バイク 思い出話・むかし話

バイクに関する作者の思い出話やむかし話です。

隠し撮り
初めてのロングツーリング
忘れもしないパンク
ピースサイン今昔
ツーリングクラブ "トータスエスプリ"

1.隠し撮り
「この写真お前ではないか」、教室で同級生から声をかけられた。何かなと思っていくとオートバイ雑誌(モーサイかオートバイのどちらか)の中の写真を見せてくれた。 写真には山の中の道を走る二人乗りのバイクが車の横をすり抜けている様子が写っている。 後ろに乗っている人はヘルメットではなく手ぬぐいを頭に姉さんかぶりしている。
この写真はいわゆる隠し撮りである。確かにそうだ。先輩友達と富山の山田温泉牛岳スキー場へモトクロスを見に行った帰りである。先輩のバイクに乗せてもらった。 今となってはおぼえていないが車2台とバイク1〜2台で行ったように思う。行きも帰りも車に乗せてもらっていたが会場付近が混雑していたので気分転換に二人乗りしたのではないか。 当時、同乗者にはヘルメットの義務はなかったのでこんなこともできた。 (なおその当時でも最初からタンデムで出掛ける場合はきちんとヘルメットをかぶった)
同級生が私に代わって日時と場所を書いて名乗りを上げたので記念に雑誌社が送ってくれた。30年以上昔の貴重な写真である。 戻る

モトクロス
よくみると右側通行。バイクはスズキの125?


2.初めてのロングツーリング
◇いつ バイクに乗るようになって1ヶ月後(10月だった)
◇ルート
 1日目 自宅−金沢−羽咋−富来−輪島−穴水−甲−穴水−田鶴浜(泊)
 2日目 田鶴浜−七尾−氷見−高岡−石動−寮
◇走行距離 250km弱
◇ガソリン代 250円(燃費リッター50km,当時リッター50円)
◇思い出しレポート
愛車SL90に乗り自宅を出発。当時コンビニなんてなかったので昼飯におにぎりをつくってもらったかもしれない。途中から雨になった。津幡付近ではすでに合羽を着ていたと思う。 羽咋から富来へ向かう。富来と言えば能登金剛。小学校の修学旅行以来である。門前町を経て輪島に到着した。自宅から100kmであった。輪島はもちろん初めてである。 一周するつもりはなかったので穴水へ向かう。そのまま田鶴浜へ行くと時間的に早すぎるので七尾湾を見ながら甲まで往復した。穴水に戻り、田鶴浜に向かう。友達の家に泊めてもらった。 夜遅くまで話し込んだ。
翌日は七尾から富山湾側に出た(160号線)。海岸線に沿って走った。海の向こうに北アルプスの山々が見える。高岡まで来て二上山に上った。 高岡出身の友達から二上山という言葉をよく聞かされていたので一度は行ってみたいと思っていたあこがれの山である。アベックが鐘を突いていたことだけはおぼえている。 石動から倶利伽藍峠を越え石川県に戻る。自宅には帰らずそのまま寮へ戻った。
今となってはたわいもない距離であるが、初めて走る道、初めていく所ばかりだったので大変な冒険であった。バイクに乗って1ヶ月では冒険と言うより無謀だったかもしれない (追記:2000年のお盆はほぼ逆ルートを走りました。レポートはこちらです。また、2008年のお盆は七尾側から走りました。レポートはこちらです)。 戻る

3.忘れもしないパンク
学生時代、寮にいた頃の話しである。季節は秋だったと思う。寮から家までバイクで約1時間である。その日(土曜日)はほとんど現金がなかったが家にたどり着くに十分ガソリンだけは入っていた。寮の食堂で昼食を済ませ、出発した。 国道8号線を走ること30分、金沢西ICに差しかかった時であった。突然後輪が左右に揺れだした。 なんだろうと止めてバイクを見ると後輪が見事にパンクしていた。
とりあえずガソリンスタンドを捜せばなんとかなるかと思いそのままバイクを押した。 経験者なら分かると思うがパンクしたバイクほど重たいものはない。90ccとはいえ、まるで岩のようである。1kmほど進んた所にガソリンスタンドがあった。 わらをもつかむ気持ちで話しをするとバイクのパンク修理はしないと言う。ガーン、ショックでめまいがしたが、それに続いて「このちょっと向こうに自転車屋があるからそこならやってくれと思うよ」。 この一言に勇気づけられ、またバイクを押した。汗だくになって自転車屋に到着するとお店の人が「修理できるよ」と了解の返事。 やっと修理の見通しが立ちほっとした。
しかし実はほっとしている状況にはなかった。手持ちの現金がほとんどないのである。たぶん200円とか300円しか持っていなかったと思う。ここから公共交通手段を使って家まで行かなければならない。 どうやって行けばいいものか困ってしまった。自転車屋さんにお金を借りようかと思ったが言い出す勇気が出なかった。 とりあえず国鉄(当時)の駅が近くにないか聞いてみると2〜3km歩けば野々市駅があると言う。所々で道を聞きながらなんとかたどり着いた。
そこから列車に乗り、寺井駅で下りる。 その時点で持ち金の半分以上は無くなったと思う。能美線を利用すればいいのだがその当時昼間はバス代行になっている。 電車とバスの経路は一致していなので一番近い停留所で降りてそこから家まで歩くことにした。家に着いてものんびりしている余裕はない。お金をもらってすぐ出発である。 今来たルートの逆ルートでくだんの自転車屋に向かった。野々市の駅を降りた頃には真っ暗であった。自転車屋に到着したのは夜の7時頃だったと思う。 修理代を払い、寮に向かって出発した。その日は家に泊まるつもりで出発したのにとんだ災難だった。
バイクに乗る時は多少のお金を予備で持っているべきであることを身を持って知った。 戻る

4.ピースサイン今昔
今はほとんど冷めてしまったがピースサイン論争が一時期盛り上がった。確かに最近はほとんど見かけなくなった。かく言う私も出したことがない。まれに出されると礼儀としてお返しする程度である。 学生時代、友達からバイクに乗ったらピースサインを出すんだよと教えられたものだった。タンデムした時は2人揃って出すほどの念の入りようである。タンデム同士がすれ違うと4人がピースサインを出す。 そんなこともありました。だからあの頃はピースサインを出したのに返してくれないと無性に腹が立ったものです。「あいつ、バイクの乗り方を知らないな」。 戻る

5.ツーリングクラブ "トータスエスプリ"
就職して数年目、またバイクに乗り出した時、職場の仲間に呼びかけてツーリングクラブを結成した。クラブの名称は「トータスエスプリ」。亀の意志という意味である。 ゆっくり走ろうという気持ちを表している。予想外に人が集まった。ほとんどが250か400だったがナナハンも3〜4人いた。 発足ツーリングは伊豆一周である。西伊豆からまわるグループと熱海経由東伊豆からまわるグループの2グループに分かれ出発した。弓ヶ浜の近くでうまく落ち合うことができた。
私は言い出しっぺで役目が終わり、その後の運営は若手がやってくれた。例会月1回、宴会年2回を基本方針に活動した。有志だけで泊まりがけのツーリングを行ったこともあった。 精力的に活動したがメンバーの高齢化には勝てない。独身だったメンバーが結婚して家庭をもつようになり参加者が減ってきた。 いつしか休眠状態となり現在に至っている。現在でも乗り続けているのは私を含めて数人である。戻る

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