N1ロケット開発小史

N1ロケットのルーツは1960年以前にコロリョフが、来るべき将来の宇宙開発計画である地球以外の天体(月・火星)への有人宇宙飛行、宇宙ステーション、大型軍事衛星の打上げのために発案した物に遡る。
当初コロリョフは低軌道打上げ能力40〜50tのN1、60〜70tのN2の2つの打上機を段階的に開発する事を考えていたが、1962年、政府はこれらの開発計画を1本化することで承認し、打上能力75tのロケットとしてN1の開発はスタートした。

当時のソ連の宇宙開発は軍の管轄下にあった。宇宙開発はICBM開発の副産物であったのだ。ソ連政府は宇宙開発に関わる組織の一元化を図ろうとせず、複数の設計局を競わせようとしていたため、予算の獲得は至難を極め、N1の開発に与えられた予算も十分とは言えなかった。

少ない予算と厳しい納期に間に合わせるため、N1の開発は既存の技術を最大限活用し、新たな技術への挑戦は極力避けらる事となった。コロリョフが当初目論んでいた上段への液酸・液水エンジンの採用は見送られ、全段液酸・ケロシンの構成とし、水素エンジンは平行開発しつつ後の発展型に搭載する計画になった。
第1段のエンジンは推力150tクラスのものを24基使用する事になった。本来ならばもっと大きなエンジンを使用し、エンジン数を減らすべきであったが、これも予算と技術的な問題からの制約であった。与えられた予算と当時のソ連の技術力では超大型エンジンの開発は不可能だったのだ。

コロリョフが当初考えていた有人月着陸計画(L3計画)は、地球軌道ランデブー方式であった。3機のN1を用いて地球低軌道上で月へ直接着陸する宇宙船の組立と燃料補給を行い、最後にR7ロケットで打上げられたソユース宇宙船をドッキングさせて月へ向かうというものであった。ちなみにフォン・ブラウンも当初アポロ計画には地球ランデブー方式を使うことを提唱していた。

アポロ計画がスタートすると、コロリョフの原案通りのL3計画ではコストがかかりすぎるうえ、技術的にも困難でアメリカに先んじることは到底不可能なため、L3計画もアポロ同様の月軌道ランデブー方式で行われる事となった。これが実際に推進されたL3計画である。
月軌道ランデブー方式を採用した場合の宇宙船全体の重量は約93tに達するため、計画通りのN1では打ち上げ不可能となった。そのため1964年に設計の大幅な変更が行われた。N1の打上能力は95tに上方修正され、推進力の不足を補うために第1段のエンジンは6基追加されて30基になった。中央の6基のエンジンはこの時に追加されたものであり、実際に製造されたN1の設計はこの頃にほぼ固まったようである。

30基ものエンジンを制御するために”KORD”と呼ばれるエンジン制御システムが開発される事となった。これは何らかのトラブルでどれか一つのエンジンが停止しても、推力のバランスをとるためにその対極の位置にあるエンジンを自動的に停止させ、燃焼終了までの間、引き続き安定した飛行を実現させるものであった。

N1の開発はは苦難の連続であった。R7ロケットの開発においてはコロリョフの良き協力者であったグルシコは今や敵以外の何者でもなく、さらにチェロメイ、ヤンゲリといった他のロケット設計者が対抗する計画を打ち出してきた。当時のソ連政府はコロリョフに月着陸計画を任せながらも他の計画案に無関心ではなかったのである。

グルシコがコロリョフへの協力を拒絶したため、コロリョフはエンジンの供給先をクズネツォフ設計局(OKB-276)に求めたが、ロケットエンジンの開発に関しては新参者のクズネツォフ設計局にとって、大型ロケットエンジンを開発するための設備も予算も不足していた。超大型ロケットエンジンの採用が見送られたのにはこのような事情もあった。

さらにコロリョフはN1の開発だけに専念できたわけではなかった。当時('60年代)コロリョフ設計局(OKB-1)が抱えていたプロジェクトは、N1/L3以外にも、ウォストークからソユースに至る一連の有人宇宙機、通信衛星、月探査体、スパイ衛星、R7ロケットの改良、R9大陸間弾道弾の開発など、多岐にわたっていた。これらを総轄するコロリョフは必然的に多忙を極め、文字通り命を削りながらこれらの仕事をこなしていったのである。

'66年1月にコロリョフは死去し、N1の開発はOKB-1新局長に就任したミーシンに引き継がれた。ミーシンは決して無能ではなかったが、コロリョフと比較すればさすがに力不足は否めなかった。さらに良くないことに、ミーシンはグルシコと非常に仲が悪かった。グルシコはチェロメイのUR700、ヤンゲリのR56といったN1と競合するロケットの開発計画に協力し、N1を開発するコロリョフを積極的に攻撃していたが、コロリョフの死後もその攻撃の手をゆるめることはなかったのである。

数々の苦難を乗り越え、1969年2月にN1はようやく発射台に据えられた。既にアポロ8号は有人月周回飛行に成功しており、この時点で初飛行であるという事から既にソ連に逆転の可能性は無きに等しかったと言っても過言ではない。だが、2月21日に行われた初飛行はあえなく失敗に終わってしまった。
さらに同年7月3日に2度目の打上試験が行われた。全世界の目がアポロ11号に注がれている中でのまさにソ連のムーンレースに対する最後の挑戦であったが、またしても悲劇的な結末を迎えてしまった。さらに、追い討ちをかけるように17日後にアポロ11号は人類初の有人月着陸に成功し、ついにムーンレースにおけるソ連の敗北は覆らぬ事実となってしまった。

ムーンレースには敗北したが、N1/L3計画は続行される事となった。
第3回の打上試験は1971年6月27日に行われた。前2回の失敗を踏まえてN1の機体には数々の対策が施されていたが、またしても打上から52秒後に爆発、失敗に終わってしまった。
翌1972年11月23日には第4回目の打ち上げが行われた。この機体(7L)はN1の最初の発展型である、N1Fへの過渡的な機体であった。外観上の大きな違いとして、機体表面に設けられているパイプラインのカバーの先端が鋭角的なものとなり、ブロックAのスカート部が半ばから円筒形に絞り込まれ、最大直径は約1.5m減少している。これら空力デザインの大きな見直しに加え、機体構造の強化等、さまざまな改善がなされていた。
この第4回目の打上試験は打上より107秒後に爆発、またしても失敗に終わってしまったが、ブロックAの燃焼終了まで後わずかというところまでこぎつけており、後の打上への期待が高まった。

続く機体8LはN1Fの第一号機となり、エンジンは全段一新された。ブロックAにはNK-33が、ブロックBにはNK-43が、ブロックVにはNK-39がそれぞれ搭載された。これらは以前の機体(N1U)に搭載された物の発展型であり、推力・比推力共に強化されていた。これらのエンジンにより、N1Fの打上能力は、N1Uの95tから105tへ引き上げられた。

N1の5回目の打上である8Lは1974年に打上げられる予定であった。この頃にはミーシンによってL3計画の次の段階として、月面に3〜5人の飛行士を送り込むL3M計画が練られていた。これは原点回帰とも言えるもので、2機のN1によって行われる地球軌道ランデブー方式であったが、政府の承認は得られずにいた。予算が膨大なものになることに加え、ムーンレースの敗北はソ連政府から月への興味を徐々に失わせていったのである。

1974年になると、N1の第5回目の打上試験が準備され始めたが、突如その作業はストップしてしまった。それまでミーシンによって進められているN1/L3計画を苦々しい思いで見ていたグルシコは、政府を始め各方面に計画を中止するよう積極的に働き掛けていたが、ついにその努力が実を結んでしまったのだ。

ミーシンはTsKBEM(コロリョフ設計局の当時の呼称)局長を解任されてしまい、そしてその後任はあろう事かグルシコであった。組織は再編され、TsKBEMはグルシコの設計局と合併してNPOエネルギヤとなった。グルシコはついにかつて対立関係にあった設計局のトップとして、ソ連の宇宙開発を独占しうる地位に登り詰めたのである。

NPOエネルギヤ初代総裁となったグルシコの最初の仕事は、N1/L3計画の全面中止を指示することであった。予定されていた5回目の打上試験は当然中止となり、さらに完成していたN1の機体は全てスクラップにされてしまった。この残骸は今でもバイコヌール宇宙基地の周辺に貯水タンクや公園の屋根等に姿を変えて残っている。

参考資料

ロケットニュース(セルゲイ・コロリョフ:冨田信之氏著)
エアワールド1990年4月号
月を目指した二人の科学者(中公新書、的川泰宣氏著)
Encyclopedia Astronautica
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2001.02.20 公開