弘法大師が発見した温泉郷・
源氏の悲劇を残す修善寺町

作者 栗田 昭平
 修善寺温泉郷は、1200年前に弘法大師が発見したことで有名です。お湯の性質は良くて湯冷め
がしないといわれています。春は山々の桜、秋は桂川に枝を張り出した真っ赤な紅葉が、真っ赤な橋
々と合わさった絶景をつくりだし、新婚さんも、フルムーンのご夫婦も、海外からの観光客の人びと
も、うっとりした気分へ誘います。
 川端康成の「伊豆の踊り子」のなかで踊り子に初めて出会った橋も、ここ修善寺の湯川橋でした。
 源氏の史跡では、北條氏の謀略で非業の死を遂げた頼朝の長男二代目将軍頼家の墓と、猜疑心の強
い頼朝の命令で梶原景時に急襲され、自刃に追い込まれた頼朝の弟蒲の冠者範頼の自刃の地と墓があ
ります。悲しい物語です。文豪岡本綺堂は頼家の悲劇に深い印象を受け、あの名作「修禅寺物語」を
書き、それが芝居になり、フランスのパリでも演じられました。
 かと思えば、妙国寺という寺には、天下を平定したのちに伊豆を巡察した徳川家康が、韮山代官邸
で妙国寺で与り育てた美女の給仕を受けて即座に彼女を見初め、懇望して側室にした史実が伝わって
います。その女性こそは、のちに紀伊大納言頼宣と、水戸中納言頼房を生み、水戸光圀の祖母となっ
たお萬の方だったのです。
 右手の山へ暫く登ると道路の左手に梅林があります。この梅林は、樹齢30年から100年までの20種
の梅が3000本植え付けられ、2月初めから3月中旬まで咲いています。その間、土産物店や食べ物の店
が出ます。お奨めの食べ物は、特産の「鮎の塩焼き」と炭火で焼いた「椎茸焼き」です。梅林に入ら
ずに道路をまっすぐ奥へ歩くと、親子で楽しめる「虹の郷」があります。
では、温泉の町、夏目漱石や、芥川龍之介、正岡子規、岡本綺堂、川端康成、井上靖、吉田弦ニ郎と
いった文豪たちが、こよなく愛した町、修善寺町へご案内しましょう。


修善寺の地理
 修善寺温泉郷は、伊豆箱根鉄道の終着駅を降りてから歩いて約20分のところから奥へ細長く
横たわ っています(地図をご参照ください)両側には数百メートルの山々が続いています。
修善寺ICのとこ ろが修善寺温泉口で、そこを過ぎると間もなく左側に嵐山が見えてきま
す。この山は頼家が急襲され 非業の死を遂げた後、忠義な13人の家来がこもって戦い、討
ち死にしたという中腹の現場に「十三士 の墓」が立っています

修善寺温泉郷までの地図。伊豆箱根鉄道の終着駅を降り、
狩野川を渡り、温泉郷へと歩いて約30分かかります。

 嵐山の前を過ぎてさらに行くと、左側に修善寺総合会館とその地下に郷土資料館、そして道路
に面して和食レストラン「やくぜんの館」があります。ここで2500円(消費税別)を出して薬膳
黒米コースを注文すれば、黒米を中心とする約十品のおいしい薬膳料理コースを賞味できます
(料理は薬膳神農黒米そば[1500円]から懐石和食薬膳[7000円、夜間のみ]までいろいろあり
ます)。「やくぜんの館」のあたりから温泉街が始まります。まず右側にリゾート・マンション
「セザール」が一体となった「ホテル滝亭」、左側に「ホテル桂川」があります。私ども夫婦は、
よく滝亭で1000円を払い、温泉に入りますが、湯冷めがしないいい湯です。温泉を飲むこともで
きます。郷土資料館の入場料は、成人が300円です。
 滝亭を過ぎてしばらく行くと、左側においしいことで有名な「禅寺そば」と「とっこそば」が
並んでいます。ここで出される料理は、そばオンリーですが、昼前後にはいつも行列ができます。
 さらに歩くとバスの終点「修善寺温泉駅」が右側にあり、左側にホテル、旅館群が続き始め、
桂川が流れています。さらに進むと右側は日枝神社、温泉郷の中心部へと続きます。中心部には
弘法大師が開いた「修禅寺」がドッシリした姿を現します。川の橋を渡って山の方へ上がってい
くと、ほどなく北條政子が我が子頼家を弔うために建てた経堂の「指月殿」と頼家の墓がありま
す。
 修禅寺正門から川に沿って1分歩くと、川の真中にあずまやが建っており、有名な「独鈷の湯」
が湧いています。手を突っ込んでみると、40数度はあるでしょうか、かなり熱く感じます。独鈷
の湯の前には、文豪たちがよく泊まったという新井旅館があり、昔の姿のままの建物は重要文化
財に指定されています。
 私が描いた地図には出ていませんが、新井旅館の対岸には竹林の遊歩道、その遊歩道を歩いて
新井旅館側へ橋を渡った先には赤蛙公園があります。その公園のあたりから右側へ山を少し入っ
たところに源範頼の墓がぽつんと立っています。夏目漱石はここを訪れたとき、「範頼の墓濡る
るらん秋の雨」という句を残しています。
 以上が修善寺温泉郷の地理のあらましですが、これ以外の大きな史跡には、水上の能舞台が
あることで有名な「あさば旅館」と、あさば旅館の先を左手に約7キロ山へ入ったところにあ
る正覚院があります。正覚院は奥の院と呼ばれ、弘法大師が修行をしたところのひとつです。
では、修善寺温泉郷の史跡をご案内しましょう。


頼家を祭った愛童将軍地蔵尊

里の子供を集め、月見をしながら鎌倉の我が子を想う

  さて修善寺駅を降りて狩野川にかかっている赤色の修善寺橋を渡ると右側のたもとに源氏二代
将軍頼家を祭った人間の丈より高い愛童将軍地蔵が、赤縞の正ちゃん帽に赤エプロンのかわらし
い6体の童地蔵を従えて立っています(これらの童地蔵は、時々違った色の帽子に着せ替えられ
ます)(写真1)。ところが、次のように驚くべき史実が書いてあるのに、ほとんどの人は気が
つかずに通りすぎてしまうのは、淋しいことです。立て札には、こう由来が書かれています。立
て札というものにはときどき誤字がありますが、以下はすべて書いてあるままにしておきます。

頼家を祀った愛童地蔵尊
伊豆に旗挙げして伊豆を舞台に滅びゆく源氏の運命や実に哀れ

頼朝は父義朝の鬱憤をはらし、源氏再興の偉業を成し遂げ、武勲を耀かしたる義経、範頼の兄弟を梶
原など北條方のざん言により討ち滅ぼし寂身の味方を失った。頼朝は気が狂いしか、血迷いしか、本
心とは思われず、時は建久九年十二月、相模川の橋供養に騎馬にて式場に行く帰途、稲村ヶ崎で弟達
や安徳天皇の亡霊が目の前に現れ、落馬したのがもとで翌年正治元年正月十三日、約五十三才にて逝
去し給う。
 頼朝の急死により、鎌倉の政権は時政親子の手中に落入り、政子は尼将軍となり、二代将軍頼家は
伊豆修善寺に幽閉され、鎌倉の山之内庄の比企判官能貞の館に同居中の頼家の妻若狭の局、長子一幡
など父能貞一族と共に、北條方の焼き討ちに会い、焼死又は自殺され、その後源家の大忠臣畠山重忠
を鎌倉の一大事と称して、おびき寄せ途中に待ち伏せして、殺害し尚三代将軍の実朝を鶴ヶ岡八幡宮
の大銀杏の木陰にて公暁に刺し殺させ、公暁は直ちに捕まへられて殺害された。これみな肝知に猛け
た北條時政の計略である。

(源氏一族の滅亡を計る)
 畠山重忠を殺して、身内の足利義純を重忠の妻と再婚させ、畠山家を乗っ取らせたのは、時政の後
妻の牧の方で、重忠の牧の方のつれ娘であった。それから五代目が修善寺城に立てこもり、足利基氏
に矢を向けたのは、畠山清道誓である。
(範頼の館が埼玉県吉見の里に現存する)
                        作  山口友作

横瀬愛童将軍地蔵

鬼よりもなお残酷たり鎌倉執権時政は孫の頼家将軍を伊豆修善寺の山の家に出家となして押し込め たり。 子煩悩なる頼家卿、鎌倉表に残したる愛児 のことを夢に見つつ里の童を集めては、いたわ りかしづき、たまいける。童も卿に慕いつつ横瀬の山に御供し、狩野の流れに浮ぶ月を眺めて憂きを 晴らしている頃は、元久元年の時しも七月中八日すだく虫の音はたと止む。すは鎌倉の討手ぞと思ふ 間もなく頼家御裸身のままにくくられて、二十三才一期となし無惨の最後を遂げ給う。 如何に武運が尽きたとて二代将軍頼家卿斬りきざまれし御姿、人の見る目も哀れなり。 里人これを聞き伝え、怒りを呑んで浄財を集め、石の地蔵尊由縁も深き狩野川の月見ヶ丘に安置され、 行き交う人の守りにも子供の幸願うと、叶えて下さる御佛に    嗚呼幾く年の星霜も   将軍地蔵は日本一   横瀬に残る御佛の   功徳の程こそ尊けれ

  ローマ帝国が1200年の長きにわたって続いた理由は、秀れた組織力、秀れた土木建築技術、四方発
達の道路建設にあることもさることながら、ローマ人が征服した国々の人々を能力に応じて重用し、
時には征服地から連れてきた奴隷や剣闘士でさえを貴族に取りたて、国政に与らせたことが大きいと
いわれます。それにくらべて猜疑心の異常に強かった頼朝はどうでしょう。平家との戦で数々の勲功
をたてた腹違いとはいえ実の弟の範頼と義経を、本人たちの懸命の否定にもかかわらず、梶原景時や
奥羽の藤原氏に命じて急襲させ、殺害してしまったのです。もし頼朝に弟たちを国政の要に配置する
包容力があったなら、源氏再興後わずか27年にして滅亡するような悲劇はなかったでしょう。頼朝は、
心は冷たいながら源氏の嫡子であると同時に、偉丈夫風の人間だったのでしょうか?三嶋大社に残っ
ている昔の絵画には堂々たる体躯と顔つきに描かれています。
 哀れ長子の頼家は、頼朝の死後源氏二代目将軍に就任してからわずか4年にして、鬼の心を持った
母方の祖父時政の謀略のために入浴中を急襲され、23歳の非業の最後を遂げたのでした。次いで次
男の実朝が三代目将軍に就きました。時政は頼家の子(次男)公尭(くぎょう)に、「父頼家を殺し
たのは実朝だ」と嘘を告げ、暗殺をするようそそのかし、まんまとその手にのった公尭は、実朝が鎌
倉鶴岡八幡宮に参拝する途中、階段の半ばに立っている銀杏の木の陰からツツッツと飛び出し刺し殺
してしまいました。公尭はその場で捕らえられ処刑されたのです。私は、中学時代の歴史の授業でこ
のように習ったことを覚えています。この銀杏の木は大銀杏となって今も鎌倉八幡宮の参道の階段脇
にそびえたっています。そのそばを通ると、ときにはリスが枝枝を飛びまわっているのを見ることが
できます。
 由緒ある史跡であるにもかかわらず、滅多に人影を見ない横瀬の八幡神社は、修善寺温泉郷へ向か
う路の入口の右側にひっそりと立っていて(写真2)社殿の前には次の箱のなかのような説明を書い
た二つの立て札が立っています。
ところで、愛童地蔵尊と八幡神社を守っておられる地元横瀬の人びとによって毎年8月25日に「横瀬地
蔵祭典」が催されていますが、2002年には新しい企画として狩野川での「灯籠流し」が催されました。
8月25日(日曜)5時から8時半ごろにかけて、灯籠流しのほか、子供すもう(賞品多数)、輪投げ、ヨー
ヨー釣りが行われました。また、毎年行われる、老人会による名物力団子(力がついてすもうに勝てる
といわれます)や、各種屋台、居酒屋も出ましたし、横瀬区の盆踊りも催されました。夜の狩野川の水面
を流れる灯篭流しの風情を楽しんだ人々にとっては、夏休みの楽しい想い出になったことでしょう。

 狩野川は日本全国でも名だたる鮎釣りの名所です。とくに修善寺橋と愛童地蔵尊のあたりは、シー
ズンになると10人前後の太公望が急な瀬に腰までつかりながらトモ釣りに我を忘れているのを見かけ
ます。
八 幡 神 社
  当社は、旧修善寺村の氏神として古来より厚く尊崇されている神社で、相殿は鎌倉二代将軍頼家公
である。当所はここより二百メートル東側の月見ヶ丘に在り、ニ体の古像が祀られた旧祠であったが、
後に当所へ社殿を建立し、頼家公束帯(正装)の立像を作り、神を引いて頼家公の廟(みたまや)と
し、八幡と称した。社殿は現在も両扉となっており旧規を残している。右側の本社には、頼家公の母
北條政子悪病平癒の伝説をもつ「孔門石」又は「玉門石」と呼ばれる陰石が祀られている。昔修禅寺
の総門が当地横瀬の大門(字名)これより三百メートル下がった付近にあった時代に仁王像があった
が、総門がこわれてしまった(徳川時代)に当社に移され、さらにある老婆の夢枕にこの仁王像が現
れて、修禅寺に帰りたいと云うので、頼家公にゆかりのある指月殿に納めたという。この指月殿は、
政子が非業の最後を遂げた、我が子の冥福を祈って建立したものである。
  祭礼日は毎年十月十九日となっているが、最近は近くの日曜日に行なわれる。
又昭和五十年迄は三番叟が奉納されていたが、現在は後継者が少なく、行なわれていない。

月見ヶ丘愛童将軍地蔵尊

  ここより二百メートル下がった狩野川沿いに月見ヶ丘と呼ばれる丘がある。 この丘は、建仁二年
(一二〇三年)に鎌倉幕府二代将軍源頼家公が、北條氏の政略により修善寺に 幽閉されていた時、
幽棲の寂しさを慰める為いつもここで月を眺めては鎌倉を偲び、この里子達と遊 んでは我が子を思
ったという。 丘の上のわずかな平地は、八幡神祠と保倉神の小さな石の祠が今に残っている。又丘
の中腹には非業の最後を遂げた頼家公の冥福を祈り、里人による愛童将軍地蔵と名付けられた笠冠地
蔵が建立されていたが、昭和三十六年の道路拡巾工事により月見ヶ丘が削られて修善寺際に移転され
た。 地蔵尊の縁日は八月二十四日で、この日は地元老人クラブにより祭礼が催され、参拝者には、
家内安全のお礼と手づくりのだんごが渡される。 又近くの広場では子供角力大会や盆踊り大会も開
催される。


写真2 横瀬にひっそり佇む横瀬八幡
神社。昔はこのあたりが修禅寺の山門
で、今は指月殿の堂内に安置されてい
る仁王像左右二体が立っていたといわ
れます。

この立て札に書いてある仁王像は、今は指月殿の中の菩薩像の前の左右に安置されていて、参拝者を
睥睨しながら立っています。今は後継者が少ないので祭礼のときに舞われていたという三番叟の衣装
は、郷土資料館に陳列されています


家康が見初めた側室お萬の方が育った妙国寺

修善寺橋を渡らずに、修善寺駅から左へ曲がる路を行き、大見川にかかっている橋を渡り、まっすぐ進むと間
もなく妙国寺があります。この寺は、徳川家康が中伊豆一円を巡察し、韮山の江川邸に泊まったとき、給仕を
つとめた若くて美しい少女で、後に家康の側室になったお萬の方が住職に育てられた寺です(写真3)。
山門の入口に石碑が立っていて、次のようにその由来が彫ってあります。

賀殿大黒天由来
  当山安置の賀殿大黒天は養珠院お萬様開運出世祈願の秘佛として古来より厚く尊崇せらる。お萬様
は房州勝浦の城主正木家の息女として生まれしも、ニ才の折正木家没落のため母に抱かれ難を避けて
当地の領主蔭山家に身を寄せ後に故あって当山にあづけられて生育せらる。十七才の時徳川家康公伊
豆巡視に当り韮山代官江川家滞在の砌り選ばれて給仕に上がり家康公の懇望によりその室となり後年
紀伊大納言頼宣、水戸中納言頼房両公の生母として希有の出世を遂げらる。又その生育期の環境によ
り熱烈な法華経信者として知られ特に成長期に賀殿大黒天に開運出世の祈願をこめられ後年の福運は
大黒天の御加護によるものとし報恩感謝の念と万人の福運享受の願をこめ、祈願佛として大黒天を彫
ませ当山に献納せらる。当山現存の大黒天はその秘佛である。

   昭和五十二年一月吉辰建之


写真3 徳川家康が伊豆を巡察し、韮山の江川邸に泊まったときに給仕をして
見初められ、のちに家康の側室に迎えられたお萬の方が育った寺です。お萬
の方は、紀伊大納言頼宣と水戸中納言頼房の生母、水戸光圀の祖母となりま
した。

  そのお萬の方が尊崇したという大黒天を祭る小さな堂が山門を入るとすぐ左に立っていて、人々は
今でもそれをまともに見ることができます。お萬の方が、後に三島の妙法華寺を玉沢に移し、日蓮宗
を尊崇したこと、お萬の方の墓があることは、パート2「富士山の恵み・歴史の街三島」でご紹介し
ました。
  さらに妙国寺には修善寺町指定天然記念物のカヤ(イチイ科)の大樹(根廻り6.4m、樹高15m、
枝張り東6.75m、西4.95m、南10.6m、北6.8m)が立っています。「保存は良好であり、境内の景
観によく調和している。毎年秋には実が緑雨のごとく降りしきる。樹齢はおよそ700年から800
年の大樹である」と、修善寺町教育委員会は立て札に説明しています。


川端康成が伊豆の踊り子たちに初めて出合った湯川橋
  修善寺橋を渡って八幡神社の前をまっすぐ行かずに左へ曲がると間もなく狩野川へ注ぐ桂川
があり、そこに川端康成がノーベル文学賞を受賞するきっかけとなった小説「伊豆の踊り子」
のなかで初めて踊り子たちに出会ったという湯川橋がかかっています。しかし、この橋は、
いまはなんの変哲もない橋で、次のような小さな立て札がたっているだけです。

川端康成伊豆の踊り子ゆかりの湯川橋

  一高のォ生活になじめず、また少年時代が残した病気が気になり、川端康成は、一人伊豆
へ旅(大正七年)に出、旅芸人達と出会った。この一行と道連れになったことなどの体験は
後に「伊豆の踊り子」(大正十五年)として著された。小説の中で、この湯川橋は次のよう
な場面に登場している。
  修善寺温泉に一泊、湯ヶ島温泉に二泊して、四日目に天城峠の茶屋で旅芸人一行と出会う
が、「私はそれまでにこの踊り子たちを、二度見ているのだった。最初は私が湯ヶ島に来る
途中修善寺へ行く彼女たちと湯川橋の近くで出会った。その時は若い女が三人だったが、踊
り子は太鼓を提げていた。  私は振り返り振り返り眺めて旅情が自分の身についたと思った」

  踊り子街道を下田方面へ行かずに、いまは廃舎となっているNTTの前を通りぬけて修善寺
ICにさしかかった高架道の下の路傍には3体の小地蔵が立っていて、道路を渡った向こう側
には修善寺温泉入口と書いた高さ3メートルほどの灯篭様の木造建築物が立っています。そこ
を過ぎるとやがて行く手に白亜の修善寺ハリストス正教会の尖塔の美しさが目をひきます。そ
の前に建っている黄土色の大きな建物は、ホテル桂川です。
  修善寺町教育委員会発行(昭和63年3月31日発行)の「修善寺町の文化財」によれば、修善
寺ハリストス正教会は木造の明治洋風建築の美しさをよく残し、「内部の聖所や至聖所を境
とする見事な聖障や各種器物は、日露戦争の時旅順の聖堂にあったものを移転し、そのまま
使用している」ということです。

源範頼の幽閉の地の跡、今は日枝神社

 日枝神社は源範頼が幽閉されていた信功院(修禅寺の八つの子院のひとつ)の跡地に建っています。
境内に立っている小さな立て札には、こう書いてあります。

信功院跡

修禅寺八塔司の一つ信功院のあった所です。源範頼は兄頼朝の誤解に依りこの信功院に
幽閉されました。建久五年(一一九四年)梶原景時五百騎不意打ちに会い範頼は防戦の
末自害しました。信功院は後に庚申堂となり今は庚申塔一基が残っています。

  
それは建久4年5月28日のことでした。頼朝は富士の裾野で巻狩を催しました。ちょうど
その折、曽我五郎、十郎兄弟は父の仇工藤祐経を討ち取って本懐を遂げたまでは歴史上よく
知られているのですが、そのあとのことは余り知られていません。二人は頼朝の幕営を襲い、
乱闘の末十郎は討ち死にし、五郎は捕らえられ翌日処刑されたのです。なぜ彼らが頼朝の幕
営を襲ったのか、その理由は謎のままで、いまだにわかりません。奸知に長けた北條時政が
仕組んだのではないか?という見方もあります。
 この事件は直ちに鎌倉に伝わり、尾ひれがついて頼朝が殺されたというデマが鎌倉中をか
けめぐりました。留守居役をつとめていた範頼は悲嘆にくれる頼朝の妻政子に、「姉上ご心
配なさるな。私がおそばについておりますから」と言って慰めました。この一言が悲劇の始
まりでした。猜疑心の異常に強い頼朝は、これを政子から聞くと範頼を呼び、謀反の心があ
り、自分から将軍職を奪おうと思い、仇討ちを利用して曽我兄弟に自分を襲わせたのではな
いかと問い詰めたのでした。範頼は懸命に私心のないことを弁明したのですが、頼朝の猜疑
心を晴らすことはできませんでした。4年前に頼朝が義経追討を命じたとき、範頼が弟を討
つことはできないと従わなかったことも頼朝が範頼を憎んだ遠因でした。運の悪いときは悪
いことが重なるもので、なぜそんなことをしたのかわからないのですが、範頼の家人で武勇
にすぐれた当麻太郎が、頼朝の寝所の縁の下に忍び込んで捕らえられたのです。こうして範
頼は翌年に修善寺の信功院に幽閉されたのです。それからあとはこの立て札に書かれている
とおりです。
 日枝神社は修禅寺の鬼門に当り、弘法大師が建立したといわれます。境内には杉、欅、槙
の大樹が聳えているほか、伊豆には珍しい根回り5.5メートル、樹高25メートルのいち
い樫(九州に多く生えている木です)の巨木が聳えています。
 桂川の河畔の赤蛙公園から右手に道路を越えて山のほうへ少し上がったところに範頼の墓
はひとつ淋しく立っています。
北條政子が我が子頼家を弔った指月殿

温泉郷の中心にある修禅寺の前の虎渓橋を渡って左手の山のほうへ歩を進めると間もなく道
の左側 に「指月荘」という旅館があり、「入浴だけもできます」と書いてあります。入浴だけの料
金は 500円と書いてあります。そこ通りすぎると間もなく伊豆最古の木造建築「指月殿」 (写
真4、5、6)
の正面に出ます。指月殿の前の立て札 には、こう説明してあります。


指月殿

この指月殿は、鎌倉時代に尼将軍と呼ばれた北條政子が、政争の犠牲となった実子であ
る二代将軍頼 家の菩提所として建立したもので、伊豆最古の木造建築といわれておりま
す。  指月とは経典を意味し、かつては鎌倉から送られてきた数千巻にも及ぶ宋版大蔵
経を収める経堂でしたが、経本は散失し、わずかに「放光般若波羅密経・巻第二十三」だ
けが、静岡県指定文化財として、本寺の修禅寺宝物館に残っております。
 本尊の釈迦如来坐像は、スギなどの寄木造りで、高さ二〇三センチ、この種の像として
は伊豆最大で、鎌倉時代の作、ハスの花を持った禅宗式というめずらしい形をしているた
め静岡県指定文化財となっております。
 阿 二体の仁王像は本尊よりさらに古く、藤原時代の作、かつての修禅寺境内は広大で
あり、当時は横瀬にあった寺門で入口を守っていたといわれ、本尊ともども非常に貴重な
三体は昭和五十七年より二年の歳月をかけ、大修復が行なわれました。
 扁額「指月殿」は、元の名僧、一山一寧(いっさんいちねい)の書といわれますが、これ
は複製で、実物は修禅寺本堂に保存されています。


写真4 
北条政子がわが子源頼家を弔うために建立した
指月殿が階段上の正面に建っています。伊豆最
古の木造建築です。
写真5 
指月殿の本尊「釈迦如来坐像。
鎌倉時代の作。

 
写真6
昔は横瀬八幡神社の山門にあったという左右二体
の仁王像の左側の像。鎌倉時代の作という本尊よ
りもっと古い藤原時代の作。


指月殿は、道路の反対側の正面の修禅寺にくらべると古くて荒削りで、質素なものです。
立て札のとおり、指月とはお経のことで、お経の蔵を意味し、非業の死を遂げた我が子
源頼家の冥福を祈って、彼の墓のすぐ横に建てたものといわれます。墓は「修禅寺物語」
を書いた岡本綺堂が明治41年にここを訪れたとき、小さな堂のなかに立っていまし
た。ところが、それから10年後に岡本綺堂がここを再訪したときは、「堂はいつ間ま
にか拂はれてしまって」、「なんの掩ひもない古い墓は新しい大きい石に囲まれてい
た」と描写されるように変わっていました。現在はこの状態がもの古りたと見ればい
いでしょうか。修禅寺の宝物館には作者不明の頼家の面と伝えられる技楽面がありま
すが、これは頼家が何者かに毒を盛られて顔がこのようにむくんだ様子を母政子に見
せるために作らせたという話があります。綺堂は、この面と墓を見たとき頼家の悲劇
に心を動かされ、「修禅寺物語」を書くことを思い立ったのでした。墓は写真7のよ
う階段の上に立っていて、階段の下には立て札が立っており、次のように書いてあり
ます。

源頼家の墓
 
正治元年(一一九九年)に父頼朝の後を継いで十八才で鎌倉幕府の二代将軍となっ
た頼家は、父の没 後に専横になった北條氏を押さえて幕府の基礎作りに懸命であっ
たが、大きくゆれ動く時流と、みに くいかけひきに終始する政争に敗れ、在位わずか
六年で、この修善寺に流され、元久元年(一二〇四年)北條時政の手で入浴中に暗
殺された(享年二十三才)。
 「修禅寺物語」は、こうした政治的背景の上に配所の若き将軍頼家と、面作り師夜
叉王を中心に、それにまつわるロマンスを綴ったものである。
 この碑は、元禄一六年頼家の五百回忌に当って、時の修禅寺住職筏山智船和尚
建てた供養碑であって、墓はその裏側に小さな五輪石塔が、2基が残されているの
がそれである。



写真 7
二代目将軍頼家の墓の前に立つ説明
板。 



九つの外湯のひとつ「筥湯」を再現

指月殿まで行かない桂川の同じ左岸には2年ほど前に復元しオープンされた「筥湯」
(はこゆ) (写真8) があります。この温泉は町営で、入浴料は350円です。入口
には縦長長方形の立派な板にその 由来が次のように書いてあります。

筥湯(はこゆ)の由来
伊豆最古の温泉場として栄えてきた修善寺には、かつて川原沿いに九つの外湯が
ありそれぞれ浴客で賑わっておりました。しかし昭和二十年代には「独鈷(とっ
こ)の湯」だけが残って往時を偲ばせるのみとなってしまい、再び外湯巡りを楽
しんでいただくため、平成十二年二月に再建したのが筥湯です。
鎌倉幕府の公的な史書である「吾妻鏡」などによりますと、元久元年七月十八日
のこと、修禅寺へ幽閉中の源氏二代将軍頼家は北條氏の刺客に襲われますが、記
述内容から入浴中であったとの定説になっております。かつてこの付近にあった
旧「筥湯」跡を旅館新築の基礎工事のため掘ったところ古い湯殿跡が発見され頼
家入浴の温泉ではないかといわれております。筥湯の語源はわかっておりません
が、筥とは竹などで編んだ丸い米盛り器のことで「箱湯」との記載例もあります。
また修禅寺宝物館所蔵の江戸時代の古絵図によりますと、虎渓橋のたもとに「中
の湯」があり「此處頼家公御入浴之地也」と書かれてあるところから筥湯の旧名
であり先に発掘された湯殿である可能性もあります。


写真8
再現された外湯の
「はこ湯」。町営で
入浴できます。

     

 頼家は、頼朝の落馬とそれに続く病による急死のため、正治元年(1199年)に
若干18歳にして、鎌倉幕府二代目将軍に就任しました。北條氏が政権を簒奪した
のちに鎌倉幕府が自ら編纂した吾妻鏡には、頼家が無能であったので、13人の御
家人衆からなる議決機関を編成して政治を行なったと書いてありますが、いつの時
代でも政府自身が編纂した史書は自分に都合いいように書くのが普通ですから、
100パーセント信じることはできません。割り引いて考えなくてはなりません。
頼家の弟実朝は、三代目将軍に就いたとはいえ、実権を持たない将軍でしたから
幼少のときからの生育環境のなかで文学少年から青年へと成長し、類希な歌人と
なり、美しくも何か悲愴な感じが漂う秀歌を残しています。
 「桜花散らまく惜しみうちひさす宮路の人ぞまとゐせりけり」
  「いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる」

2003年7月17日は、源頼家公の没後800年目に当た
ります。修善寺町では19日(土曜日)に八百年祭を催
し、修禅寺から十三士の墓、指月殿、頼家公の墓へ
と行列をし、頼家公の冥福を祈りました。写真は、修
禅寺本堂前を出発するべく勢ぞろいしたところ。中央
の凛々しい武者が頼家公に扮したボランテイア。横
の翁は夜叉王。町長が自ら夜叉王を買って出ました。
  2003年7月19日は、頼家が非業の最期を遂げてからちょうど800年になるので、
同日、「源頼家公八百年祭」が修善寺観光協会・修善寺温泉旅館協同組合、・修
禅寺他の共催で次の多彩な催しが行われました。
1.行列……午後1時45分出発。修禅寺−十三士の墓−指月殿・源頼家の墓。
2.桂遊縁日(けいゆうえんにち)午後1時〜午後9時30分。桂遊通り/独鈷の湯。
3.野外イベント……午後4時〜5時。出演/ミニコンサート−古川結香(修善寺
 町出身)◇よさこいソーラン−修善寺小学校児童◇よさこいソーラン鳴子踊り
 −ぬまづ熱風舞人。
4.語り……古屋和子。午後7時〜8時、場所修禅寺本堂。
5.大道芸の出演。
 私は、これらの行事のすべてを参観し、聴き入りましたが、歴史の香の高い良い行事で
した。古屋和子さんの岡本綺堂作「修善寺物語」の語りは、真に迫る気迫のこもる名人芸
でした。その語りの最後のところに頼家が襲われる場面が出てきますが、北条時政派遣
の数人の暗殺吏たちが頼家の気迫に呑まれていったんひきさがり、後日入浴中を襲った
くだりが出てきます。頼家が、古今希に見る武芸の達人であったことは、ほとんどつたえら
れていませんが、頼家の太刀を恐れて彼らは卑怯にも入浴中の頼家を襲ったのでしょう。
修善寺の歴史は、日本の歴史を大きく変えた節目の一つと言えるでしょう。この歴史を
800年に一度しかお祭り行事としてやらないのは実に惜しい気がします。源頼家公の人と
なりをPRし、非業の死を悼むお祭りは八幡神社、愛童将軍地蔵と合わせて毎年盛大に
行ったら多くの人々が集まるだろうにと思うのは筆者だけでしょうか?


弘法大師が発見した独鈷の湯
修善寺温泉は、弘法大師(空海)が発見したのが温泉郷になる発端だったといわれ
ます。あるとき弘法大師が桂川のほとりを歩いていると、川原で孝行息子が病気の
父親の体を川の水で洗っていました。大師は感心して、冷たい水では寒かろうと思
い、修行の道具の独鈷で川底をつついて温泉を湧出させ、入浴させたところ、たち
まち病気が直ったと伝えられています。大師は、そこでここの温泉を「独鈷の湯」
と名づけました。川の真中で涌き出ている独鈷の湯(写真9)は、修善寺温泉最
古の湯といわれます。誰でもその気になれば入浴できるのですが、まる見えです
から入っている人はいなくて、観光のひとつの名所になっています。しかし、数
年まえのことですが、私は夏のある日、男子の大学生らしい二人の青年が、ここ
の湯船気持ちよさそうにつかっていたのを見たことがあります。それはごく自然
のほほえましい風景でした。

写真9 弘法大師が発見
     した独鈷の湯。川
     の中の吾妻屋がそ
     れです。

弘法大師を開基とする修禅寺

修禅寺の宝物館(入場料300円)のチケットには同寺の宝物のひとつとして、
出土した平安期の密教具 「金銅製独鈷杵(とっこしょ)」、福の神「大黒天」、
岡本綺堂作の「修禅寺物語」の題材になった 古面の写真が印刷してあり、
裏面には修禅寺の由来を次のように説明してあります


修禅寺沿革

この寺は大同2年(807年)に弘法大師がお開きになり、約470年間ばかりは真言宗
に属し、 鎌倉時代建治元年(1275年)に蘭湲禅師がスパイの疑いで、ここに軟禁され
てから後、220年 近くは臨済宗に属し、その間畠山国清の謀叛で戦禍を蒙り、応永9
年(1407)には大火災で伽藍 は全焼し、往年の影さえなくなりました。 たまたま韮山
の城主となった北條早雲がこのありさまを見て名利再建の大願を発し、莫大な寺領を
寄 進して、延徳元年(1489)に遠州石雲院から叔父の隆湲禅師を開山として迎えて
からは曹洞宗に 属し、500年を経過している。


写真10
弘法大師の開基に成る修善寺温泉郷の
中心にある修禅寺。


写真11
修禅寺正門前からは
名物のひとつで、外人
さんが珍しがる人力車
が出ます。
毎年11月7日から8日まで3日間をかけ、修善寺町付近の霊所88ヵ所巡りを主催して
いて、大勢の老若男女が参加します。大勢なため、4班ぐらいに分かれ、各班には修禅寺
の一人の高位のお坊さんと二人の若いお坊さんが付き添って、参加者を引率してくれます。
88ヵ所全部の霊所まえで「般若心経」を唱えるのですから、大変な修行になり、参加者
は心が洗われるばかりでなく、いい健康法になるわけです。参加者は、旅館やホテルに割
引料金で宿泊することもできますし、毎日自宅へ帰って翌朝参集することもできます。毎
日、夕刻に巡礼が終わると、チケットによって協賛の旅館とホテルの温泉に無料で入るこ
とができます。
 修善寺の歴史を書いた本には、小林豊著「修善寺の歴史」、長倉書店発行、1500円があ
ります。修禅寺で買うことができます。 これでパート3を終わります。これからパート
4「その他のみどころ」を書き、でき次第このホームページにのせます。英語版はPrelude
(序論)とPart1: Mishima City; Benfations by Mt.Fuji and Prosperous City Since
One Thousand Several Hundred Years Ago (パート1:富士山の恵み・千数百年前から
栄えている三島)をオープンし、現在、Part 2:Shuzenji Town; Excellent Hot Spring
Place Discovered by Ancient Buddhist Priest Kuhkai, and Leaves Tragidy of The
Ruin of Genji Clan (パート2: 修善寺町:古代仏教僧空海が発見した名温泉郷・源氏滅亡
の悲劇を残す)を書いておりますが、ほぼ完成しているので7月にはオープンし、あとを書き
足してきました。それも9月19日までには完結させます。
(2004年11月16日)
パート-1: 韮山から長岡まで
パート-2: 歴史と文教の三島市
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