(課題テーマ:清水市における政策課題とその具体的解決方策)
「日本一のサッカーフレンドシティ」 をめざして

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第4章   これからのサッカー振興

   第1節   具体的方策

   以上の考察から導き出される、清水にとってのサッカーの価値は、次のとおりだ。一つ目は、自分たちの住む地域に対する誇りを素直に表現できる場としての価値である。二つ目は、自分たちのために考え、行動し、その果実を受け取ることができ、そのことを実感できる数少ない社会活動の一つとしての価値である。三つ目は、上記二つのことを通じて得られる、内からあふれ出る活力の源としての価値である。

   このようなことを踏まえて、行政は何をすべきか。挙げていけばきりがないが、第一に行うべきことは、エスパルス存続問題で生じたマイナスイメージの払拭だろう。

   エスパルスは、"清水"の自信である。もし、エスパルスが消滅したら、支持していた人々は、当然、意気消沈するだろう。しかし、チームのファンががっかりするだけでは済まない。

   もう少し掘り下げるならば、支持していた人も、支持していなかった人も「ああ、我々の住む地域はやっぱりこの程度か」と思うに違いない。エスパルスが、清水市民がこつこつと積み重ねてきた地域文化の結晶であるという意識は、かなり多くの市民が持っている。それが簡単に崩れ去るということは、地域に対する自信が弱まる結果をもたらす。

   裏を返せば、エスパルスが市民球団として成功すれば清水市民の自信につながるということでもある。もちろん、住民が自信を持ったからといって、民間のシンクタンクが用いるような経済波及効果の計算式で具体的な効果が目に見えるように分かる訳ではない。しかし、現実の政治や経済は、数字や具体的な現象だけではなく、イメージで動く部分が多分にある。

   為替相場や株価、消費者の消費行動などが、例えば政府の政策の具体的な内容以上に、発表者の言い回しや数字のインパクトによって、熱くなったり冷めたりすることはよく知られている。経済面だけでなく、市民生活全般にわたって、地域社会の活性化に与える影響を考慮すべきだろう。

   第二に行うべきことは、本市が1991年に作成した"日本一のサッカーフレンドシティ"を早急に見直すことである。これは"サッカーを通じたまちづくり"のマスタープランだが、現実には全く無視されてしまっている。その理由としては、全庁的な推進体制の不備やPR不足などが挙げられるが、何よりも、プラン自体が網羅的で実効性のないものであることが最大の理由だと思われる。

   グラウンドなどの施設を整備したり、指導者を養成するだけでは、単なるスポーツ振興でしかない。サッカーボールを模したお土産物が何種類売り出せるとか、清水の文字が新聞のスポーツ欄に載ることによるPR効果は何億円分に相当するとか、その他諸々のマーケット研究的なアプローチも、まちづくりの作業の中では、何の成果も導き出さない。

   まちづくりとは、自分たちの地域を間断なく良くしていくための社会システムを、地域社会に実現することではないだろうか。例えば、昨年度の拙著の論文で提案したような、生涯にわたってスポーツを楽しむことができる地域のスポーツクラブようなしくみは、そのような社会システムの一つであるといえる。

   したがって、サッカーを通してのまちづくりとは、サッカー資料館をつくることではなく、サッカーを通じて人と人、集団と集団をつなぐシステムをつくることである。マスタープランは、個人同士・集団同士を結ぶ線の構造がどうあるべきかを方向づけるものであるべきだ。


   第2節   日本一のサッカーフレンドシティ

   次にそのマスタープランの骨子となるべきポイントを挙げてみよう。

   まず一つ目は、清水のサッカー組織に再度、注目することである。何度も述べたように、清水のサッカー組織の最も優れているところは、特定の指導者の力に頼ることなく、継続性・柔軟性に富んだ活動を高い水準で維持できるところにある。その良さを正確に理解するために、マスタープランの策定にあたっては、もう一度、地域のサッカー組織の構造を分析し直す必要がある。

   そして清水のサッカーが育んできた成果を普遍的な価値に昇華させることを考える。つまり、清水のサッカーが切り開いてきた道を他の分野に開放するための方策が必要なのである。これには、地域におけるスポーツクラブの制度化を、サッカーを中心に行うことが最も有効だと思われる。

   二つ目は、エスパルスのあり方を、改めて考えてみることである。市民球団という意味では、エスパルスは日本の最先端を走っているわけではない。

   佐賀県にサガン鳥栖というチームがある。このチームは、周知のとおり、PJMフューチャーズを母体としてJリーグ準会員にまでなったが、親会社の凋落とともに解散まで追い込まれたチームである。県人口88万人で、もともとサッカーの土壌があったわけでもない地域によそから誘致したチームだから、基盤が非常に脆かった。

   潰れて終わりならば、Jリーグバブルの典型的な例として忘れ去られる運命にあったが、このチームは真の市民球団として蘇った。予算も観客動員も、Jチームとは格段に少ないが、個人株主のみの法人を設立し、収入なりのチームとしてJFLに参戦している(注9)

   "清水のサッカー"のしくみ自体は先進的だと言えるが、エスパルスが真の市民球団となるためには、まだまだ他から学ぶべきことが多い。サポーターやボランティア組織がしっかりとしている浦和や鹿島、運営組織に特徴のある鳥栖や大分、清水と似たような状況にある広島など、他のチームの分析を進めたい。また、地域社会の中での位置づけを明確にし、"真の市民球団とは何か"という命題から考え直す必要がある。

   三つ目は、道や施設などのハード面や、産業面におけるまちづくりを、サッカーを通じてどのように行い得るかを考えることである。

   幸いにも清水は、草サッカー大会という経済効果の大きい大会を実施している(注10)。動く金額の大きさはともかく、この大会での宿泊施設・交通機関・飲食業界等の連携については、目を見張るものがある。三千人を超える来清者の移動という大変な問題にパサールカードの配布で対応したり、昼食弁当の採用時に試食会を義務づけたり、旅館の宿泊料金を統一したりと全市的な連携が機能している。

   草サッカー大会は、地域のハード・産業を見直す良い機会なのである。この大会のために訪れる人々は、選手である小学生とその親及び指導者の一団である。均質な客を一度に大量に受け入れることで、市内交通の動線、宿泊・観光施設の質や量、各業界の横断的な連携など、通常では分からない諸問題が明らかになる。道路やスタジアム、学校施設などの公共施設についても、その問題点や改善すべき点など、様々なことが分かるだろう。

   市内交通網や観光施設の整備などは多額の費用を要するので、民間と行政が協力して、綿密な分析のもとに長期にわたる計画を立てなければならない。だが、ちょっと考えてみるだけでも、手軽に実行できそうな施策が数多くある。

   例えば、草サッカー大会で採用された弁当に"草サッカー大会公認"のお墨付きを与えるのはどうだろうか。草サッカー大会本部では、味・栄養・価格等の面から、少年のスポーツ選手にふさわしいものを試食会で吟味している。少年スポーツ選手にふさわしいということは、高齢者や広く一般成人を対象にしても優れているということである。サッカーで得られたの成果の一般への還元とは、このように行われなければならない。

   商品に"サッカー弁当"という名前をつけるのは簡単だが、ゴハンと海苔でサッカーボールのかたちをつくるだけでは、真に清水のサッカーを代表していることにはならない。本当の良さとは何か、をもっと考えるべきである。

   サッカーイベントを通じて、地域のハード・産業面での問題点を洗い出し、サッカーを中心に再構築する。まさに清水らしい方法であるといえる。

   四つ目は"サッカーのまちづくり"に対して、全市民的なコンセンサス(賛同)を得るような努力をすることである。基本的には、コンセンサスはすでに述べた三つの作業を進めていくことによって実現される。しかし、三つの作業を効果的に進めるために、コンセンサスを得ることが必要でもある。

   コンセンサスを得るため、既述のような作業の他に考えられることには、一般市民の清水のサッカーに対する理解を深め、アイデンティティにまで意識的に高めるような方策がある。つまり、サッカーを連想させるようなシンボルを町中に設置するとか、エスパルスを筆頭に地域を代表するチームを「まちを挙げて応援するんだ」という雰囲気をつくるような積極的なPR活動などが挙げられる。


   第3節   まとめ

   以上、サッカーによるまちづくりについて考察を加えてきた。繰り返しなるが、他と違うものをつくるだけのまちづくりは、真のまちづくりとはいえない。独創性を強く持ちながらも、普遍的な価値に基づくまちづくりをしなければならない。

   その点、サッカーに限らず国際的に認知度の高いスポーツは、奇をてらうだけのシンボルとは違って、世界共通のルール・ことばの中で顔となり得ることも大きなアドバンテージといえる。だから、シンボルとなり得るのである。

   日本全体が長い不況のトンネルから抜け出せない中で、清水も何かにつけて"低迷"だとか"斜陽"だとかいうマイナスの形容詞が枕詞のようにつけられている。こんなときだからこそ、エスパルスのような市民みんなの財産が光り輝くことが、地域にどれほどの勇気をもたらすか計り知れない。

   低迷しているときこそ、生まれ変わるチャンスがある。サッカーを通じて、自分たちの地域を見直し、新しい地域社会を作り上げることは、決して悪い考えではないと思うがどうだろうか。

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