教科書ガイド 2000/7/11
とにかく、宿題はよく出た。
算数、数学は教科書の問題ばかりでなく問題集を買い与えられて毎日どっさり。英語は事前に英文和訳、国語は事前に本文を読み漢字をしらべておく。やっていないことがばれるとおこられる、なぐられる、廊下にたたされる、正座させられるといろんな罰が待っていた。それでいてたいして頭のいい学校ではなかった。そして英文和訳なんてだいたい列で襲ってくるので、自分のところがいったいどこらへんなのかあたりをつけるのがたいへんだ。スリルとサスペンスは英語の時間になるといつも襲って来ていたのだ。
「おい、教えてくれよ。」
「やだよ、昨日一生懸命やったんだぜ、自分でやれよ。」
子供は助け合うということをしらない。どこまでも利己主義だから子供なのだ。
しかし宿題には絶対的な特効薬があった。「教科書ガイド」だ。
こいつは逸品だった。英文はまるごと完全に和訳されているし、数学はすべて答えが載っている。国語の新出漢字もすべて出そろっていて辞書を引く必要はない。こいつがあればもう何もいらない。しかし、使い方を誤ると大変危険なのもこの教科書ガイドだった。私は演技を含めてちゃんとこの教科書ガイドを使いこなす自信があった。しかしバカはいるのだ、生徒にも、そして教師にも・・・。
「○○君、はい、読んで。」
「イフ アイ こうるど・・・こう・・・あ、クッド うおうく うお・・・うお ¥・・・あワーク イン ザ・・・え・・・え・・・え・・・・・・。」
「はい、訳して。」
「20世紀初頭にドイツでおきた労働問題は深刻な影響を人々に及ぼしました。職を失えばパン一握りも食べられなくなるような恐怖と、未来を模索できない絶望感がナチスを生み出す下地を作り出したのです・・・・・・。」
だからよう、ぜんぜん英文読めないやつがなんでそういう風に完璧に訳せるんだ?だからお前はバカなんだ。そんなもんバレるにきまってるじゃんか。ポツ・ポツとでも訳して英単語だけでも調べましたがんばって・・・と努力のあとだけでも見せればいいんだよそんなの。私はこういうアホがいるので教科書ガイドを使用するには慎重に慎重をきわめた。数学なんかはわざと答えをまちがえたりすることは常套で、英語は日本語をさらにナチュラルに意訳するという技を使いまくった。要するに宿題がやってあればいいのだ。しかし本質的にはやつと同じ事をしているのだ、いつ自分もボロをだすかわからない。しかし私がボロをだす以前にボロをだしたのは教師の方だった。
「screw」
とある英語の教師は、海をかきまぜる巨大なスクリューのことを「海洋攪拌機」と訳した。攪拌機?そんな単語見たこともきいたこともない。しかし、教科書ガイドには攪拌機と訳されていたのだ。バカめ海をかきまぜる巨大なスクリューで意味もバッチリ通じるのであるからそのままにしておけばいいのに、そう意訳するからガイドを見たのがまるわかりだ。だいたいガイドなんか指導要領の写しなんだから、こりゃ教師もちっとも自分で訳そうとはしないで指導要領を読み上げているにすぎんのだ、これじゃあきつねとたぬきのバカし合いだぜ・・・なんて悟りながら、スリルとサスペンスの英語の授業にはいつも緊張がみなぎっていたのだ、はは・・・いいこと学んだな。
よく行ったジャズの店。今はおはなしという店
私が学生だった1980年代の後半は、ちょうどCDがレコードにかわって出てきた変わり目だった。ジャズ喫茶のマスターはまあだいたいCDに関しては否定的で、私が通っていたところのマスターもやはり例外ではなかった。よく、レコードとCDの聞き比べをやった。しかしプレッシャーのかけ方は半端ではなかった・・。
「よし、今日はソニー・クラークのクール・ストラッチンいってみようか。まずはレコードから。」
♪たらら・・たらら・たらーたらららら・たらら・・・
「ふんふん、いいですねえ。」
「じゃ次CDかけるぞ・・・いくぞ。」
♪たらら・・たらら・たらーたらららら・たらら・・・
「(同じじゃんか、全く) うーん。」
「な!!。」
「え?」
「な!?。」
「ん?」
「な・・・・・・違うだろ。」
「え・・・違う・・・かな?」
「違うんだよ、まったく。まったく違う。あのななんでこんなに違うかというとマスターテープが劣化しちまってるんだ。もう30年くらい前の録音のマスターテープをよう、いまさら引っ張り出してデジタル化したっていい音が出るわけねえんだよ。CDはいい、いいとばかりいっているけどそんな訳はない。今聞いてわかったろう。レコードの方がはるかに音質がいいんだよ・・・」
私には同じに聞こえたがここはうなずいておくしかないと思い、ひたすら勉強させてもらった思い出だ。あのころ一体何枚のレコードとCDを聞き比べしたかわからないが違いのわかるものは一枚もなかった。しかし耳もある程度できてきた現在、やはりレコードとCDの音質は違うと思う。当時マスターから聞いたようにマスターテープの劣化も原因の一つには違いないが、デジタル・サンプリングをする際にデジタルではとらえきれない音が存在していて、そいつがサウンドに緊張感をあたえているような気がする。レコードをかけるとなんとなくホッとした感じがでるのはそのためではないだろうか。ふりかえるとジャズ喫茶のマスターは強引に私達にいろんな説法をしていたが、やはりすべて的をえていたのだ。それにしてもいったい、やつらはどこへ消えてしまったのだ。はなたれの俺が現在こんなジャズの店をやっていると知ったら、いったいどう思うのだろう?
楽しければ、多少若いバーテンダーをからかってもいいのだ、多少・・・。
長い間、有名フランチレストランで働いていたS氏は昨年独立して自分の店をオープンした。彼が以前のフレンチにいた時の働きぶりを良く知っているが、それはすごいものだった。
「(なんだ、なってねえじゃねえか・・・((ボッコッ・・・イッテッ))何度言ったらわかるんだおめえは・・・えっ((ドンッ・・・ガシャ・・・))すっ、すいません、ごめんなさい!ばかやろうごめんですませてお客様が納得すると思ってんのかてめえ!やめちまえ!!あ、いらっしゃいませ!!お待ちしておりましたどうぞ!おい、もう一回やってみろここからおんだすぞてめえ((ボコボコッ・・・ガシャ!))」
そのフレンチは厨房と客席があまり離れていないため、厨房の怒鳴り声が耳を澄ますと聞こえてくる。怒鳴り声ばかりか殴る蹴る、そして若手の料理人がS氏にやられてよろめいて悲鳴をあげる声までが聞こえてきていた。ちっとおっかなかったが私はこれぞフレンチだ、レストランはこうじゃなくちゃと思って聞いていた。シェフを呼ぶとS氏はにこやかにあらわれ、私達にこう言っていた。
「すげえな、うまいはずだよここの料理。」
「そりゃCOOLさん、たまには仕事しているところも見せんと・・・へへ、そんなに聞こえてた?」
そのS氏と、私はとあるBARでばったり出くわした。S氏のバーテンいびりは一流だ。そして今夜は私もいる。知り合いの若いバーテンはすでに殺気を感じて明らかにかたくなっていた。
S:「じゃ、ジン・リッキーお願い。」
「かしこまりました。」 [どうぞ。」
S:「(少し飲む)ん?これ、何だ。」
「ジン・リッキーです。」
S:「そうか、ほう、これがジン・リッキーか。COOL、帰るか、この店出よう。」
「そうだね。」
「ちょっと待ってくださいよう。ゆっくりしていってよう、Sさん!」
S:「そうか、(一気に飲み干す。)じゃ、もう一杯だけもらおうか、じゃあ、今度は・・・・・・ジン・リッキーにしようか、お願いするよ。」
「えっ・・・かしこまりました・・・。」 [どうぞ・・・。」
S:「(少し飲む) で・・・これはいったい何なんだ?何つくったつもりなんだ?」
「・・・ジン・リッキーです。」
S:「そうか、ほう、これがジン・リッキーか。COOL、やっぱり帰ろう、この店出よう。」
「そうだね・・・。」
こんなことやって夜遊んでいるのは結構楽しい。 あっ、もちろん知り合いだから許されるわけで・・・皆さんいきなりやらないでね・・・。
現在、新日本プロレスは危機をむかえていると思う。それは以前のような負債問題ではなく、もっと本質的な意味においてである。
ここ数年の間に新日には2本の毒が打ち込まれた。一本は天龍源一郎、もう一本は大仁田篤である。
天龍は言わずと知れた全日本プロレスの権化だ。そのゆったりとした間の取り方、水平チョップなど基本技中心、受けに強くパワーボムのような地味な大技で相手をしとめるスタイル・・・私が彼のファイティングスタイルから感じるものはひたすら、「全日」である。彼は場所を全日からWAR,そしてフリーとなって新日のマットに移しても頑なまでに自分のスタイルをかえることはしなかった。そしてその戦う相手に自らの全日イズムをたたきこんだ。その影響をもっともストレートに受けたのは、他ならぬ新日本プロレスIWGPチャンピオン、佐々木健介である。
天龍と新日マットにおいて幾多の死闘を繰り広げた健介は、受けを主体とする天龍のファイティングスタイルに影響を受けざるを得なかった。そこには健介の持ち味であるスピードとパワー、長州ゆずりの相手を破壊するぞという強烈なのイメージは失われ、怒りを顕わにした新日的スピリッツは全く影を潜め、全日の三沢、小橋に見られるようなゆったりとした技の応酬−全日スタイルを全面に打ち出した。健介は天龍の技を受け続け、必殺のノーザンライトボムで天龍をしとめたが、その試合運びは完全に天龍のもので、私にとって魅力あるものではなかった。
健介に打ち込まれた全日イズムはさらに中西学に伝播した。中西は新日の成長株で必殺技アルゼンチンバックブリーカーは魅力だが、健介との抗争の中でその全日イズムが中西にしっかりのり移った。成長過程であり、猪木に始まる闘魂−けんかファイトを体感していない中西には健介が持ち込んだ全日イズムがのりうつるのは早かった。最近では私には三沢、小橋のファイトと同じ印象を新日マットのメインイベントで感じることが多い。蝶野がチーム2000でIWGPを含むすべてのタイトルを本体から奪うと息巻いてあばれているが、私が見るに既に蝶野自信にも天龍から伝播した全日イズムがのりうつりつつあるのだ。事態が進めば新日としての魅力は今後一層失われ、IWGPのベルトは輝きを失い、まったりとした全日スタイルが新日の主流となりその存在は本当に影を潜めてしまうだろう。毒は、蔓延しはじめている。
猪木が言うように毒は毒で制しなくてはいけないのだ。しかし制するよりはやくもう一本の強烈な毒が打ち込まれる。
大仁田篤は電流爆破などという言語道断なやり口で業界に舞い戻った異端児だ。大仁田はすでに新日マットにおいて健介に火を吐き、蝶野の前で電流爆破を受け存在をアピールし、ムタと色試合をして新日マットで成功している。彼のファイトは強さのみを追求する新日マットでは決してあってはならないものなのだ。最初は一回限りの冗談でマットに上げたかしらんが、今では「今度は電流爆破でやるのか?」と期待すらもつファンも出始めている。これは大変危険なことだ。
その大仁田が7/30 長州と試合をする。私には長州には絶対に新日イズムを守ってもらいたい。
闘魂をもって毒を制するのは長州にしかできないかもしれないのだ。リングは電流爆破でもなんでもいい。ただし爆破なんかさせないで大仁田を殺ってしまって欲しい。ろくすっぽ練習もせず、色仕掛けだけでリングに上がってくるやつはこうなるのだ、と見せしめにしてやればいいのだ。新日マットにあがるということはここまで恐いことなのだとはっきりしめして欲しい。猪木が作り上げたものが色ものの発表会と化しては絶対にいけないのだ。そうしないと大仁田は新日になくてはならない存在となりかねない。その時は新日が死ぬ日だ。毒をもって毒を制す、しからざれば新日は毒に死す、今が正念場だと私は考える。
「COOLさあ、どうしてJAZZを聴くようになったんだ?」
「そうだなあ、大学時代にジャズ研に入って、無理矢理聞かされているうちに・・・かな。」
「JAZZ以外の音楽も聴いたのか?」
「ほとんど聴いていないね。JAZZばっかり。」
「なんだ、お前、たまたま出会った音楽がJAZZで、それしか聴いていないのか。それじゃあ本当にJAZZが好きかどうかわからないじゃないか。世の中には他にもいっぱい、いい音楽があるんだぞ。俺はロックをよく聴くけど、JAZZだって、ポップスだって何だってたくさん聴いた。たくさん聴いた上で、今ロックを聴いているんだ。いろんな音楽のいいところをちゃんと知って、ロックがいいと言っているんだ。ストーンズ、クイーンがやっぱり最高だな。お前も一度しっかり聴いてみろ、考え方変わるぜ。」
「・・・いいよ。俺は。」
「だからお前は世界が狭くなるんだ。他に何にも聞かないでジャズが最高だなんていっている奴は信用できんな。ジャズしか知らないんだからな。だからジャズ好きは嫌いなんだ。もっと幅広く、自由に聴けよ・・・。」
「・・・・・・」
COOLはその時こう考えていた。
「あーあ、だからロック好きは嫌いなんだ。人にはそれぞれ出会いってもんがあるんだよ。俺はたまたま若い時からジャズと出会って、その魅力の虜になって、今に及んでは道まで踏み外して気合いいれてジャズバーやってんだからそれでいいじゃねえか。幅広く聴いているなんていうやつに限ってろくすっぽ何も聴いていなくて、環境が変われば音楽なんか捨てちまって、カラオケで満足しているやつが多いんだなあ。誤解を恐れずに言えばさあ、音楽は宗教に似ているんだなあ。例えばよう、生まれついたキリスト教徒に、仏教というすばらしい宗教がありますよっていくら真剣に説いたとしても、そりゃ素晴らしいことはわかるけれども俺は違うな・・・ってことになるじゃないか。俺はジャズ教の信者なんだからさあ、他の音楽の良さをいくら説かれてもピンとこないのよ、これが・・・・・・まあ、こいつにそんな話してもロック好きはさあ、まあROCK(石)と言うだけあって頭固いからさあ、わかんねえだろうなあ、音楽は宗教に似ているなんていったらきっと目くじらたてて反発するだろうなあ。ここはおとなしくしているか・・・・・・。」
「ところでCOOL、お前ビートルズは好きかい。」
「嫌いだよ。」
「なんだ、話合うじゃねえか。俺も大嫌いだ・・・仲良くしようぜ・・・。」
15年以上も前、私はこの曲を本当にいい曲だと思っていた。こんな恋愛には、確かに憧れていた。
♪・・・夕暮れの街角、のぞいた喫茶店 微笑み見つめ合う、見覚えある二人
あのこが急になぜか、きれいになったのは あなたとこんなふうに、会ってるからなのね
好きだったのよ、あなた、胸の奥でずっと もうすぐわたし、きっと、あなたを、ふりむかせる
気のないそぶりして、仲間に加わった テーブルをはさんで、あなたを熱く見た
あのこがふられたと、噂にきいたけど わたしは自分から、言い寄ったりしない
別の人がくれた、ラヴ・レター見せたり 偶然をよそおい、帰り道で待つわ
好きだったのよ、あなた、胸の奥でずっと もうすぐわたし、きっと、あなたを、ふりむかせる・・・♪
しかし・・・だ。時は過ぎ去ってすでに2000年だ。時代はいったいこの曲をどう評価するのだろう?
この歌詞に描かれる女は、喫茶店で微笑み、見つめ合う仲のいいカップルを窓越しに盗み見する。そして、あの女はこんなことしているんだから最近きれいになったに違いないと決め込み、いつか男に自分を振り向かせてやると心に誓うのだ。更になかなか振り向いてくれない男に対し、機会をみつけてはなにかと男を熱く見つめ、気をひいたという確信があっても決して自分から言い寄ったりしないかわりに、他人のラブレターまでみせつけ、あげくの果てには帰り道を待ち伏せし男を驚かすのだ・・・。
これは、一歩間違えれば、ストーカー行為である。2000年においては、犯罪に近い。
しかし当時は純愛だった。歌を作ったのはユーミンらしいが、この曲は大ヒットしたし、別に普通のラブ・ソングだった。私はお人形のようにきれいな石川ひとみに憧れた。おねえさんたちはこんな風に恋愛しているんだと思っていた。
時代の感覚はどんどん変っていく。私自信もまた然りだ。まちぶせ、は裁かれるべき行為なのか?ストーカーと純愛の差は、いったいどこにあるのだろうか。
ピカソの絵は難解・・・なのだろうか。
その昔、パブロ・ピカソは自分の芸術論をパリのカフェで闘わせていたそうだ。芸術論争、しかも舞台はパリ、うーんカッコイイねえ。しかしいったい何を話していたのだろう。ここはひとつ、彼に関する書物をひもとくことなく、彼の芸術論を想像してみようじゃないか。ピカソって、案外簡単なのかもしれないぜ。
左に、一枚の絵がある。
素人の落書きではない。れっきとしたピカソの絵だ。私はこれがピカソの本質を現す最もわかりやすいものの一つだと思う。
上の絵を書くのに費やした時間は数十秒だろう。その数秒という短さがポイントなのだ。
私は、技術と芸術の差はそこに人の魂が存在するかの違いだと考える。人の心をいかにそこに表現するか、人の心を芸術という創造物にぶちまけるテクニック、ピカソにとってそれはスピードだったと思う。
見た、聴いた、感じた、そうしたら、描くのだ。すぐ、描く。できるだけ速く、描くのである。速く描くことで、そこに命を吹き込むことができる。速く描くことで、魂が作品にのりうつる。つまり、絵画におけるLIVEの実践である。絵という範疇にありながら、彼はライブの迫力を表現するのに成功した。
瞬間的にものの本質を見抜き、自分というフィルターを通してそこに作品を一気に爆発させる。それがピカソの芸術論だと思う。瞬時に見抜くということを追求した時、そこにキュービズムが存在した。つまり、今見えたものだけが描くべきものの本質ではなかったということだ。溢れだす想像力をキャンバスにたたきこむ、結果として対象は歪み、パワーのかたまりとしてそこに描かれるのだ・・・。
・・・・・・はい、今日は勝手に書きました。ピカソに詳しい人、正解を教えてね。
「おす。」
「あ、おはようございます、COOLさん。あれえ・・・どうしちゃったんですかあ、スーツにネクタイなんて。」
「営業だよ、営業。」
そう、私は今ストリートジャズの資金集めのため、協賛企業探しに東奔西走している。バーテンのかたわらパソコン打って企画書をつくり、昔使った営業鞄に提案書を詰め、うちの会長といっしょに今日も企業訪問だ。営業時代の昔のカンは取り戻せるのか?さて、どんなもんだろう。
「パンフレットは一昨年が2000部、去年が3000部、今年は二日間に渡りますので計5000部作成します。来場者は約一万人を見込んでおり今年の広告宣伝効果はまあそれ相当、かなりのものが期待できると思います・・・しかしまあ、やはり、広告宣伝効果というよりも、ひとつこういうお祭りをいっしょにやってみていただけませんか、よろしくお願いします・・・よ。」
おっ、結構すらすらでてくるじゃんか。
「いやあ、また今年もきちゃいました。あの、まあなんというか、その・・・ねえ、お願いしたいなあ・・・ねえ・・・よろしくお願いします。」
なんだ、押しも効くジャンか。まだ俺、ぜんぜん営業いけるぞ、これ。
・・・
いや、その、楽しいのだ、一年に一度この時期営業するの。スーツ着てさあ。・・・それはですね・・・なんてしゃべるのね、これ、けっこうわくわくするわけよ、おれ、元営業マンだから。提案書説明するの、好きなんだな。さて、数字上げてやるぞ・・・。
授業中、妙にどきどきさせられることがあった。
最初は、音楽の時間に「四季の歌」を歌った時だった。この歌は小学4年の私には少々刺激がきつかった。その・・・「愛する」が歌えなかったのだ。愛する、だぜ、愛する。流行歌ならともかく授業でそんなこといえるか恥ずかしい・・・。♪はーるを あいする ひーとーわー・・・♪ となってしまう。まったくドキドキするぜ。しかし私は数日前からこの歌を音楽の時間に歌わなければならないことに気付いた瞬間から、好きな女の子にこの歌を歌っている状況を密かに想像して興奮していた。
それから、「若者たち」だった。なぜだかわからないがホームルームの時間、担任の先生の趣味で我々はこの歌を歌ってから学級会議を行った。この歌は歌詞が素晴らしかった。特にかっこいいのは2番だった。♪きみのーあのーひとはーー今はーもおーいないーーー空にーまたー日がのぼるとーきーー若者はーまたー歩きーはじめるーーー♪どう、空にまた日が昇るとき若者は歩きはじめるなんていかした台詞じゃねえか。私は四季の歌と違ってこの曲はなんか大人になった気持ちで、胸を張り上げて大声で歌った。「あのひと」なんてかっこいいのだ、一気に大人びた私は得意げになってこの歌を歌っていた。
そして、「翼をください」である。この曲、まあホントにロマンチックなんだな。♪・・・願いがかなうなら翼が欲しい・・・♪まあ思春期真っ只中の中坊時代だから、基本的にこの手のロマンチックな文句には弱いのだ。そしてこの曲がインチキというかスゲーのは曲の途中から8ビートになりやがるのだ。♪この大空に、翼をひろげ、飛んでいきたいよーーー♪あたりから8ビートになって歌に乗せられてしまう。8ビートというのはまったく強烈なのだ、授業でこんなのやっていいのかな・・・なんていい子の私はすこし反感を持ちながら、好きなあの子といっしょにこの歌を合唱することに無上の喜びを感じていたのだ。悲しみのない自由な空へ、あの子と二人で飛んでいく姿を勝手に想像していたんだなあ。
・・・いや、あのね、
こういうことって大切だと思うんだなあ。
うまく歌うことも、かっこ良く歌うこともいいけど。
やっぱ歌は思いさ。音楽はハートだよねえ。俺も忘れないようにせんと・・・。
いやあごめんね今日のコラムはちょっと長いよ。ラーメン屋で新聞よんでいたらアホな記事見つけてまったく頭にきたのだ。
文部省は、小中学生の社会性を育むためとして、来年度から全国すべての市町村に一個所づつモデル地区を定め、約50人ずつを一週間程度の奉仕体験合宿に参加させるという。よくよくはすべての学生にこれを適用するという方針らしい。
そしていったいなにを奉仕させるのかと思えば、福祉施設での高齢者介護、農作業、清掃活動といったものだ。要は教師のがちがちの管理のもと、学生を林間学校のように閉じ込め、強制労働させてレポートをとって子供らに反省文をかかせて、教師がそれを見て喜ぶというまったく従来どおりの暇つぶし企画である。
私は本当に疑問だが・・・
本当にそんなことで、子供の社会性が育つと考えているのか?
あのさ、文部省、お前ら官僚はそうやって社会性を得てきたのか今まで?
この話には大きな疑問点が2つある。
一つは、子供の社会性を養うのに、なぜ子供を社会に出そうとしないのか。
もう一つは、なぜ奉仕活動を強制するのか。
いいか、子供の社会性を養うのに最もいい方法は、子供を社会に出すことなのだ。それは、まったく当たり前のことだ。どこだかわからんところに閉じ込めて、教師がそれを管理して、強制労働させて、いったいどうやって社会性を身につけろというんだよ?お前らのいう社会性っていったいどういうことなんだ?学校、PTA、教育委員会のがんじがらめの従来の枠の中で社会性なんてことをかたろうとするからそういうみじめな発想しかでてこんのだ。くだらない企画を考えるより、子供が社会に出ることをちっと認めてやればそれで済む話じゃあないか。子供の私生活を学校はがたがた言わない、社会性なんてのはそれで充分養われるのよ。
それから奉仕活動を強制するのは本末転倒もはなはだしい話。ボランティア(自発的)だから奉仕なのだ。したい、という子供の心が一番重要。そうした心の中から、大切なものがすこしづつ芽生えはじめる。
私が不思議に思うのは、文部省が「奉仕」というと高齢者介護であるとか農作業とか、いたく暗くてたいへんそうなものばかりはんでついたように出てくるのだ。これはいったいどうしたことなのだろうか。まったくやつらはお勉強と重労働が好きな人種だなあと思う。
あのな底抜けに楽しい奉仕活動だっていくらでもあるんだぜ。例えば地元のお祭りに参加することだって立派なボランティアだ。小さなお祭り一つをとったって開催までには結構苦労するんだよ。お祭りのポスターをはり、ビラを配って宣伝する。会場を組み立てるには許可をとり、電気の配線だって必要。当日は積極的に踊って祭りをもりあげ、ビールやホットドッグを売って資金をかせぐ。みこしは自らかついでもりあがる・・・そんなことだって立派なボランティアだし、楽しみの中に社会の中で大切なことがいくらもかくれているのだ。
まあ例えば、祭りに参加しながらさあ、大の大人たちがこんな一円にもならないことに一生懸命になって、狂ったようにみこしをかつぎ踊り狂う姿をみて、そこに神の姿を見ることだってあるだろう。神の強大な意志が人々を動かしていることに気付くときがあるかもしれない。祭りに参加するということは、実は信仰心を養う上で大変重要なことなのだ。ボランティア活動を通じて、人は神の存在だって知ることができる。それはすべて、自発的な心の中に芽生えるものであるのだ。
祭りは地元のお祭りだけではない。数々のNPO(非営利組織)団体が企画する面白いものだっていっぱいある。ロックフェスティバルだって、大道芸ワールドカップだって、はたまた俺達のストリートジャズだってすべてボランティア活動だ。そんな数々の選択肢から子供たちに好き勝手選ばせればそれでいいじゃないか。きっと大切なことを学ぶと思うぜ。それなのに、ああそれなのに・・だ。文部省は老人介護だ、農作業だ、清掃だ、自分たちだってろくすっぽやったことないものを無理矢理えらばせカンズメ管理して強制労働だ。
お前らさあ、本当にボランティア活動の楽しさを知っているのか?それともスゲー聖人君主なのか?学生閉じ込めて楽しいか?俺に言わせりゃ奉仕活動の恩恵を全く受けたことがないやつらが企画考えるとこういうものしかでてこんのだ。
まあこのままじゃあ、林間学校の閉塞的な状況の中で、性欲がもりあがちゃったH教師が生徒を襲う事件でもおきて問題になって、すべておわるだろうな。なんで官僚の発想はここまで貧困なんだ・・・。
いいか、文部省、子供を強制労働させる前にもう一度考えろ。
社会性は地域社会の中で育まれるのだ。子供を閉じ込めるようなことはするな。
奉仕を強制するな。それにはもっと楽しい企画を子供たちに選ばせろ。
学校とPTAと教育委員会はNPOにもっと理解をしめせ。子供たちをどんどん参加させろ。
たのむよほんとに。このままじゃああたしゃ情けなくて・・・もう一度考え直してみてよ・・・。
クラブとかいうダンスホールでキュッキュキュッキュ円盤回しているやつをいつからD Jなんて呼ぶようになったんだ?
話によると、ずいぶんもてるそうじゃあねえか。しかし俺は認めねえぞ。
お前ら、楽器演奏できるのか?え?それとも歌、歌えるのか?・・・んじゃあ曲作れるのか?どうなんだよ。
結局レコードかけてるだけじゃあねえか、音楽やってる気になるなよ、そんなんで。
・・・・・・
いいか、D Jっていうのはなあ・・・俺がほんとのD J教えてやる。
それはなあ、
お葉書紹介するんだよ。「それでは、次のお葉書・・・ペンネームお口の恋人さんからです・・・」とかな。
お葉書紹介してなんぼのD Jだろう。悔しかったらリクエストかけてみろよ、リクエスト。
D Jってディスクジョッキーじゃあねえのかい。土井マサル、知ってるか?オールナイトニッポン、知ってるだろうな。ミッドナイトストーリーにはずいぶん興奮したぜ。悪の十字架の話、ひぇー・・・このデパート、開くの十時か?とか・・・笑えよこのやろ。俺あ20年前の深夜放送ネタつかっていまだにカウンターでうけとっているんだからさあ、お前等もみならえよD Jたちよう・・・。「それでは次のお葉書・・・」とかやってみろよ、そうしたら認めてやるさ。
むかし売れたのだ。マーフィーの法則。久しぶりに喫茶店で見かけたもんで。
こんなもん、当然法則でもなんでもないけど、日常生活の上で、「あれっ?」と思うことはやっぱりあるし、そんなものを発見するとすこおし得意げにもなれるのだ。
最近発見したのはこんなものかな・・・。
・新幹線の車内販売で回ってくる売り子の女性の、足は太い。
この件に関して異論はあるだろうか?売り子が回ってくると、ちょっと期待するのだ。疲れてるし、まあマニアにゃあそそる制服着てるし、さてどんな子だろうとチラと足元から盗み見すると・・・太いのだ、まず、まいるな。この会社は足の太さで採用しているんじゃないかと疑問を抱かせるほど太い。まあ別に何の問題もないんだけどさ・・・これって個人攻撃かな?
・リモコンは、欲しいものが出てこない。
いや、その、TVみたいな、と思うとエアコンとビデオのリモコンはすぐ見つかるのだけれどもTVのは見つからない。さて、エアコン切って寝るかな、と思うとTVとビデオとCDのリモコンがごろごろしていてエアコンのが見つからないのだ。そのため私は一回切った明かりを再びつけなおしてリモコンを探すことがよくある。まあ、使ったものをもとの位置に戻さない、私が悪いんだけれどね。
・小さなミスは再発を防止できるが、大きな失敗は必ず繰り返す。
いや、これもよく思うのだけれども、この前も私の知り合いでさあ、麻雀で身を滅ぼした人がいて、財産はなくなり家庭は崩壊して一家離散し、離婚して夜逃げまでして一人ひっそりと暮らしていた男がさあ、「商売始めた」というから何を始めたんだと聴くと、「雀荘」というんだなあ。結局足を洗うことなんてできやしない。バカだよまったく。いや、この話、笑えなくてね、俺だって今じゃあジャズバーやってまあちっとはうまくいっているけど、これがうまくいかなくなってつぶれちまったら世間的には、「結局あいつはジャズにのめっちまったからなあ・・・。」ってことになるじゃない。しかしそれじゃあジャズから足を洗えるかといえばそんなの不可能だし、またいつか身をたててやるぞい、と心に誓うに決まっているんだな。結局何度失敗したって懲りないんだなあきっと。賢く生きるなんて不可能なんだよ。
・・・と、いうことでこんなの法則でもなんでもないのだ。ちょっと気になっただけですぜい。
「ストライーク! アウト!」
「ちょっとまってよ、今のはボールでしょ、きびしいなあ。」
「・・・じゃあ、ボールにしとく?」
「そうだな、そうしてもらえるとな、やっぱビールもうまくなるわな、たのむよ。」
「よし、じゃあいいね、ボールだ。いいね・・・よし・・・もう一球だけいこ、はい! ・・・・・・ ボール・ん?フォワボール!」
「まてよ今のはストライクしょ。審判それはちょっと厳しいんじゃないの・・・あんたもなあいちいち見逃すなよなあまったく。一球余分なんだからさあ。」
「どうするか・・・」
「・・・」
「・・・」
「よし、もう一球だけやってみよ、それではっきりしようじゃねえか。ピッチャーは真ん中なげる、バッターは打つ。それでいいね。よしいくぞもう一球・・・はい・・・よしきた・・・ ・・・ ・・・ん?お、おい・・・。」
・・・
「三振だ、おれは三振。さあチェンジチェンジ・・・苦労かけたな、おつかれさん。」
いやーこのHPもおかげさまでなんと20000HITを達成したのだ。1998/9/30からだから約2年間で20000HIT、なかなかじゃないの。よくやったねえ。
まあ、いろんなことを書いて、いろんなことがありました。たとえば・・・あんなこととか、こんなこととか・・・。
DOTCOOLも10周年を迎えて、みんなで楽しくパーティーしました。
紙のないトイレに遭遇した場合どうすればよいのか、議論沸騰、意外な意見もあり盛り上がりました。
自治体営業について書いたら、県庁の人に、「あれコピーしてみんなで読みましたよ。」と言われてドキッとしたなあ。
インベーダの思い出話は、いまだに、「おもしろいね。」と言われます。
税金、年金や、教育問題。結構議論が沸騰しました。やっぱり切実なことだからね、みんな関心が高いのは当然なんだろうね。
わすれちゃいけない格闘技、バーチャルな世界にとどまらず一言言いたいお客様はいつでもお店で思いの丈を語って下さい。
「初恋」は長いシリーズでしたが、いいねと言っていただけることが多く感謝しております。
センター試験、国語の問題文批判をしましたがあちらこちらから意見が飛び交いこれは私にとってもすごく有意義なことでした。
コピーライターの糸井重里氏が日経ナビ4月号でこのHPを紹介してくださってびっくり。いやーうれしかったのだ。
・・・
・・・
そういえば名作「沈黙の艦隊」で、主人公海江田の名言があったなあ、「世界は海から考えた方がよい。」 そして夜の世界の住人、バーテンダーは世界を夜から考えているのですね。とてもいいこととは思えませんが、ちっと話が面白いと思ったら、それは夜のおかげだと思っていただいてきっと間違いないでしょう。さて、今後とも皆さんよろしくおねがいしまーす。