(宮城教育大学大学院教育学研究科・修士論文)
スポーツを媒介にした 「地域リアリティー」形成についての一考察

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終章   清水に見るスポーツによる社会の関係性の形成についてのまとめ

   第4章で紹介したように今日までに体系化された清水サッカーの基礎となっているのは、昭和30年代に始まった少年サッカーへの取り組みである。昭和30年、小学校教員として清水に赴任してきた堀田哲爾によって少年サッカーへの取り組みが始まって以来、少年サッカーは、清水に生まれたすべての少年少女達にとってのサッカーへの入口として活動を続けている。

   これまで、清水の基底となるコミュニティーは小学校区であり、その紐帯は「こども」であった。少年サッカーの場となる「地域」は小学校の通学区域として制度化され存在していた。

   学区は、特定の公立学校に就学することを指定されている児童生徒が居住している範囲を指すとされる。だが、学区が法律上において明確に規定されているのは公立高校の場合においてのみである。公立の小中学校における学区規定に相当するのは、学校教育法施行令第5条2項(1)である。

   わが国の学区は、その制度的実態が地方自治体と一致することが多い。言いかえれば、教育的判断による学区ではなく、自治体の範囲ががそのまま学区として適用されている場合が圧倒的に多い。これは、学区の原型が村落共同体を基盤に確定されたことが影響していると思われる。

   小学校の学区が当該地域において持つ意味合いは、ひとつは、子どもたちの日常生活における行動範囲を規定していることであり、もうひとつは、子ども達やその家族に限らない、地域住民の生活と深く関連し、生活を規定している側面を持つということである。

   梶島邦江が行った子どもたちの日常生活における誘致距離(自宅から行動場所までの距離)の調査(2)によると、全体の平均が546.1mであり、学区に収まるほどの狭い範囲の中で、子どもたちの日常生活の大半が営まれている。清水サッカーの底辺を形作る少年サッカーの育成システムは、制度上の区域に従っているが、それは子供たちにとっての自然な生活範囲と適合する形で存在し、機能しているのである。

   スポーツ少年団で為される人間関係の構築もまた、学校や家族関係というレディネスに支えられている。放課後に教員がスポーツ少年団を指導し、親が子供たちの活動を支援することが当然のこととして行われてきた。また、スポーツ少年団は保護者以外の地域住民にとって明確な子供たちとの接点としての意味を持つ。スポーツ少年団を介して「地域の教育力」が発揮されている。このようにして、子どもたちの活動が求心力となって、親、地域住民を巻き込む形で清水サッカーの最小単位である少年団と育成会は機能し、小学校区のコミュニティが明確なものとして形成されているのである。


   清水サッカーの特徴と言えるのは、「育成会」チームの存在である。スポーツ少年団という場は、子どもが競技者で、保護者は指導者や支援者という役割が自明として確立しているなか、清水では、もともとは少年団を支援するために組織された「育成会」がチームとなり保護者が自ら競技者となった。「育成会」チームは市内全域で作られ、「ママさん」のチームも数多く作られた。そして、「育成会」チームを皮切りに競技者の層が幅広い年代へと広がっていったのである。「育成会」チームで大人たちがプレーすることで、地域に対するスポーツ少年団の求心力が増し、全体性としての清水サッカーが確立したといえよう。ところで、少年団を支援する組織であった「育成会」が、なぜ自らチームへと転化したのか、さまざまな関係者にこの問いを投げかけてみたものの、問いかけに対する回答は、どの方も「ごく自然にチームとなっていった」というものだった。「子供たちがプレーする姿を見て、「楽しそうだから自分たちもやってみよう」というくらいのものだった」という答えもあった。清水では少年サッカーが本格化する以前から、社会人チームの活動も行われていたという事実はある。だがサッカーを楽しそうだと感じても、実際にチームを作ってプレーするには環境、本人の意志など、さまざまな壁が立ちはだかる。特に少年団との関係で言えば、「自分たちは裏方である」という役割意識があるうちは、簡単にチームを作ってプレーしようとは考えられないだろう。育成会の人々が「楽しそうだから」との感覚にごく自然に従い、実際に自分たちでプレーし始めたことで、清水市民全体にとって、サッカーはより敷居の低いものとなったのではないだろうか。

   さて、清水市民にもっとも強い危機感を植え付けたと思われるのが、清水エスパルスの経営危機である。

   清水エスパルスは、清水市民にとってどのような意味を持つ存在なのか。1990年、Jリーグへの参入チームとして、母体を持たない清水クラブ(現エスパルス)が選ばれたのは、清水がプロサッカーのホームタウンとして相応しいという点が最大の評価であった。街全体のサッカーへの熱意が評価されたことは、「サッカーのまち」清水市民の更なる誇りとなった。

   清水市民にとって念願のプロサッカーチームとして誕生したエスパルスの当時の運営会社エスラップは、市外の社会人チームで活躍する清水出身選手を多数呼び戻したり、市民株主の募集などの仕掛けを盛んに行った。その効果もあり、エスパルスは「市民球団」として評価され、全国的には、エスパルスが清水サッカーの新たなシンボルであると見られてきた。

   だが、必ずしもすべての清水市民がエスパルスを清水のシンボルとして捉えているわけではない。

   エスパルスは「清水」の名を冠しているが、発足当時経営の中心にあったのはテレビ静岡であり、クラブの拠点は静岡市にあった。そのため、清水市民にはエスパルスイコール清水との意識が希薄であったと言われている。その軋みは経営危機を迎えて表面化した。筆者が1997年から行った聞き取りの中では、「清水はサッカーのまちであっても、エスパルスのまちではない」という声が多く聞かれた。

   だが、エスパルスの存続を支えたのもまた市民であった。エスパルスは市や市民の熱意に地元企業が応える形で再建された。エスパルスの危機に対し真っ先に団結した市民の行動が、行政を動かし、地元企業を動かし、チームの再建として形になったのである。このことは市民に大いに希望を与えたであろう。

   清水では、既存の社会制度や社会資源を活用し、地域住民が中心となった下からの社会化によって清水サッカーの体系化が行われたということができる。市民はサッカーにおいて主体性を発揮することができる。競技者として、サポーターとして、あるいは最近登場したスポーツボランティアとして、清水ではいろいろなきっかけでサッカーに関わることができる。

   昭和30〜40年代に確立し、全国有数のサッカーどころを築く土台となった清水の少年サッカー育成システムは、今日、少子化や指導の担い手の変化など、システムを有効に機能させてきた要素の変質や衰微が重なって維持が困難となり、危急な改革を必要としている。だが、サッカーへの取り組みに対し多くの市民が肯定的な評価を下していることや、サッカーが世代間交流や地域のコミュニティ形成に効果を持つとの認識が広まっていることで、新しい体制づくりが前向きに捉えられているのも確かである。くわえて、行政の積極的な施策やエスパルスの地道なホームタウン事業によって、地域レベルで行われる小規模な活動と、プロサッカーや清水全体で繰り広げられる活動が有機的なネットワークで結びつきつつあるのは注目すべき点である。

   ある育成会の指導者は、「いまこそ、これまで何十年来頼ってきた清水の在り方を改めなければならない」と話す。おりしも世紀の変わり目を迎えようとするいま、現状に対する切迫した危機感と、清水サッカーの更なる発展を希求する意志の相乗効果によって、少年サッカーの誕生以来のドラスティックな変化を迎えようとしているのである。

  1. 「市町村の教育委員会は、当該市町村の設置する小学校又は中学校が二校以上ある場合においては、前項の通知において当該就学予定者の就学すべき小学校又は中学校を指定しなければならない。」(学校教育法施行令 第5条2項)
  2. 梶島邦江「子どもの生活空間と通学区域」『学校と地域のきずな』葉養正明編、教育出版、1999、99頁

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