(宮城教育大学大学院教育学研究科・修士論文)
スポーツを媒介にした 「地域リアリティー」形成についての一考察

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第5章   地元プロサッカークラブの経営危機とその再建

   1999年11月23日、清水エスパルスは、Jリーグ 横浜Fマリノス戦に2対1で勝利し、Jリーグ第2ステージの初優勝を飾った。試合が行われた横浜国際総合競技場の観客数は44,028人であったが、そのうちの実に2万人以上がエスパルスサポーターであったと伝えられている。また、試合が終わったその夜、新幹線が到着するJR静岡駅ではエスパルスの優勝報告会が予定されていたが、選手が到着した午後8時40分には、駅構内に、清水市民をはじめ1,000人以上が集まった。これは、クラブ側が事前に駅に報告していた予定数の倍であった。

   この日は清水市民にとって忘れられない1日となった。Jリーグのスタート以来、日本最高峰のプロサッカーにおけるエスパルスの優勝は、市民の悲願となっていたが、今回の優勝の喜びは、悲願の達成というだけの喜びではなかった。

   清水市民の期待を受け、1993年開幕のJリーグに参加した清水エスパルスは、1997年、20億円を越える運営会社の累積赤字により、消滅の危機に立たされた。エスパルスの経営危機は、その他のプロサッカークラブに大きな衝撃を与え、ほとんどのクラブが累積赤字を抱える経営状況が明るみに出た。「市民球団」と言われていたエスパルスが危機を迎えたことで、企業スポーツからの脱却を目指したJリーグの理念や、日本における地域スポーツの進展が決して容易ではないことが図らずも浮き彫りとなった。

   だが、一連の危機は運営会社の再出発と、多くの市民による支援活動によって、ひとまず回避された。エスパルスが迎えた危機は、「サッカーのまち」が自明となりルーティーン化していた清水市民の意識に一石を投じ、市民にとってのサッカーの価値を問いなおす契機となったのである。本章では、清水の競技サッカーの頂点であり、市民の新たなシンボルになりつつあるプロサッカーチーム清水エスパルスと街の関係について、経営再建の過程に注目しながら考察する。


   市民球団エスパルスの誕生と経営危機


   1990年6月5日、清水エスパルスの誕生母体である「清水クラブ」が、当時静岡県2部リーグの清水FCチームの母体として、Jリーグ参加意志の確認書をリーグへ提出した。それまでのJSL(日本サッカーリーグ)で実績を上げてきた実業団チームを母体に、世界的企業を親会社に持つクラブが数多く名乗りをあげた中で、清水は唯一親会社を持たず、チームの実力や法人の経営基盤が未知数であったにもかかわらず、「市民球団」を強くアピールし、Jリーグの掲げる「地域密着」型クラブの理念を実現する可能性の高さを評価され、同じ静岡県から参入を表明し、リーグ、天皇杯の優勝実績を持っていたヤマハを追い越して、1991年にJリーグ参入を認められた。

   清水エスパルスは1991年5月1日に運営法人「エスラップ・コミュニケーションズ(以下エスラップ)」の設立によりクラブとして正式に設立された。クラブの創設時には、全国の有力チームに所属していた清水出身の選手がUターンして加入し、また地元の高校出身の新人選手が入団した。サッカーどころとして知られていた清水のプロチームとして、地元で育った選手を数多く擁したチームづくりは、「市民球団エスパルス」を内外に強くアピールすることとなった。

   「エスラップ」はテレビ静岡を発起人に、静岡銀行、静岡鉄道、鈴与、清水銀行、はごろもフーズなど地元企業や、テレビ静岡の系列局であるフジテレビジョン、関西テレビ放送など、一般法人株主 153社と、プロサッカー市民持株会の出資によって設立された。2千人あまりから成る市民持株会もまた、「市民球団エスパルス」の象徴とされた。市民株主会は「エスラップ」が発行する株式の23.6%を所有し、クラブの筆頭株主となった時期もあった。

   だが1997年、「エスラップ」の21億円の負債による経営危機が表面化し、清水エスパルスは解散の危機に陥った。市民の間にはクラブ存続のための運動機運が高まり、31万人以上の署名と1500万円の募金が集まった。そのような多くの人々の熱意を受け、清水に本社を置く企業がエスパルス支援を表明し、1998年2月1日、地元の多数有力企業の資本参加によって、新運営会社「株式会社エスパルス」が営業を開始した。

   「エスラップ」経営危機の背景

   「エスラップ」は経営危機が表面化した1997年11月以前から、「放漫経営」との評価をされていた。その問題点は、「はじめに経費ありき」という経営姿勢と、観客動員数見込みの水増しなどに見られる「経営見通しの甘さ」、親会社を持たないために、開幕当時の選手獲得や施設整備などの過大な初期投資を埋める事が出来なかった運営の在り方に集約される。

   「エスラップ」が経営危機を迎えた当時、Jリーグの多くのクラブが、同様に多額の赤字を抱えていた。1993年Jリーグ開幕当時、日本国内は空前のサッカーブームを迎え、多くの試合で満員の観衆を集めた。「断ることは合ってもお願いすることなどなかった(当時の社員の談話)」ほどのチケットの売れ行きによって、各運営会社は大事な収入源であるチケットの販売やスポンサーへの営業活動に労力を費やさずに済んだが、そのために、健全なクラブ経営のノウハウや営業努力の姿勢が蓄積されず、のちの経営悪化に大きく影響することとなった。

   エスパルスは、地元出身の選手を他チームから呼び寄せるために高額の年俸を支払い、更に、チーム強化のためにブラジル代表やイタリア代表といった「一流の」外国人選手や外国人監督を招聘した。エスパルスは、開幕当時からリーグ戦の優勝を争うような成績を上げたが、チームは最も多い時で42人の選手を抱え、しかも外国人選手を頻繁に入れ替えた。それは、まず使うだけ経費を支出し、あとで赤字分を補填するという経営姿勢にてもたらされた。

   観客動員が減少に転じた1995年以降は、経営状況に見合わない新戦力獲得の支出や選手の人件費が、年間数億円規模の赤字となって表れた。しかも、経営規模の見込みも甘いものであった。一試合平均の観客動員数は96年には1万3千人に、97年には、1万人に落ち込んだ。にもかかわらず収入を左右する入場者数見込みを、実態以上に多く見込んだために、急速に経営状況は悪化した。


   「市民球団」消滅の危機


   1997年には他のクラブに先んじてチームおよび運営会社の人員整理を行なった。所属選手は23人とJリーグでもっとも少ない数となり、選手の年俸総額も6億円を下回るまでに抑えられた。だが、それでも経営状況は好転しなかった。同年夏には選手・社員に対する給料の未払いにまで事態は悪化した。一方で、エスラップの社員たちは自ら経営姿勢を改め、積極的な営業努力を行なおうともした。1997年当時、「エスラップ」の社員は次のように話している。

   「総務課に4人いるのだが、彼らに外回りを許し、チケット売りや、カレンダーのセールスなどをして良いことにしている。むしろ、積極的に外に行かせているといったほうがいいかもしれない。選手は、プレーの善し悪しでチームを売り込むし、社員もチケットなどを売り込んで営業をしていくもの。ならば、その中で総務だけがデスクに座りっぱなしでいいのかといえばそうではないと思う。総務もデスクワークだけでは駄目だ。<中略>会社の経営難という状況を目の前にして、無力感というか、自分の力の無さを知る。今回の経営難というのは会社(自体)の責任なのだけれど、もう、会社内ではどうしようもない状態にある。どうにかしたいと本当に思っているのだけれど、どうしようもない、どうにもならない、そういうジレンマがある。」
(小澤和明『地域社会とスポーツ』、1998)

   1997年11月にはそれまで実質的な運営主体企業であったテレビ静岡が、運営からの撤退を表明し、しかも新しい運営主体企業の獲得は一向に進まなかったために、エスパルスは解散の危機に立たされた。


   地元資本による「エスパルス」再建


   エスパルスの新しい運営主体企業が一向に現れない状況下で、清水市民はさまざまな形でチーム再建への運動を模索した。清水サポーターや市民ばかりでなく、他チームのサポーターも、それぞれのチームの試合会場で署名活動を行った。サポーターたちの自発的な運動はマスコミによって全国に伝えられ、エスパルスの存続を願う声が強まった。

   一連の運動は、市の人口を上回る31万人以上の署名と1500万円の募金という形となって「フォッササッカーのまち清水市民協議会」に集約された。地元企業への働きかけを続けた結果、清水に本社を置く総合商社『鈴与』が市民の熱意に押される形でエスパルスの運営支援に乗り出すこととなった。『鈴与』は地元の有力企業に呼びかけ、共同出資による運営新会社の設立を模索した。

   選手たちもチーム消滅という最悪な状況すら迎えようとしていた中でエスパルスへの残留の意思を示し、結果的にはほとんどの選手が残留した。選手たちに残留を決意させた内的な要因として、当時チームを指揮していたアルゼンチン出身ののオズワルド・アルディレス監督とイングランド出身のスティーブ・ペリマンコーチ(現監督)が12月初旬の段階で翌年の契約を更改し、チームへの残留を決めていたことが挙げられる。

   1996年に監督に就任したアルディレスは、エスパルスに早いテンポでのパス回しを主体とした、スピーディで攻撃的なスタイルのサッカーを目指した。もともと、清水では少年時代から個人のテクニックやパス交換の重要性を丁寧に指導し育成する土壌があったため、アルディレスのスタイルはまたたく間にチームに浸透した。また、アルディレスはラフプレーやアンフェアなプレーを嫌い、「クリーンディフェンス」を徹底させた。その結果チームはJリーグでも一、二位を争うフェアプレーのチームとして評価されるようになった。攻撃的でクリーンなサッカーを目指すアルディレスには多くの選手が信頼を寄せるようになっていた。

   チームが消滅する可能性があり、選手たちが不安に陥っていたその時に、アルディレスがいち早く翌年の契約を結んだことで、選手たちの不安がずいぶんと解消されたという。

   もちろん、多くの市民による熱意あふれる存続運動もまた、選手たちが清水に残留する要因であった。プロ選手は自らの能力と実績を少しでも高く売りこまなければならないとの通念が出来つつあったなか、選手たちはたとえ残留しても翌年の年俸は引き下げられることを承知で、契約を更改した。全国優勝した高校時代「清水東三羽カラス」と呼ばれ、清水エスパルスの第一号契約選手であった大榎克己は、「チームが残るなら、給料は要らない」とまでコメントし、チーム存続への意志を見せたという。

   1998年1月、「エスラップ」は清算され、2月1日、『鈴与』を筆頭株主(持ち株比率27.3%)に静岡鉄道、静岡瓦斯、静岡新聞社、小糸製作所など、地元企業数社の出資により、当時、月刊誌「しずおかゴール」を発行していた「サッカーコミュニケーションズ梶vの商号を「株式会社エスパルス」と改め新運営会社として営業を開始した。それによって、エスパルスは辛うじて消滅の危機を脱することができた(1)。


   新生エスパルス


   新しくなったエスパルスは「サッカーを通じて夢と感動を人々にお届けする」という基本理念を掲げ、五つの行動指針を示した。

   行動指針

  1. 常に最強であれ
  2. どんな試合でも気を抜かず全力を尽くせ
  3. 常にファンに笑顔とサービスを忘れずに
  4. 株主・スポンサーに感謝の気持ちを持とう
  5. 優秀な選手・スタッフであると同時に、社会人・市民としても立派であれ

   指針の中では、ファンは元より、株主やスポンサーに対する感謝の姿勢が打ち出された。経営を支える人々に対する感謝表明は、新生エスパルスを象徴するものと言えよう。

   さて、新会社は発足したものの、依然として厳しい経営状況が予想された。新運営会社の社長に就任した安本文彦は、赤字を出さないために厳しい経営姿勢を打ち出した。

   経営安定のために支出を抑えコスト意識を徹底することと、営業活動を積極的に行うことを社員に徹底させた。経営のスリム化のため社員の整理も行われ、社員数は前会社と比べて半分以下となった。

   営業活動は営業企画グループによって行われる。営業企画グループはスポンサー収入を得るための広告(ユニフォームや広告看板、媒体広告他)等の募集、チケットの販売計画から販売まで、グッズの開発から販売まで、等会社が得る収入に関わるすべての事と、販促活動やリピーターを増やすための仕掛け作り、観客に来場したいと思わせるような試合会場運営の環境整備、進行、イベント企画や、試合とは別に年に何回か実施するエスパルス主催のイベント(ファン感謝デー、開幕前イベント、優勝報告会・パーティー)の企画実施、ポスターやガイドブックの企画製作、新聞等広告の出稿等がその仕事である。

   新会社発足後から、文字通り必死の営業活動が行われた。スポンサーを増やすために、日本平球技場内の広告看板のスペースを大幅に増やした。また、クラブ経営を左右すると言われるシーズンシート(一年間のホームゲーム入場料をまとめて支払う)の販売増加に努めた。

   平成10年度の当期売上高は24億5200万円であったが、そのうち積極的に行ったスポンサーへの営業活動によって、広告収入は10億円、また入場料などのプロサッカー興行収入は7億円を売り上げた。この二つで、収入全体の4分の3を占める。

   一方、支出は人件費の削減や全般的な経費節減を徹底した結果、24億6000万円に抑えられた。平成10年度の最終的な経常損益は2200万円となり、一時は年間5億円以上もの赤字を生み出していた経営状態から大きく改善された。

   エスパルスの営業企画グループリーダーを務める山崎知治は、数少ない旧運営会社時代からの継続社員である。山崎は新会社への以降期について、「当時のアルディレス監督を始め選手たちはチームが無くなるかもしれないという状況で、エスパルスに残ると判断していった事はすごい事だったと思っています」と振りかえる。山崎自身は新会社に移行したことで「専門外の分野も多く調べ直すことから始まったものも多かった」という。

   真の市民球団へ

   エスパルスの経営危機は、清水市民にかつてないほどの危機感をもたらし、エスパルスの存在意義を問い直すこととなった。たくさんの署名と募金が集められた市民の熱意はチーム存続決定後も継続し、クラブが力を入れたシーズンシートの販売に対し4800枚の売上という形で応えた。この数は前年の倍である。山崎は「消滅の危機を地域全体が共通の体験として捉えていただいており、地元企業や地域団体、商店街などのバックアップの気運はヒシヒシと感じます」と言う。

   だが、今後に向けて課題が残されているのも事実である。エスパルスは数年来優勝を争うだけの成績を上げ、試合の質も高い評価を受けているが、それが肝心の観客動員数に結びつかない。1998,99年の一試合平均の観客動員数は、日本平球技場の収容人員2万人に対し、それぞれ約1万2000人にとどまっている。観客動員数がチームの経営を左右するのは言うまでもない。エスパルスは、予想動員数を低めに設定して経営を行ったため、1万2000人の動員でも収支バランスを確保する事が出来たが、更なる経営の安定やチーム強化のためには入場料収入の更なる増加は不可欠である。しかも地元企業が軒並み資本参加している清水では、これ以上地元のスポンサーを集めることが難しく、新たな主力スポンサーの確保も難航しているだけに、今後もより多くの観客動員をあげるための努力が必要となる。

   危機感は往々にして覚めてしまうものだが、2年が経過した今でも清水の人々にはエスパルスの記憶が生々しく残っている。前出の綾部美知枝にエスパルスの経営危機が取り沙汰されるさなか聞き取りを行った時、綾部は「今まではサッカーやホームタウンというものが清水にとって当たり前のもので、血の滲むような思いでそれを勝ち取ったわけではなかったので、チームを死守しようという運動が、きっと街にとってプラスになると思います」と語っている。

   1999年のJリーグステージ優勝は、経営危機からわずか2年で勝ち取った優勝であるが、清水にとっては、優勝という結果ももちろんのこと、チームを立ち直らせた2年間のプロセスこそが貴重な財産となったと言えよう。そしてこの優勝は、清水市民に歓喜をもたらしただけではなく、大企業のバックアップを受けない「市民球団」が、ホームタウン全体に支えられ勝ち取ったものとしてサッカー界全体に希望をもたらした。経営危機を迎えた際の清水市民の熱意と、経営再建に向けたエスパルスの「企業努力」は、これから増えて行くであろう地方中小都市での地域スポーツを成功させる上で参考となるものであると言えよう。

  1. エスパルス株主 (平成11年1月31日現在)
    株主の氏名または名称   持株比率
    鈴与株式会社 3,000株 27.3%
    静岡鉄道株式会社 1,000 9.1
    静岡瓦斯株式会社 1,000 9.1
    株式会社静岡新聞社 1,000 9.1
    株式会社小糸製作所 1,000 9.1
    中部電力株式会社 500 4.6
    株式会社中部銀行 500 4.6
    株式会社ホーネンコーポレーション 500 4.6
    株式会社静岡朝日テレビ 500 4.6
    株式会社ヤマシタコーポレーション 500 4.6
    鈴与建設株式会社 500 4.6
    株式会社清水銀行 400 3.6
    清水総合リース株式会社 200 1.8
    清水信用保証株式会社 200 1.8
    清水総合保険株式会社 200 1.8
    11,000株 100.0%

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