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相談コーナー
心の安らぎ・・・・私たちがいちばん欲し、いちばん得がたいもの。
だれもが一様に、毎日何かに追いかけられ、何かを追い求めています。しかし、ある時ふと、こんなことを考えないでしょうか。今まで何をやってきたのだろうか?
自分の目的は何であったのだろうか?何が幸せなのだろうか?と・・・
安らぎを求める・・これは、とくに心迷える者にとっては、あたかも砂漠で水を求める様に似て、つらく苦しい、孤独な、いとなみです。
ご紹介する「内観法」は、この水のありかを示すものです。どのような苦難があっても水はあるのだ。しかも、ごく身近にあるのだと言うことを「内観法」は示しています。
内観は、いかなる逆境に遭っても感謝できる心境に辿り着く道(法)であります。
小学生から70才のお年寄りまで、集中内観の体験をされています。

どうぞ、気楽に何なりとおたずね下さい。

 e-Mail:tosin@tokai.or.jp
体験コーナー
            内観体験の感想文
   

女子高校生              昭和六十二年十二月九日水曜日
 学校で、「一週間程度、榛原に(静岡内観研修所)内観しに行って下さい」と言われたときはわけが分からずにポカンとしてしまいました。最初は嫌で嫌で仕方なかったのです。でも先生方の話を聞いていくうちに、一週間で自分を変えられるのならどんなに素晴らしいだろうと思い始めました。
 しかし家に帰ってから不安がどんどん高まってきました。内観について何も知らず、御飯はどうするのだろう、お風呂は?といった具合でした。父は突然の事でしたので大変驚かれましたけど、「お父さんのことは大丈夫だからいっといで」と言って下さいました。
 十二月二日、榛原に着いて出迎えて下さった福田先生を見た時、私の想像との違いの激しさに驚きました。私は目の鋭いやせた、竹刀でも持っていそうな方を想像していたのですが、実際は優しい目をした誠実そうな方でした。
 内観についてのテープを聞き、母とは別の部屋に入り、部屋の隅に屏風を立て、その中に座りました。確か、午後五時頃始めたと思います。
 母に「お世話になったこと」「して返したこと」「迷惑かけたこと」を自分の年齢順に調べていきました。最初は、座っていても、他のことばかり考えていて、テーマについてなどほんの二十分程度考えていると頭が痛くなってしまう有様でした。
小学校低学年の頃母にお世話になった事なんてあったのだろうかとまるで見当違いのことも考えていました。三日目の朝に父の兄が亡くなったと電話があり、母は二日間、三島へ帰ってしまわれました。
 今まで忘れていた事が後から後から湧くようにして出てきたのは三日目になってからでした。その頃はまた母について調べていたのですが、母という人があまりに近すぎて見えるはずのものも見えなくなってしまっていたのではないかと考えました。
福田先生の奥様が三食とも食事を作って下さるのを、私は有難いなあと思いました。けれども二歳の時からそれこそ毎日、自分がどんなに疲れていようともきちんと食事を作って下さった母に対して有り難いと思ったことは只の一度もありませんでした。そう考え出すと、掃除も、洗濯も、母がやって当たり前と思っていたことがそうではないことに気付くことができました。
 母に対して調べていくと、「お世話になったこと」「迷惑をかけたこと」は山のようにあるのに、「して返したこと」は何もないことに気付くことができます。私は内観する前までは、家の手伝いをしてやっている、という気持ちでいましたけれど、”してやっている”のではなく”させていただいていた”のです。勉強にしても私は自分一人でやってきたという考えでいましたけど、幼稚園小学校、中学校、そして高校と健康で通えたのは誰のおかげだったか。受験の時、いらいらする私をなだめ、励まして下さったのは誰だったかと考えると、それは両親であったのです。私は自分一人の力でここまで来たと思っていましたけれど、内観して自分の力がどれ程のものであったかを知ることができました。母や父のそれに比べれば思い上がりが恥ずかしいです。
 先生に対しても内観しました。小学校の頃は給食のことやプールに入りたくないとわがままを言い、中学では部活に出ず迷惑をかけ、受験の時はいろいろとアドバイスをいただき、そして高校では今回のことで大変迷惑をおかけしたにもかかわらず内観をさせていただきました。一週間母、父、先生に対して内観しましたが、私の周りには福田先生の言葉を借りて言うならばろうそくの様な方がたくさんいたと思います。
ろうそくは自分の体を溶かして炎を出して明るくしているけれど、明るくしてやっているという気持ちはないのです。そういう周りの人の気持ちや有難さを理解できなかった私は、その炎を自分から吹き消してしまっていたのでした。
 私は幼い時から自己中心的で、虚栄心が強く、見栄っ張りでした。母や父に良く思われたくてウソをつきました。テストで悪い点を取ると、机の中に隠したりしましたし、まんがを買いたくて母の財布からお金を取っても、「私じゃないよ」と最後まで言い通したりもしました。中学の時も部活に出るのが嫌で、仮病を使いました。そしてだんだんウソをつくことや人の物をとると言う事に慣れて来てしまって、罪悪感というものが消えかかっていたのではないかと思います。
 ウソと盗みについても内観させていただきました。そうすると、あの時ウソをつく必要があったのだろうか、盗みをする必要があっただろうかと思うようになります。母や父だって、ウソで飾り立てられた私より、ありのままの私の方を喜んで下さると思います。ウソをつき、その場をごまかせても、そのウソを隠すためにまたウソをつきという様に、どんどんウソが重なってしまいます。後でそのウソがわかった時、人はどんな気持ちになるでしょう。一番最初に本当の事を言えば例えその時怒られても人を傷付ける事は無かったと思います。私は目に見えない暴力でどれだけたくさんの人の心に傷を負わせて来たかということを考えた時、背筋がゾッとする思いです。
 内観をしていると、自分の汚さ、思い上がりを嫌というほど思い知らされます。しかし、もし今ここで内観をさせていただかなかったら私はどうなっていたでしょう。内観する前に一週間、家で反省文を書き、勉強をし、あの時確かに私は反省していたつもりでした。
しかし大人になって社会に出たとき、あるいは高校の時、また同じ事を、それも取り返しのつかない様な事をやったのではないかと思います。
今までの私にかかったお金(養育費)はざっと計算しただけでも千七百万円近くです。両親に金銭的に見てもこれだけお世話になり、様々な苦労をかけてきました。何度も書く様ですが、私は自分一人で生きてきたつもりでいたのです。屏風の中で一日中じいっと座って考えていますと、私はいったいお世話になった方々に何を返しただろうか、迷惑だけ返したのではなかろうかと思えて来ます。事実としてそうだったのです。
内観をする前まではお世話になった事さえ忘れていたのですから。例え内観せずにその事に気付いたとしてもそれは死の直前だったと思います。
 私はまだ内観を知ったばかりですので偉そうな事は言えませんし、間違った考え方かもしれませんが、自分がどの様な人間であったか、どの様な事をしてきたかを考えれば人に対しても”自分はこんな事言える立場ではないんだ”という気持ちになれると思います。又、ありのままの素晴らしさを知ることができましたので、ウソも盗みも少なくなっていくと思います。どんな立派な物を着ても心が貧しかったら何にもなりません。ウソのないありのままの自分でいいのです。
 内観して自分が変わったのかどうかはわかりませんけれど、今までこれほど強く感じたことの無かった<感謝の心>が出来始めているような気がします。家に帰ってからも内観を続けたいと思います。
 本来ならば警察に捕まらなければならなかった私にチャンスを与えて下さり、その上内観という素晴らしいことを教えて下さった先生方に感謝しています。また見捨てずに、一緒に榛原までついて来て下さった母にも、一週間も一人で生活なさった父にも、休んでいた間、心配してくれて電話をくれた友人にも、そして私をこの世に産んで下さってこの喜びを与えてくれた実の母、父にも、一週間いろいろな教えをして下さり、時には共に涙して下さった福田先生に、先生の奥様に子供さんに、全ての人に感謝の気持ちでいっぱいです。
 これから生きていく年月に比べれば一週間なんてほんの少しかもしれませんが、私にとってこの一週間は決して無駄で無かったと思っています。




内観研修を終えて  主婦 (34才)
 今、振り返りますと、この内観をさせていただく意味の深さに、身がひきしまる様な思いでいっぱいです。今まで、私を苦しめていた事、楽しくない、嬉しくない、幸せでないと思い込んでいた事、全てが何故こうなったのか、自分を見つめることで、自分の中に答えがあったことに気付かせていただきました。
 私は商家に嫁いで九年になります。結婚した時主人の祖父、父、母、離婚して戻ってきた妹、妹の子供(当時二ヶ月)と主人と私の八人家族でした。
普通の会社員の家から嫁いだこともあり、慣れない生活の中、いつの間にか、毎日、不平不満を主人に浴びせておりました。私の中には、常に私は一生懸命やっているのに周りの人はちっともわかってくれない、私は女中に来たのではない、という被害者意識がありました。そして、私はかわいそう、不幸なんだと思い込んでいました。
 内観研修所に来た時の私は、「内観に来た目的は?」と訪ねられても、涙があふれるばかりで言葉になりませんでした。その時私は、自分は何も悪くない、それなのに毎日どうしてこんなに辛いのか、また日々投げやりに過ごしている自分が、とてもいやでいやでたまりませんでした。でも、どうしたら良いかという事は何もわからずにおりました。
 内観に来る前に、私は真暗な底無しのドロ沼の中に自分がいる夢を見ました。
私は、そこにいた私と、現実の生活の中にいる私が、本当にかわいそうでたまりませんでした。内観に行くよう勧められ、本を読ませていただいても、私は悪くないのだから、私の気持ちは変わらない、という強い気持ちがあり、反面、一人になって車を運転している通勤途中には、姑に言われた言葉、態度を思い出しては毎日泣いているという弱い自分がありました。
 今、思い返してみると、あの涙も、研修所に来た時やっとの思いで言った「毎日楽しくないんです」と言いながらあふれた涙も、全て「私は悪くない」それなのに周りの人は何もわかってくれないという思いから来るくやし涙でした。どうにかして周りの人にわからせてやろうと思っていました。そして、「私は、こんなにできる」と見せる事に疲れ、でも、今までのプライドを下げる事はできず、とても苦しんでいた時の涙でした。
「答えは自分の中にあります」と初めに言われた時、私の心の中に別居か又は離婚かという気持ちがありましたので、やっぱり離婚した方がいいのかもしれないと思いました。
 内観をしていく順序も、今になれば、なるほどと思いますが、その時は、実の父母に対してはあまり関係が無く、嫁いでからの事だけが問題と思っておりました。しかし、それはとんでもない間違いだった事に気付かされました。小一の娘と、この内観研修の間離れておりますので、三日目頃より、時々どうしているかしら、泣いて困らせていないかしら、という気持ちが、過去を振り返りながらも重なってでてきました。そうして、小一だった頃の自分はどうだったかと見つめ直していくと、父母との関わりの中に今ある私への忠告や教え、そして支えてくれた温かい心遣いのあった事、あたり前の様であった事全てが、していただいた事だったと気付き、その時の涙は、ありがとうございましたという感謝の涙でした。そして、自分の過去を振り返り自分のクセの様なものを見つめて下さいと言うお言葉の通り、その場面で自分は、どの様な態度であったかと考えていると、私のわがままで、全てにおいて、自己中心的であった自分の姿が見えてまいりました。
 それを見たとき、今の自分が見えてまいりました。そうすると今まであった全ての事が私にとって意味のある事になりました。「嫁いで九年間の間、楽しい事もあったかもしれません。でも私は覚えている様な嬉しいことはありませんでした。この九年がとても無駄な時間に思えて仕方ありません。」と思っておりました。それが全て、今まで真暗なドロ沼の中にいた自分に光が当たり、今までの全てが無駄では無い、という真実は驚きでした。いやな出来事を忘れ去ろうとしていた人も頭に浮かび、その時の辛さを思い出しながらその時の自分を見ると、私の中の汚さ、傲慢な態度がたくさん出てきました。今まであった全ての事、特に、辛くて悲しくて苦しい事は、自分に気付くことを教えてくれていました。
 私には、全ての事は無駄では無く、全てが宝物に見える眼を授けていただいていた事を、気付かせて下さいました。
 この一週間で私は、嫁ぎ先の父、母に、お詫びしたい気持ちで一杯になりました。一週間前の私には思いもよらない事です。これから、教わらなければもったいないとさえ思えて来ます。そして実家の両親の元へ、娘を迎えに行きますので、その際、今までのお礼を言わせていただこうと思います。
 何より主人に対する感謝の気持ち、すまない気持ち、これに気付きましたことは、私にとってかけがえのないものです。今日より、今の気持ちを忘れずに努めてまいります。
 この内観研修をさせていただきました事心より感謝致します。
 ありがとうございました。


 

匿名女性         平成18年2月20日
 私が「内観法」を知ったのは、5年前、勤務先である法律事務所で弁護士の○○先生から「この本を読んでみて下さい」と渡された波多野二三彦先生の書かれた「内観法はなぜ効くか」という一冊の本でした。○○先生と波多野先生は共に弁護士という職業の傍らメディエーション(調停)の研究会でご一緒に勉強をされていました。その当時私はその本を読んで「内観法って非行少年たちを一週間で劇的に改心させてしまうすごい技法なんだなあ」位にしか気に留めてはいませんでした。それから記憶の片隅にしまわれていました。
 そして、昨年単身赴任生活を送っていた夫が体調不良を訴えるようになり、「うつ病とアルコール依存症」と診断されてしまいました。夫の身体はお酒に蝕まれ、このままでは取り返しのつかない事になってしまうような状態でした。でも本人はどうしても飲むことを自力では止められない身体と精神を病んでしまう恐ろしい病気です。夫はアルコールの専門医療機関に三ヶ月入院しました。私はアルコール依存症という病からおこる問題行動・病気の知識のなさ・世間の偏見のためどう対処して良いのかまったく分からない状態でした。見かねた友人は私を宗教に誘ってくれました。「あなたはご主人を通して学ばせてもらっているのですよ。感謝の心で徳を積んで誠を運ばせていただきなさい」と教えられても何をどうすれば良いのか全くわかりませんでしたし、この状況で感謝の気持ちなど湧いてくるわけがありませんでした。そんなときインターネットで依存症について色々調べていると、ふとあるサイトで「内観法」がアルコール依存症に効くということを知り、慌てて波多野先生の本を読み返しました。やはり内観法がうつ病やアルコール依存症の治療に効果があると書かれていて私は「これだ!」と思い、内観研修所を探してみるといがいにも近くに静岡研修所が存在していたことに驚きました。そして福田先生との出会いが待っていました。
 私は早速夫に集中内観に行ってほしいと説得しました。夫は私に言われるままに研修に行ったものの、福田先生の真心あるご指導にもかかわらず残念ながら3日目に体調不良から断念。きっと強い飲酒欲求に負けてしまったのだと思います。福田先生は電話でご親切に色々と主人の様子をお話下さり、そして私に内観を勧めて下さいました。「奥さんあなたは執行猶予中ですよ!」と。私は全身が雷に撃たれたようでした。「えっ私がなぜ・・・?」その後は不思議でした。仕事を持ち、まだ低学年の子供もいる主婦が一週間も留守にできるわけがないと思っていたのですが、勤め先でも家庭でも集中内観に行くことをすんなりと承諾されたのでした。
 1日目、2日目慣れない屏風の中で私の幼稚園時代からの両親に対する3つのテーマについての内観でした。3日目ともなると思い出す作業が苦痛でなくなり、だんだん当時の情景や会話までも思い出されるようになりました。すると「お世話になったこと」「ご迷惑をお掛けしたこと」は次から次へと思い出されるのに「してかえしたこと」が思いつかなくなってしまいました。すると、今まで当たり前のように両親にしてもらっていた事が、「あーこんなにお世話になっていたんだ。ありがたいなぁ」と私はこんなにも両親に愛情とお金を存分にかけてもらっていたんだという感謝の気持ちと「なのに私は生意気な口をきいたり反抗して困らせてばかりだった・・・」というものすごい反省の気持ちで恥ずかしくなり今すぐにでも両親に「色々とごめんなさい」と謝罪したい気持ちでいっぱいになりました。
 そして、4日目からは夫についての内観が始まりました。私は初め夫に対しては「して返したこと」ばかりだろうと思っておりました。その訳はアルコール依存症という病はお酒を飲みたいがために家族や周りの人たちをも巻き込む病気であり、私たち家族は夫の問題行為や嘘や裏切りに振り回されていたからです。しかし、夫について、出会った頃から何度もふり返って内観していくうちに、最近の嫌な出来事で忘れてしまっていた色々な事がはっきりと思い出され、夫に「お世話になったこと」が次から次へと思い出され、私が「して返したこと」だと信じきっていた事が実は妻として当たり前の事としか思えないようになっていました。ちょうど5日目です。何か胸元がざわつき「はっ」と思った時からものすごい反省の気持ちと共に夫に対して「ごめんなさい」と思う気持ちで涙が止まらなくなりました。私は今まで夫が家族のためにと苦悩の末に引いてくれたレールの上を自分だけ大変恵まれた環境の中にとっぷり漬かり夫や家族に感謝することもせず、いつでも誰かが何とかしてくれるという甘えきった生活をしていたのです。そして、早くして両親を亡くしてしまった夫の深い悲しみ、会社での人間関係や仕事上での計り知れないストレス、家族と離れて慣れない環境での単身赴任の不安や寂しさに妻として全くと言ってよいほど夫に共感していなかった事、そして、ただただお酒に依存して自力では飲む事を止めようとしない夫を冷たい態度で責め、夫の本当の気持ちを考えようともしなかった自分に初めて気づきました。こんな私に夫は今まで文句も言わずに毎日働き生活費を渡してくれていた事に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。そうです夫の酒のつまは「妻」だったのかも知れません。その日は反省と懺悔の日でした。自分を責めるだけ責めると不思議なことに今度はわくわくとした気持ちが湧いてきて夫に対しては病気でもいい今生きていてくれることに感謝となりました。今ここで福田先生に私が内観をする事を勧められた意味が分かったような気がしました。そして今度は夫にも一日でも早く集中内観を実践してもらって闇の中から這い出してほしい、内観によって救われて本当にしあわせになってと心から思いました。宗教で教えられた「感謝の心です。そして歓喜してまことを運びなさい」という意味も自分自身を内観して深く反省し懺悔をして初めて沸いてくる感謝・歓喜なんだとわかったような気がします。
 一週間という期間に厳しくもありますがこんなにも尊い体験をさせていただいたことに心から感謝いたします。研修中に聞かせていただいたテープもそれぞれが衝撃的で、内観を医学的・科学的・仏教的に分かりやすい説明でとてもよく解釈できたり印象深いものばかりでした。特に私には前科10犯の親分のテープと精神科のお医者様がご自身断食・断水・不眠で「うそと盗み」について内観されていたテープは衝撃的でした。
 また、なんと言っても面接者である福田先生の真心のこもったお導きが大変心地よいものでした。面接していただいた後での色々な仏教的なお話やご自身のお話。また、吉本先生ご夫妻のエピソードなど私の心に染み渡るお話ばかりでした。本当にありがとうございました。そして毎回心のこもった美味しいお食事を用意して下さり「お食事どうぞ」と運んでくださった奥様、ご家族の皆様にも感謝申し上げます。
 最後に、「過去は宝の山」過去を振り替える事により自己の発見があり反省・懺悔となり、そして感謝・歓喜へとつながっていく。過去は変える事はできないけれど1つ1つ見つめ直しそこから学ぶ。もし、自分のことを不幸だと悲しんでいる人がいたら、それを「しあわせ」と感じる心にしてくれる「内観」があるんだよと伝えていきたいと思います。


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