします。旅館や食事処では飽食しますし、あまり歩きませんね。こうした日常を送れば運動不足に陥り太るのはあたりまえです。その結果、ついこの間のことですが、糖尿病にかかっている人びとはいまや690万人、自分がかかっていることを知らずに、病院に行かない潜在的罹病者を入れると実に1,370万人、日本国民の11.4%が糖尿病にかかっているとテレビが放映していました。これではせっかく旅に出ても、ほんとうの歴史探訪や神社仏閣めぐりはできません。

 ですから、この探訪記は時間を気にせず、のんびりと歩いて旅と歴史探訪を楽しむことを好む人々に読んでいただくことを念頭に書いています。

伊豆は全体が温泉郷

 日本は2,500以上もの温泉を全国津々浦々にもつ世界有数の温泉国ですが、静岡県は鹿児島県、大分県に次ぐ全国第3位の温泉県です。しかし、静岡県の温泉の実に90%までが伊豆に分布していることは、ほとんど知られていません。温泉には単純温泉、塩化物泉(ナトリウム‐塩素イオン、カルシウム‐塩素イオン、マグネシウム‐塩素イオン)、炭酸水素塩泉(ナトリウム‐炭酸水素イオン、カルシウム‐炭酸水素イオン、マグネシウム‐炭酸水素イオン)、硫酸塩泉(ナトリウム‐硫酸イオン、カルシウム‐硫酸イオン、マグネシウム‐硫酸イオン)、含アルミニウム泉(アルミニウム‐硫酸イオン)、二酸化炭素泉(遊離二酸化炭素)、含鉄泉(含銅‐鉄泉)(鉄(II)‐炭酸水素イオン、鉄(II)‐(銅)‐硫酸イオン)、硫黄泉(水硫イオン、チオ硫酸イオン)、酸性泉(水素イオン)、放射能泉(ラドン(ラジウム塩))があります。

 伊豆箱根鉄道沿線には、三島市の竹倉温泉(含鉄泉)、函南町の畑毛温泉(単純温泉)、韮山町の奈古谷温泉(単純温泉)と、韮山温泉(単純温泉)、長岡町の古奈温泉と長岡温泉(単純温泉)、大仁町の大仁温泉(単純温泉)、修善寺町の修善寺温泉(単純温泉、塩化物泉)があります。温泉浴の共通の効能としては、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、打ち身、くじき、慢性消化器病、痔症、冷え性、病後回復期、疲労回復、健康増進があげられると、静岡県生活科学検査センターは同所パンフレットに述べています。

狩野川のほとりに源頼朝、北条氏ゆかりの寺が並立 

 ターミナル駅三島」から終着駅「修善寺」までは12駅あり、時間は約30分かかります。三島から修善寺までの乗車運賃は500円です。7番目の駅「韮山」までは約20分かかり、運賃は270円です。韮山のプラットフォームに滑り込む直前の線路の左側には韮山小学校があり、そこの塀に小学生が大きく描いた明るい色彩のさまざまな頼朝の絵がわれわれを楽しませてくれます。駅に着いたプラットフォームの左側には、日本様式を採り入れたモダーンな時代劇場および韮山町図書館の建物が、人々の目を引きます。ここでは1997年に町の人々自身が演じるオペラ「頼朝」が大成功のうちに上演されました。

 韮山で下車して右側の改札を出て、少し戻り左折して歩くうちに右側に曹洞宗隣光院があります。このへん一帯は、韮山町四日町といいますが、バス停に「北条」と書いてあるように、昔「北条村」と呼ばれていたところです。国道136号線と交叉する角地には八坂神社があります。国道を横切り、少し歩くと国道と平行に走っている細い裏道がありますが、これは昔の下田街道です。旧下田街道を修善寺方向へ歩くと、長岡にかけて、成福寺(じょうふくじ)、願成就院(がんじょうじゅいん)、真珠院と、源頼朝(11471199)、北条氏ゆかりの寺が並立しています。もうひとつ見落とせないのは、成福寺を見る前に国道を少し三島方面に戻り、狩野川を渡っている松原橋という鉄橋を向こう岸へ渡り、そのまま奥へ歩いて、豆塚神社という神社が建っている交叉点を左折して(修善寺方向へ)3〜4分歩いたところにある北条寺です。北条寺にいたる前に東漸寺という小さな寺があります。北条寺は、頼朝が武家政治を行なう幕府という行政組織を日本で最初に創始するまで頼朝の後ろ盾となった北条時政が尊崇した由緒ある寺で、時政の子義時とその夫人の墓があります。北条寺の由来については、あとで述べます。


韮山から長岡までの旧下田街道沿いに並ぶ北条ゆかりの寺院

 北条寺の正門を出るともうひとつ国道に平行して走っている道がありますが、北条寺を見たあと、その道なりに歩くとこの道は狩野川の向こう岸に渡ったのですから成福寺には出ず、いきなり長岡町の古奈温泉郷に出てしまいます。ですから北条寺を見たあとは、国道136号線に平行しているさっきの裏道(旧下田街道)へ戻る必要があります。ちょっと話は横道にそれますが、古奈温泉は古い温泉郷で、本陣という旅館の脇には、かつて頼朝がしばしば入浴に行ったという、いまは閉じた源泉の跡があります。長岡温泉は明治になって発掘され、発展した温泉郷で、たがいに近くに位置しているので、いまは古奈と長岡を合わせて長岡温泉郷と呼んでいます。

 ここで旅行者のみなさんの注意を喚起したいのは、大抵の川は太平洋へ向かって南へ流れていますが、狩野川は同じ太平洋へ注ぐといっても、沼津市が河口なので、他の川とは違って逆方向に流れている一級川であるということです。

 成福寺と願成就院の間には、北条政子が生まれたときに使ったという産湯の井戸があります。と言っても、なんのことはありません。ツーバイ法の現代的な民家の真下に石づくりの井戸の跡があって、北条政子の産湯の井戸と書いてあるだけです。浜松市に徳川二代将軍秀忠の産湯の井戸というのがありますが、そこはいまや訪れる人もなく、ただ石の井戸の跡があるだけのさびれきった遺跡で、すぐそばにはホームレスの人々が暮らしています。政子の井戸は秀忠の井戸よりずっと立派で、キチンと整備され井戸の後方にはそれを守るように小さな石の坐念地蔵があります。それにこの民家の主である伊丹さんが史跡を大切にする心から、この井戸をきれいに整備したむねの白い立て札が立っています。

時宗の子、正宗入道が建てた北条家菩提寺「成福寺」

 しかし、これから述べる北条氏ゆかりの古寺は800年の昔を蘇らせるに十分な数々の文化財を宝蔵しています。

 まず成福寺(写真2)から始めましょう。浄土真宗時雲山成福寺は北条氏の菩提寺で、門を入ると二つの黒い三角形を並べた上に、もう一つ黒い三角形をのせた北条家の家紋の下に「北条氏ゆかりの」と書いた立て札があって、次ぎのように由来が書いてあります。なおこれから紹介する立て札の実物は、すべて縦書きです。


  北条正宗(時宗の子)寺をつくる 八代執権北条時宗の子正宗(幼名満市丸(まんいちまる))が 父 の遺志を継ぎ正応二年五月ニ十五日 (一ニ八九年)鎌倉よりもどり成福寺を建立した

  浄土真宗の寺 成福寺は現在真宗大谷派に属し 阿弥陀如来を本尊とする 本山は京都東本願寺である

 寺は役所のあと 平安時代桓武天皇の流れをくむ伊豆の国在庁宮人平時家時方(北条氏の先祖)の庁舎 寺仏堂の跡にに寺を建立したと伝えられる
 
 
  元寇の役菩提を弔う 父北条時宗は元寇の役の全戦死者我が将兵と元兵を含む十六万余人の菩提を弔う ため長男貞時には一千体の地蔵尊正宗には一切経写経奉納を命じた。

  本願寺二世如信上人(親鸞上人の孫) 正宗は校舎の師として如信上人に懇請し大願成就した。全国の 高僧により追悼法要が鎌倉にてとり行なわれた。敵も見方も皆、仏と時宗は考えた。 

  念仏の布教  如信上人の教を受けた正宗は、浄土真宗の僧となり、各地に念仏の布教を行ない、特 に貧しい人々の心の支えとなった。

 北条氏の菩提の寺 父時宗の死後、正宗は鎌倉を離れ、北条氏の故郷・伊豆北条村に成福寺を建て、両
親の遺骨の一部を鎌倉より持ち帰り墓をつくり、また、歴代北条氏の菩提を弔っている。

 北条早雲とのかかわり 戦国時代、韮山の地に、山城を造り住んだ早雲と成福寺は交わりがあり、孫の 氏康は虎の朱印状を出し、成福寺の僧が大阪本願寺に行くことを援助している。栄禄五年(一五六ニ年) の朱印状が現存している。

 北条子孫いまも寺をまもる 今も北条氏の子孫が 法灯を護り、現在に至っている。史跡発掘調査によ り、史実が明らかとなってきた。                     合掌                    
                       住職  北条 秀門          」

 

 北条氏は、第16代執権守時(実権は14代執権を引退し、出家していた高時が握っていました)のときに新田義貞の海からの鎌倉攻めに合い、一族郎党老若男女800人もが自刃して滅亡(1333年)したことは、誰でも歴史の勉強で学ぶことですが、実は時宗の実子、正宗の出家、成福寺の開基によって、北条氏の血筋は現在に続いていることを、この立て札は物語っています。平成13年の早春まで、この立て札は長い間の風雨のために不鮮明で判読できない部分がところどころにあったのですが、最近、このように書き変えられました。古い立て札には、十九世住職と書いてありました。

 当寺の右側後方の墓地には北条家累代の墓が立っている築山(写真4)があり、その左方の別の小さい築山には時宗、その夫人潮音院殿覚山志道尼、正宗の墓(写真3)があります。

写真2
 北条氏菩提寺「成福寺」の正門。

写真3
 NHKの大河ドラマ「北条時宗」とその子
 正宗夫妻の墓。
写真4
 北条家累代の墓。 

台風が起こらなかったら日本はどうなったかわからない蒙古軍来襲 

 NHKの大河ドラマ「北条時宗」の放映で、かつての蒙古襲来への関心が高まり、朝日新聞や毎日新聞でも、その歴史を振り返る記事を載せました。

2001年4月8日の毎日新聞には大島透氏が「深読み日本史」というコラムで、「外交では無策だった鎌倉幕府」という記事を書いておられます。「蒙古来襲の前にフビライは、1267年に日本に外交使節を派遣した。これは1回目の来襲の7年も前だった。宋国と盛んに交易していた日本と交易を始めたかったフビライのもたらした国書は、「兵を用いることを誰が望むだろうか。この点をよく検討してみなさい」といった威圧的な文言を含んでいたとはいえ、その要旨は「隣国同士、通商を始めようではないか」ということだった。これに対して幕府は、使節団を何ヵ月も足止めしたあと、何の返書も与えず帰国させた。フビライは、それでもその後4回にわたり使節を派遣していきたのに、幕府はすべて黙殺した。ことここにいたってフビライの怒りは爆発し、日本征服の蒙韓連合艦隊を組織して来襲した」というのが、大島氏の見方の要旨です。

 なるほど、平清盛は実は度量の大きさと有能を兼ね備えた第一級の人物であったことは追い追いふれますが、清盛が寒村に過ぎなかった神戸に港を築き、宋国と盛んに交易を進めたことは有名な歴史的事実で、これに対して鎌倉幕府の姿勢は、引き続き宋国と交易は行なっていたとはいえ、元の皇帝フビライの国書に対する対応は硬直したものと言えるかもしれません。御家人集の家柄同士の政略婚姻や、毒を盛られて執権や執権候補者が死ぬなど、権謀術策が日常的に行なわれていた時代で、一方、武家を傭兵としてしか考えていない京都の御所の天皇、院政を敷く上皇と武家操縦に長けた公家たちから距離を置くために鎌倉に幕府を築いて武家政治を確立した源頼朝に続いて、政権を簒奪し気負いたっていた北条家が得宗家の立場を維持するのに汲々としていたことが、外交的無策に陥らせたのでしょうか。そのため鎌倉幕府は、未曾有の国難を招いたのでした。

 元の皇帝(世宗)フビライ(初代皇帝チンギス汗の孫)が属国高麗に命じて900隻の船を造らせ2万5000人が乗船して壱岐、対馬に来襲したのは文永11年(1274年)で、第八代執権時宗(12501284年)が若干22歳のときでした。当時の日本の戦のやりかたといえば、隊伍を組んで互いにぶつかり合うのではなく、敵味方が睨み合うなかで優美な鎧兜を身にまとうた武将が、「やあやあわれこそは○○なるぞ」と互いに名乗り合って一騎討ちをしたり、壇ノ浦の合戦で源氏方の弓の名手、那須与一が平家水軍の舟に掲げた扇子を一矢で射落とし、敵味方からヤンヤヤンヤの喝采を博した、平家物語の有名なひとコマが知られているような悠長なものでした。

 これに対して蒙古軍は、騎馬民族ですから軍馬を手足のように操り疾風迅雷し、隊伍を組んで容赦なく矢の雨を射かけてくる戦法でした。武田信玄が風林火山と恐れられ、織田信長が編み出した、隊列を組んだ鉄砲隊が途切れることなしに次々に弾を浴びせる戦法が採られるようになったのは、北条時代から300年あまりが経過した戦国時代です。北条軍の弓は力学的にうんと遠くにはとどかず、矢は長いので死傷力が限られました。ところが、蒙古軍の弓矢は短く遠くまで飛んだうえ、矢じりには毒がぬられていましたからたまりません。蒙古軍は壱岐、対馬に上陸し、獅子奮迅の日本軍は乗馬の武士がまじっていたにもかかわらず、島の住民ともども徒歩で隊伍を組む蒙古軍に敗れ、全滅したのでした。蒙古軍は、勝ちに乗じて博多に上陸し北条軍を蹂躙したのでしたが、夜間船に退いた蒙古軍を一天にわかにかき曇った台風が、彼らの軍船を木の葉のように翻弄し、蒙古軍を海の藻屑と沈めてしまったことは、第二次世界大戦中によく使われた「神風」という言葉とともに、われわれ日本人の心に、未曾有の国難を偶然の天候異変が二度まで救ってくれた歴史として深く刻まれているのは周知のとおりです。

 朝日新聞によれば、現在のモンゴル人自身も「そんなことは聞いたことがない」と言っているそうですが、このときフビライは高麗に船を4万隻つくれと命じたそうです。というのは蒙古軍の強さは騎馬にあるのですから、4万隻の船を並べて橋にして多数の馬を運ぶつもりでした。しかし高麗は経済力と時間の限界から4,000隻をつくっただけでした。もしフビライの意図が叶えられていたら、日本はどうなっていたことでしょうか。

2回目の来襲(弘安の役)も台風に救われる

 1回目の来襲から5年後の1281年には、1万人の高麗人を含む14万人といわれる蒙高連合軍が押寄せてきました。いまの韓国から1,000隻の船に乗船した4万人と、中国南部海岸からやってきた10万の大軍で、第二次大戦の連合軍の欧州上陸を唯一の例外として、後にも先にも世界の戦史でこれだけの大軍がいちどきに海を渡って侵入してきたことはありません。フビライが派遣した交易を望む使節団の使者4人の首をはねた幕府の対応に対する答えがこれでした。

 このとき執権時宗の逸話で筆者が忘れられない経験があります。筆者が旧満州の旧制中学校に学んでいたときのことですが、われわれ生徒は修身という学科の授業を受けるために100畳敷きの日本間で正座して黙想しながら先生の元寇の話を聴いていました。当時若干22歳の時宗は、尊敬していた禅僧の大覚禅師に「いったいこの国難をどうして切り抜けたらいいでしょうか」と相談したのであーる。すると禅師はただ一言、「莫直進前(ばくじきしんぜん)」と答えた。時宗は、「莫直進前」とはいったいなーんのことですか?と聞いたのであーる。生徒はみんな目をつぶりながら、そろそろ眠気を催していました。と、突然、先生は部屋が割れるような大音声で「喝(かーっつ)」と叫びました。皆は、突然のことに度肝を抜かれ、ハッとして目をあけました。すると、先生は「……と、言うたのであーる」と澄ました顔で言い、「それは、何も考えずに、ただただ前進あるのみ」という意味だと結んだのです。元の大軍を前にしては、迷わず戦うほかなかったでありましょう。

 史上最大の海を渡った侵入軍は、西の平戸島から五島列島に到着しました。5年間の経験に懲りた鎌倉幕府は、九州の武家に命じて博多に基底の幅が10メートルの防壁を20 キロにわたって築きました。このときばかりは、天皇も、上皇も、公家も、武家も、町人も、農民も、文句を言う者はなく、国内のあらゆる勢力が初めてひとつに結集されたのでした。奈良、平安時代を含むそれまでは、天皇を囲む公家社会はお公家社会、中央政府である幕府は幕府、幕府の威命に逆らう地方豪族は豪族ということで、折りあらば自己の勢力を拡大し温存するありあさまでした。弘安の役のときは、武家は小舟を多数つくり、それに乗って蒙古船に近づき、敵の船に斬り込む戦術を採りましたが、蒙古軍は海上戦の経験がありませんから大成功し、第一戦は日本軍の勝利に終わりました。2度にわたる元寇の様子は、肥後御家人、竹崎季長が「蒙古襲来」という今は国宝になっている戦闘記録を書き残していますので、手に取るようにわかっています。

元を正せば北条は、「平氏」

 さて、成福寺にはさらに次ぎの二つの立て札が立っています。 

「 成福寺と北条館・堀越御所

  源頼朝をもりたて、鎌倉幕府の基礎を築いた北条氏の居館は、守山麓から成福寺

  を含む広大な地域を占めていたと言われ、地籍図にも御所の内、築山、中之島等

  の字名があり、また成福寺境内には土るい、堀、水路などの遺構が残存していま

  す。北条時政が政子と頼朝の新居として立てた別亭(吾妻鏡による)は、ちょう

  どこのあたりであったと言われています。

   当寺から東へ直行する道は、頼朝配所とされる蛭が小島に通じ、逆に西行する

  と狩野川対岸の江間小四郎義時(政子の弟)の居館跡に至るので、これを北条大

  路の名残とする説があります。当寺門前を南北に走る小路は、往時の下田街道で、

  農業構造改善の区画整理以前は四方平野の条里は全てこの方向と一致しています。

   室町時代になって長禄元年(一四五七)足利義政は古河公方への対抗策として、

  弟政知を伊豆に配置しましたが、政知の居館、堀越御所も、当寺付近であると言

  われた、旧北条館跡の一部が復興利用されたものと思われます。

   当時の境内全般にわたって、土器類や古瓦の破片が出土して当時をしのばせて

  います。」


鎌倉北条氏と成福寺の由来

  平安時代に桓武天皇の流れをくむ伊豆の国在庁宮人(ざいちょうみやびと)であった

 平家(時政の父、政子の祖父)の持仏堂が成福寺(天台真言)の前身であったと伝える。

  鎌倉幕府創立の源頼朝を補佐した北条氏も当地より鎌倉へ移住し、成福寺も北鎌倉

 北鎌倉小袋谷に建立された。幕府の招きで来られた親鸞聖人の門弟になった泰次(泰 

 時の子)が浄土真宗に改宗、現在も鎌倉成福寺がある。

  北条時宗の時元(モンゴル)と高麗の大軍が九州に攻め来り(元こう)十余万人の

 戦死者を出した。全戦没者追弔会が幕府によって国中の高僧により施行された。その

 時北条時宗の子正宗は本願寺第二世如信上人直弟子となり、伊豆北条村に浄土真宗成

 福寺を再興した。時に正応二年五月二十五日(一二八九年)。正宗は両親の遺骨を鎌倉

 より分け持ち帰り館の高土手(築山)に墓を造り、また北条一族の供養塔を建て菩提

 を弔った。北条氏子孫法灯を守り現在に至っている。

  現本堂は親鸞聖人生誕八百年中興開基釈正宗七百年遠忌を記念し、平成元年十月再

 建した。

  建立にあたり、史跡発掘調査が実施され、本堂下境内より当時の遺品が多数発見さ 

 れ、史実が明らかになってきた。

     韮山 成 福 寺  」

 これらの立て札から、北条時政以前は北条氏は「平家」であり、時政の時、地名をとって北条氏を名乗ったことが明らかです。言いかえれば地方に住んで勢力を拡大しようとする源平両家につながる一族は、時代の勢いとチャンスを掴んで、利あれば平氏であっても、合い争う源氏方につき、源氏であっても、平氏方についくのは日常茶飯事であったことを物語っていると思います。頼朝については弟九郎判官義経のように多くの逸話は伝わっておらず、猜疑心から家来に命じて実の弟義経も、範頼も殺してしまうような暗い話ばかりが伝わっていますが、よほどハンサムで人物が大きく見えたのでしょうか、気性の激しい時政の長女政子が、「ほかの男と結婚することになっていたその当日に頼朝のところに走った」(タイムライフ・インターナショナル社1969年発行、人間世界史「日本」、20 Great Ages of ManEarly Japan、原著ジョナサン・N・レオナード)ほどの男前でした。男勝りで才知にすぐれていた政子は、頼朝の死後、尼将軍と呼ばれ、「巧みな工作を行って、自分の一族である北条氏を引き立てた。こうして北条氏は幕府の執権職を代々受け継ぐことになり、将軍を意のままに操ったのである」と、同書にはあります。

 筆者があとで調べてわかったことですが、政子が結婚式当日に結婚相手から逃げて頼朝のところに駆込んだその男とは、伊豆地方を治めることを平清盛から任命されて目代(江戸時代の代官のようなもの)に就任していた平兼隆(山木に館を構えていたことから山木兼隆とも呼ばれる)でした。配流の身とはいえ、平氏の監視はゆるやかなもので、頼朝は韮山周辺をあっちこっち歩き回り、温泉にもよく入りに行くことができました。そうこうしているうちに、最初に恋に陥ったのは伊東祐親の四女八重姫で、逢引を重ねるうちに千鶴丸が生まれたのですが、父親の祐親は頼朝との婚姻を許しませんでした。その次に頼朝が出会ったのは北条時政の長女政子でした。二人はやがて恋に陥り偲び合いを重ねているうちに長子大姫を孕んだのでした。さて考えあぐねた父親時政が、逆手を取って考えた案は平兼隆との政略結婚だったのですが、じゃじゃ馬娘の政子は、こともあろうに結婚式の場から逃げ出し、そのとき風雨の中をひたすら頼朝のもとへ走ったのですから、平兼隆が頼朝と時政の首を取ろうと襲ってくるのは必定でした。頼朝は、自分から旗挙げしなければ生き延びる道はありませんでした。時政もことここにいたっては、臍を固めていちかばちか、源氏再興の旗挙げに積極的に荷担する以外に道はなかったのです。

11808月、北条時政と、佐々木太郎定綱、次郎経高、四郎高綱、足立盛長の軍勢は、家来が三島大社の祭りに出かけて手薄だった山木の館を急襲したのです。それからの戦は血みどろの戦で、勝利が確定するまでには紆余曲折があったことは皆さんのご存知のとおりです。

 韮山駅の手前の駅を降りて、狩野川とは反対側の線路の左へ直角にまっすぐまっすぐ続いている道が突き当たるところに「国清寺」という古寺がありますが、ここが頼朝と政子が逢引をした寺でした。

 成福寺の本堂前にはそれぞれの蓮の種類と名前が書かれた多数の大きな水鉢が置いてあり、7月上旬の開花シーズン(写真5-1、5-2)には珍しい、美しい蓮の花を堪能させてくれます。

写真5−1 
7月はちょうど蓮の開花時期で、400以上の異なる
種類の名前をつけた鉢が並び、咲き誇っています。


写真5−2
同じく大写しにした開花の模様。ちなみに「蓮」の英
語はロータス(lotus)です。

つわものどもが夢の跡「堀越御所跡」

 成福寺から願成就院へ向かって道を歩くと、行く手の角に絵地図の看板が見えてきます。その絵地図の前を右へ曲がりしばらく行くと、右側に足利七代将軍義政の弟政知が居館を構えたという「堀越御所(ほりごえごしょ)」跡がありますが、いまは草むしているだけで、「つわものどもが夢の跡」というわびしい気持ちを誘います。説明の立て札があり、こう書いてあります。

「 堀越(ほりごえ)御所について

  室町幕府も、第八代将軍足利義政の頃になると、幕府の威令も漸く衰え、関東は幕

 府に背く勢力の増大で乱れに乱れた。

  このため将軍義政は、長禄二年(一四五八年)夏、実弟である足利政知(まさとも)

 を関東に下向させ、関東鎮護を企てたが、政知は鎌倉入りができず、やむなくここ韮

 山の地に居館を構え、機をうかがうこととなる。これが、「堀越御所」である。

  政知には長子「茶々丸」が居たが、後妻の子供との世継ぎ問題で内輪もめが絶えず、

 延徳三年(一四九一年)に政知が病没するや、茶々丸は継母・義弟の他、重臣をも斬

 るに及んで御所は内乱状態に陥った。

  この機に乗じ沼津「興国寺城」に在った伊勢新九郎長氏(後の北条早雲は、直ちに

 御所を急襲して茶々丸を亡ぼし、ここに三十三年間存在した「堀越御所」は消滅する

 ことになる。

  尚この地は、鎌倉幕府の執権として威勢を振るった「北条氏」の本拠地でもあり、

 昭和五十七年以来、数次にわたる発掘調査でも、十二世紀末から十五世紀にかけた、

 当時の上流階級が使用したと思われる遺構、遺物の検出をみている。

 また現在でも、この付近の小字(あざ)名「御産所(ごさんしょ)」「御所之内(ごしょ

 のうち)」「築山(つきやま)」等が残されているのも、これらをうかがわせている。

       昭和六十一年三月   

                       韮山町教育委員会     」  


                

 お家騒動は、昔からよく芝居の、近代にいたっては映画、テレビ・ドラマの題材になる話ですが、華美と奢侈にふけった室町時代末期の武将たちの退廃的な暮しぶりがうかがえます。将軍義政は、11年間にもわたった応仁、文明の大乱が終わる4年前に将軍職を義尚(よしひさ)に譲り、乱後にあの銀閣寺を建てて、公・武ともに昼夜の飲酒、遊楽にふけるありさまでした。将軍の権勢は衰え、政知が鎌倉入りができず、韮山に居館を構えざるを得なかったことも、当時の武将の無気力を表すといえましょう。この立て札の説明では「政知は病没した」とありますが、三島市の三島大社に近い足利尊氏の三男で二代目征夷大将軍の建立になる「宝鏡院」の立て札には「足利尊氏公第七代の武将義政公の弟政知は田方郡北条館にて茶々丸に殺さる。延徳三年四月五十七歳にて没す」とあります。また兄義政の代も七代とあり、堀越御所の立て札の八代とは違っています。昼寝中のハムレットの父デンマーク王を、邪悪な叔父が耳に毒を注いで殺し、王位についたように、父政知に毒を盛ったというのが真相かも知りません。宝鏡院には義詮、政知の墓があります。    

頼朝が戦勝祈願し、建立した北条時政の墓がある「願成就院」

堀越御所から引き返して、長岡への道をさらに行くと、北条ゆかりの古寺のなかでは一番どっしりした願成就院(写真6:願成就院本堂)があります。ここは北条時政が、奥州の栄華を極めた藤原氏を討伐する前に戦勝を祈願して建立した寺ですが、その目的が達せられたというので、頼朝が「願成就院」と名づけたといわれています。しかし、寺伝によれば、もともとは奈良時代の聖武天皇の天平元年(七二九年)に創立になるということです。文治五年(一一八九年)初代執権時政が建立し、その後義時、泰時の三代にわたって広大な構内に次々と堂や塔を建立し、奥州藤原氏三代の中尊寺・毛越寺・無量光院三寺院のなかの毛越寺を模して建てました。山門を入ると大きな池があり、その池の中島にかけられた橋を渡って参詣するようになっていました。しかし、これらの堂塔は、15世紀末の兵火で焼失してしまいました。

 ここには初代執権北条時政の墓(写真7)がありますが、北条氏とは関係のない北条早雲の急襲に会い、あえなく滅亡した政知の子、茶々丸を始め負けた足利一族の首を洗ったという首洗いの池と、茶々丸の墓があるのですから、無常を感じます。




写真6
頼朝が奥州征伐の戦勝祈願をした願成就院。
北条時政親子三代にわたり、広大な構内に
次々と堂や塔を建立したと寺伝にあります。
写真7
願成就院には、北条時政の墓と全国唯一の
時政の木像が残されています。

 それでも他の寺院に比べて一段と格式の高さを感じる願成就院の構内には、次ぎの立て札が立っています。

「         告

   永暦元年(一一六〇年)平治の乱に敗れた源氏の嫡子、源頼朝十四才で蛭ヶ小島

  に流され旗挙げするまでの約二十年間関係したところです。

   この寺は文治五年(一一八五年)頼朝奥州の陣に戦勝を祈念して義父、北条時政

  が建立し、その名も願成就院と称しました。しかし、その後伊勢新九郎長氏(のち

  の北条早雲)が隣接していた堀越御所を攻めたとき、更にそのあと豊臣秀吉の韮山

  城を攻めたとき、兵火にかかり焼失しました。従って本堂は江戸時代の建造のもの

  です。

   大御堂には本尊として阿弥陀如来坐像、不動三尊像、毘沙門天像の像仏と胎内名

  札(塔婆形)が重要な展示物として納められています。特に名札の「運慶東下り」

  を証する史上の貴重品です。特に仏師運慶の創作になるガラス様のゾウ眼を入れた

  ところにあるとしています。寺域には足利茶々丸の墓、北条時政の墓、首洗いの池

  などがあります。

  大御堂本尊阿弥陀如来坐像一体、不動明王立像一体、同こんから童子、せいたか童

  子二体、毘沙門天像一体、不動明王毘沙門天体内銘札二枚以上七点が国の重要文化

  財に指定されています。

    天守君山  願成就院当主              」

 

 本堂の入り口に受付があって、拝観料300円を払えば、これらのすばらしい彫像を至近距離で見ることができます。受付のおばさんが、寺の由来を始め、宝物を説明してくれます。近年になって運慶作とする説が出てきた阿弥陀如来坐像を含めて、毘沙門天像、不動明王像、こんがら童子像、せいたか童子像のすべてが重要文化財に指定されており、稀代の仏師運慶の作です。堂のうしろが宝物殿になっており、政子地蔵菩薩像、北条時政の木彫り坐像(彼の風貌を表すのは全国でこれだけ)ほかを見ることができます。政子地蔵菩薩像は、まるで男のような気性の激しい隙のない尼将軍の雰囲気をあますところなく表す名作で、重要美術品に指定されています。

 願成就院の右脇には守山八幡宮があり、山腹の社殿へ向かって長い急な階段が続いています。ここは頼朝が旗挙げをするとき、戦勝を祈願したのち十数騎の家臣がこの地方の目代だったの山木兼隆の館を急襲させ、館から成功の火の手が上がったのを見届けたという、まさに源平合戦の発祥の地でした。

頼朝を慕い家出、門前払いで入水−悲恋の八重姫を弔う真珠院

 願成就院を出て、さらに長岡方面へ向かうと、守山麓の登山入り口が右手に見えます。守山の頂上にたどりつくと、そこには形ばかりのあずまやがあり、わずか101.8メートルの標高なのですが、360度のパノラマの眺望が開け、秀麗の富士山を始め韮山周辺のすばらしい景色を心ゆくまで堪能できます。よく昔の人々が登ったということですが、いまはほとんど人影もなく、道も平らかではありませんから、一人で登るのはお奨めできません。誰かと一緒か、グループで登るとよいでしょう。富士山は晴れた日でもちょっと霞むと見えませんから、空が青く澄んだ日に登ることをお奨めします。

 守山から降りて長岡方面へ少し進むと神社があり、さらに歩くとすぐに川の手前に真珠院(写真8)が右手にあります。入り口に次ぎの二つの立て札があります。 

「守護山 真珠院      

 古来、修行道場として栄え「祇樹林(ぎじゅりん)」の別称がある。

 宗 旨 曹洞宗「禅宗」
 
本  山 福井 永平寺(道元禅師開山)
        横浜 総持寺(けい山禅師開山)
  本 尊  釈迦牟尼佛
  開 山  実山永秀(じっさんえいしゅう)禅師
  開 創  鎌倉時代、真言宗として開創。
        室町時代に曹洞宗に改宗し現在に至る。 


「伊東八重姫入水の地

   源頼朝との契りの一子「千鶴丸」を源平相克のいけにえにされた伊東祐親の四女   

  「八重姫」は、悶々の日を送る中、遂に意を決し治承四年七月十六日侍女六人と共に

  伊東竹の内の別館をぬけ出し、亀石峠の難路に、はやる心を沈めながら頼朝の

  身をかくす北条時政の館の門をたたきました。然し既に政子と結ばれていること 

  を知る邸の門衛は冷たく、幽閉された身の我が館に帰る術もない八重姫は、あわれ真

  珠ヶ淵渦の巻く流れに悲愁の若き「いのち」を断ってしまいました。

 悠久八百年、狩野川は幾度か流れを変え、今は「古川」の小さな流れに閉ざされた

悲恋のしのび音を偲ばせてくれます。

 尚、当院境内に県下最古の「五輪塔」(一三〇二)並磨崖仏(一三六三)、その他宝幽印塔(一三三五)等々貴重な石造物が安置されています。

                 韮山産業観光課

                         八重姫奉賛会                          

 なんとかわいそうな、哀れを誘う話ではありませんか。「頼朝は、女たらしだと、評する人もいますよ」と、願成就院の受付のおばさんの言葉が忘れられず、頼朝の冷たいという印象が残るのは私だけでしょうか。八重姫を弔った「八重姫御堂(やえひめみどう)」(静堂(せいどう))
(写真9)
が門を入るとすぐ右側に建っており、立て札にこう書いてあります。

「八重姫御堂(やえひめみどう) (静堂(せいどう))

 鎌倉初期、源頼朝との恋にやぶれ悲恋の入水をした伊東八重姫をまつる御堂で、堂内正面に八重姫の木像を安置し、下に供養塔を収める。  

 那木(なぎ) 堂の右手の大木は那木(和木(わぎ))といい、平和、穏やかの意。この葉は横に割けず、愛のお守りとして、又、家族平穏の

 お守りとして持つと功徳があるという。

 願かけ石 堂左前にある願かけ石は、自分の年の数だけ石をたたき、願い事をすると必ず成就すると古来より伝えられている。    」

 奥の本堂前には、次ぎの立て札があります。

「一、大御堂本尊阿弥陀如来は源頼朝公が蛭ヶ小島に配流の十四才より三十四才に至

   る二十年間日参された霊体なりと伝えられる。            一体

   大正八年国宝に指定され、昭和二十五年重要文化財に指定される

 一、 不動明王、毘沙門天、両像体内銘札

   澤慶、北条時政公在銘の五輪塔婆形にて、文治二年五月三日の記録がある逸品なり。大正八年国宝に指定され、昭和二十五年重要文化財に

   指定さる。       」

 本堂は閉まっていて、これらの宝物を見ることはできません。

写真8
 真珠院の参道。頼朝を慕って願いを遂げられ
ず、入水した八重姫とその6人の侍女たちを祭っ
た堂がここにはあります。

 
写真9
 
八重姫を祭った八重姫御堂。狩野川に入水
した時せめて梯子があったら助け上げることが
できたろうにと、小さな梯子がドアの脇にいくつ
も架けてあります。


 

 このように韮山から長岡まで、頼朝、北条家ゆかりの古寺を探訪し、守山に登って長岡町に着くまでの距離(守山への登頂距離を含む)は、約.5キロで、時間的には午前中を費やせば十分です。

北条が残した重要文化財を安置する北条寺

 さて、この章の冒頭に書きましたように、北条寺は韮山から長岡へいたる旧下田街道から少し奥へ離れた場所にありますが、その北条寺のことを書きましょう。北条寺の門(写真10:北条寺山門)を入ると、すぐに次ぎの立て札が立っているのに気がつきます。

 

「巨徳山北条寺

     宗旨 臨済宗建長寺派

          伊豆の国八十八ヶ所霊場十三番札所

           道三十三ヶ所霊場八番札所

  観世音菩薩像 県指定文化財

   北条寺本尊にして千二百年以前に日本に渡られ江間村に安座され寺号を観音院

   と名付けられた。北条時政は深く尊崇し、寺号を万徳山北条寺と改め以来代々

   寺を建立し、寺領も寄進された

  阿弥陀如来像 国指定重要美術品、県指定文化財

   鎌倉時代の仏師、運慶の作と伝えられている。江間小四郎北条義時の嫡子安千

   代が領内の大池で大蛇に襲われて命を失った時、義時は北条寺を墓所としその

   供養のため七堂伽藍を建立し、仏殿本尊を運慶に作らせた。日本無類の尊像で、

   これ以後運慶の作物は無いため、伊豆の無阿弥陀仏と呼ばれている。

  牡丹鳥文繍帳(ぼたんちょうぶんしゅうちょう)(つづれ錦) 県指定文化財

   源頼朝夫人政子の寄進したものと伝えられている。三帳一組の大作で色鮮やか

   な牡丹の花、果樹、草木の中に鹿、孔雀などの鳥獣が美しく刺繍された戸帳で

   ある。

  観音堂 北条寺の草創をしのばせる古い建築様式であるが、建築年不詳

  北条義時夫妻の墓 墓所に解説がある

  六地蔵石仏 屋根は古い石瓦でふかれている

  北条寺文書 足利将軍家、後北条氏等の寺領寄進状や朱印状など多くの古文書が

  ある                            」

 

  

 本堂の前に立つと、引き戸の右の方に呼び鈴があって、「ご本尊を拝観したい方は、この呼び鈴を鳴らしてください」と書いてあります。そこで呼び鈴を鳴らすと、寺の人が出てきて、拝観料もとらず、親切、丁寧に貴重な宝物を説明してくれます。私が行ったときは、70代後半と思われるご婦人でした。観世音菩薩は、どっしりと重量感のある仏像で、1,200年前の歴史の重みを感じます。阿弥陀如来は運慶の作ですから、さすがにすばらしい出来です。つづれ錦は、ガラスのフタをした三つの木箱に入っており、つづれを開くことはできませんが、十分に豪華さを認識できます。

 本堂の左手奥のほうに鬱蒼とした小高い丘の墓地があり、そこには二代目執権北条義時夫妻の墓(写真11があり、立て札にこう書いてあります。

「北条義時夫妻の墓

    北条義時は時政の次子で、源頼朝夫人政子はその姉である。幼少より江間の 

   館に育ち、江間小四郎と称した。頼朝の旗挙げ以来父時政、兄宗時とともに従

   い大功があった。

    鎌倉三代将軍実朝の不慮の死により、源氏の正統が絶えると京都より頼朝の

   姉の曾孫に当たる藤原頼経を迎えて自らは執権となり勢威を極めた。後鳥羽上

   皇はその専横を憤り、承久三年(一二二一年)院宣を下して義時を討とうとさ

   れた。

    義時はその子泰時、弟時房に大軍を率いて京都に攻め上がらせ、官軍を大い

   に破り、帝を廃し、後鳥羽、順徳、土御門の三上皇を配流した。

    これが世にいう承久の変である。

    義時は承久の変後三年、元仁元年六月十三日急死した。時に六十二才であっ

   た。

    長子泰時らは北条発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。なおこ

  の墓は向かって右が義時、左が從妻佐伯氏娘の墓である。」

  

  

 「そうか。これが、旧制中学生時代の日本史で学んだあの承久の変で、天皇を退位させ、上皇を3人も島流しにした義時の墓か…」と、いまは静かに眠っている武将夫妻の墓をまじまじと眺めたものでした。それにしても3人もの上皇が時には院宣を下すなどして、武士集団を操ろうと権謀術策を凝らした時代を生き抜くには、強い意思と武力に裏づけされた果断な実行力が必要であったのでしょう。


写真10
 北条の名字をつけた北条寺の参道。
写真11
 北条時政の子泰時夫妻の墓があります。


韮山の傑物 江川太郎左衛門の代官邸

 さて韮山の鉄道線路の反対側、つまり修善寺へ向かって左側の史跡をご案内しましょう。韮山を訪れる観光客の人々は、
大抵、反射炉だけを見て、代官邸(地図参照)を見ないで帰るのですが、地方自治体の合併が進みつつあることと関連し
ているのでしょう。韮山町は江川太郎左衛門の史蹟をもっとクローズアップさせようと、観光環境を急ピッチで整えつつあり
ます。
 修善寺方向へ向かって右の改札口を出ると、目の前に蛭が小島、代官邸と書いた標識が立っていますから、そのとおり
に修善寺方向に進むと、舗装が出来上がったばかりの道路に導かれ、線路を越えるようになっています。立派な道路です。

石碑が物語る頼朝流配の地「蛭が小島」の史跡


 線路と直角に交わった田んぼのなかのその道路を真っ直ぐ、真っ直ぐ下ると、右側は蛭が小島の史跡です。ここは、約
800年前は大河狩野川にいくつもあった島のような中洲のひとつで、頼朝が伊豆に流されて17年間監視されながら住んで
いたところでした。いまは何も残っていませんが、石碑だけが立っています。
 北条時政は、平氏の流れを組むこの地方の豪族だったので、この地方の長官平兼隆とともに頼朝を監視する立場にあり
ました。ところが、こともあろうに自分の娘政子が頼朝と恋に陥ってしまったので、頼朝を自分の館にひそかに住まわせてい
たと考えられます。そのときに、真珠院のところで書いた八重姫の悲劇が起こったのでした。頼朝をひそかに住まわせるよう
になってから3年の月日が流れますが、時政は平家と源氏に板ばさみになっていくます。そこでやろうとした苦肉の策が、政
略結婚でした。政子を平兼隆に嫁がせようとしたのです。ところが、とんでもないことが起こり、事態は急展開しました。気の
強いじゃじゃ馬政子は、兼隆との婚礼の日に抜け出し、頼朝を慕って彼の居所へ駆け込んだのです。
 さあ、頼朝にしても時政にしても、このままで済むわけはありません。こうして頼朝は、三島大社の祭りで兼隆の手勢が手
薄になる8月17日を狙ってわずか十数騎の騎馬武者で挙兵し、時政は兼隆攻めの総大将として頼朝を助け、緒戦はともか
く勝利をものにしたのでした。源平の戦は激しく、頼朝が完勝し、鎌倉幕府を樹立するまでに2年の月日がかかりました。蛭が
小島には、現在石碑が立っているだけです。すぐそばには歴史民族資料館があります。

日本初の発明をいくつもした幕末の太郎左衛門

 江川邸へは、蛭が小島を通り過ぎて真っ直ぐに歩くと行きつきますが、その立派な道路はやがて終わって細い山道に変わ
ります。右側に小学校を見て、さらに薄暗い山道にさしかかると左側に山城の跡のような感じの崖にさしかかります。山道は
間もなく終わって、大きな池の眺望がいきなり開けます。これは代官邸手前の親水公園です。右へ行くと北条早雲が築城し
「韮山城跡」、真っ直ぐ行くと「代官邸」の標識が目につきます。
 江川邸には住居部分にご子孫が住んでいて、そこには入ることができません。見学できる建物と構内は2001年から修復・
整備が行われ、グンと興味をそそられるようになりました。江川邸の入場券は、300円です。しかし、江川邸遺構の外側に隣
接して、町立郷土資料館があり、ここを見学する共通券を買うと大人400円、子供200円で済みます。
 江川邸の入口で渡されるパンフレットの「江川家の沿革」には、要旨次のように書いてあります。
 「江川家は清和源氏の流れをくみ、源満仲の次男宇野頼親が家祖である。頼親から6代目の親治は保元の乱の時、崇徳
上皇側について敗北し、その孫親信は13人の家来をつれて伊豆のこの地に落ちのびて定住した。親信の子治信は、頼朝
の挙兵の時(1180年)その軍に加わって、源氏再興後、頼朝は彼にこの地を与えた。親治に従ったと13人の家来は、この
親治の邸地の周辺の金谷地区に定住し、いまでも彼らの子孫が住んでいる。宇野家はその後、鎌倉時代、室町時代を通じ
て伊豆の豪族として地盤を固め、15世紀の半ばには、狩野川の支流の名をとって江川と姓を改めた。北条早雲が伊豆に進
出(1493)したとき、23代英住は土地を提供、早雲はそこに韮山城を築き、江川家はその後5代にわたって彼の幕僚をつとめ
た。28代の英長は徳川家康に仕え、徳川幕府成立後は幕府が伊豆を直轄地にし、江川家を代官に代官に任じた」
 歴史に名高い江川太郎左衛門英龍(1801〜1855)は36代目で、幕末の幕府の知識的巨人でした。すなわち、前述のパン
フレットによれば、蘭学を修め、外国の事情に明るく、沿岸防備の幕府への建議、近代的兵制であった農兵制度の建議と農
兵の訓練、西洋の砲術の研究と訓練、測量技術の研究と実施、東京湾のお台場の築造の建議と工事、韮山の反射炉の構
築の建議と工事、兵糧としてのパンの日本最初の製造、戸田村での日本最初の西洋式造船の監督、江川塾教育などなど、
非常に多くのことを実行しました。
 農兵の訓練にあたっては、あの「富士のしらゆきゃノーエ 朝日でとけて  とけて流れてノーエ   三島にそそぐ」の歌詞で
有名な「農兵節」を歌わせ、兵士の士気を高めようとしたのです。三嶋大社の前にある三島市役所の前庭には、二人の農兵の
銅像とともにその趣旨を書いた説明を読むことができます。市役所のあたりが農兵訓練の場所でもありました。
 また西洋式造船を監督したのは、ロシアのプチャーチンが乗っていた軍艦が難破してしまい、祖国に帰れなくなったために、日
本で代わりの軍艦を建造することになったためでした。 

 
写真12
江川太郎左衛門が住んでいた代官邸の
全景。左側の写真に写っていない部分は
住居になっていて、いまも子孫が住んで
います。
写真13
江川太郎左衛門が築いた反射炉。初めは、下田に
あったが、のちにここへ移築されました。太郎左衛門
は西洋砲術を高島秋帆に師事し、演習をしました。
現在の東京板橋区高島平がその演習地でした。下
赤塚の松月院には秋帆の使った砲身をのせた石碑
があり、そのことが書かれています。



北条時頼の墓がある長岡の最明寺

 韮山から長岡までにかけて並立している源氏再興に関連する古寺はこれだけですが、ここから長岡に入ると、長岡温泉郷にいたる手前に古くからある古奈温泉があり、そこには頼朝もしばしば通っていたという温泉の源泉跡が、本陣旅館のすぐ脇にあります。そこに立っている木の立て札には、こう書いてあります。「」長岡町の中のあたりにある最明寺です。ここには北条時宗の父、時頼の遺骨を分骨した墓(写真14があり、立て札にこう書いてあります。

 「 奉祠の若宮八幡大菩薩は弘長三年十一月二十二日鎌倉最明寺北の亭において他界された、鎌倉幕府五代の執権北条時頼公が常に兜の八幡座に奉安して国家の安泰を祈念された御尊像であります。

 時頼公諸国行脚の節、祖先発祥の地である当地に杖を留められたのでありますが、その卒去後、郷党その高徳を慕い特に幕府に請うて分骨を受けて墓を裏山に建て、御尊像を奉祠して当地の鎮守といたしたものであります。

                        伊豆長岡町文化財委員会  」

「  町指定史跡 北条時頼

 鎌倉幕府の五代執権北条時頼の墓と伝えられている。

時頼は賢母の誉れ高い松下禅尼を母とし、文武を奨励、善政を行なった。建長寺と開山蘭契道隆(大覚禅師)に深く帰依し、出家して「道栄」と号し、世に最明寺入道と称せられた。謡曲「鉢の木」で有名なように、出家後は密かに諸国を巡回して政治民情を視察したといわれる。北条氏発祥のゆかりの深いこの地の人々が、名執権の誉れ高い時頼の徳をその分骨を幕府に願ってこの地に墓を建てたものという。

     萩原麦草の句碑

 最明寺 時頼よりの 時雨ふる

 萩原麦草は、明治○○○○川西村(現伊豆長岡町)小坂に生まれた。(注:○○は不鮮明で判読不能)

若くして俳句の道に○○○○後上京して波郷、草田男らとも交遊し、中央俳壇にも知られるようになった。戦後、故郷の小坂に帰り、郷土の俳句指導に尽力し、晩年静岡県俳句協会の代表となった。昭和四〇年没。句集に「麦嵐」、「枯山仏」がある。昭和五二年一月、弟子、友人達によって句碑が建てられた。

                        伊豆長岡町教育委員会  」



写真14
長岡の日蓮宗最明寺には北条時頼の分骨した墓があり
ます。



 JRの北鎌倉駅で下車し、まっすぐ進めば一番先に円覚寺があり、さらにずっと先へ歩き随道を通り抜けたところに
有名な建長寺がありますが、この寺が時頼の建立になる大寺です。建長寺には、
13世紀後半に彫られた寄木造りの時頼
の坐像(作者不明)がありますが、それは堂々たる風貌の中に仁の心と強い意思をうかがわせるものがあります。


長岡駅からすぐのお奨めうどん屋「手打ち おとわ」

 さて、私は伊豆箱根鉄道沿線のグルメ歩きをしてまわっていますが、ぜひお奨めしたい手作りのうどん屋さんの一つに
伊豆長岡駅を降りてすぐの国道四つ角の「手打ちおとわ」があります。ここは安い消費税込みの価格で、心のこもったう
どん類、そば類、どんぶりもの、定食類を食べさせてくれます。何でも美味で、注文をしてからつくってくれます。とく
に私ども夫婦は、味噌煮込みうどんや、鍋焼きうどん、天丼が好きで、長岡温泉浴をしたのちに立ち寄って食べるのを常
にしています。
長岡に來られたら、試してみられるとよいでしょう。

伊豆長岡温泉と古奈温泉

伊豆長岡駅で伊豆箱根鉄道を下車し、鉄道と直角の道を真っ直ぐに10分〜15分ほど歩くと左側に長岡町の総合会館ホールがあり、
その建物の前に飲める温泉が噴出しています。さらに進むと、大観荘という旅館が左側にあり、なお歩いていくと間もなく突き当たり
になり、左右に道路が伸びています。右にいけば古來からある古奈温泉郷で、ここにある旅館「本陣」のかたわらには源頼朝が足し
げく通ったといわれる温泉が噴出していた跡が保存してあり、頼朝が通ったといういわれを書いた木の立て札が立っています。突き
当たりの山懐には西琳寺という寺があります。この寺は現在、真宗大谷派に属する寺で、西暦810年に弘法大師(空海)がここの山
のなかに草庵をつくり修行したあと、大師を慕った人々が一棟のお堂を建てたのが始まりと伝えられています。山門の手前右側には、
町営の大衆浴場があります。
そこから左折すれば、右側は源氏山と呼ばれる低い山の崖下で、狭い水路の上は約100メートルほどの藤棚になっています。そこに
ある長岡温泉郷行きのバス停も「藤棚」です。藤棚を過ぎると、右側に素泊まり旅館が経営している「華の湯」があります。ここは3時
間入浴料800円(金曜日に限り500円)の薬草湯です。さらに歩けば右側の角にこじんまりした蔵美術館がありますが、そこを右折し
て進めば左側に順天堂伊豆長岡病院です。その路を成り行きで進み左側にあるタクシーのり場の前を右折すると、長岡温泉郷が広
がっています。
長岡温泉は、明治になってから発見された比較的新しい温泉郷で、長岡ホテル、南山荘、山田家、八景園、さかなや、小松家八の
坊といった大きなホテルや旅館が並んでいます。このうち南山荘は、敷地8000坪の名松をベースにした小山にかけて段々づくり、
赤じゅうたんを敷いた長い廊下でつながった数寄屋造りの離れの宿泊室(続きの間つき)を配した伝統ある旅館で、明治、大正、
昭和時代には北原白秋を始め文豪、詩人たちがよく泊まったものですが、最近の打ち続くデフレ下の観光産業の競争激化のなか
で、大きく経営方針の転換をはかり、素泊まりと日帰り温泉浴の提供に徹しています。素泊まり宿泊料金は、1人の場合が6,000
円、2人の場合が1人につき5,000円、4人〜5人の場合が1人につき4,500円と安いので、宿泊客のなかには「こんなに安い値
段でこんな立派な部屋に泊まれるとは、間違いではないかと思った」とEメールを入れた人がいるほどです。なお、素泊まり客には
翌朝トーストとコーヒーのサービスが無料で提供されています。日帰り入浴客の入浴料金は1人につき500円と格安で、食べ物の
持ち込み自由です。希望者があれば、食事の出前もとりもってくれます。温泉は四国から取り寄せた青石を配した湯で私もゆっくり
堪能しました。このほか富士見風呂、露天風呂も石風呂とは違った場所にあります。これらの湯は、男女で入浴時間が決まってい
ます。南山荘は、私のおすすめでの湯です。
2004年11月16日更新                                                            

パート-2: 歴史と文教の三島市
パート-3: 伊豆最古の温泉郷修善寺
感想をお願いします。

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