店の時計が午後7時15分を差した頃、陽子さんが先に現れた。
僕は急いで陽子さんの元に駆け寄った。
「陽子さん! わかりました!」
「え? 本当? じゃあやっぱり何か仕掛けがあったのね?」
「ええ、ありましたよ。 ビデオ画面には映らない、魔法のトリックが!」
「えっ、それって、なあに?」
「これですよ。 これ」
僕はそう言いながら水滴の付いた水差しを陽子さんの前に差し出した。
「……この水差しがどうしたって言うの?」
「ええ、思い出してもらいたいのですが、ビデオの中の水差しとこの手元にある水差しの違いはなんでしょう?」
「……高いか高くないか?」
「違いますよ。 見た目です、み、た、め」
「見た目……これは表面湿ってるわね……水でもこぼしたのかし……あっ、『結露』ね? でもあのビデオ中の水差しにはそんな物はなかった。 ステンレス面がちゃんとしていたのがその証拠ね?」
「ピンポーン。 大正解です。 結露が付いていれば気づきますよね? では何故なんでしょうか?」
「……この場合の結露原因からすると……『温度差がなかった』からね?」
「これまた大正解。 結露は水分があるところでなおかつ温度差がかなりあるのが絶対条件です。 海上に水分がないわけはありませんね? 従って正解は、陽子さんの言った通り外気温と温度差があまりなかったからです」
「で、それがどうつながるのよ?」
陽子さんは眉をひそめる。
「アレ? まだわかりませんか? じゃあ後は星川さんが来てからにしましょう……」
「なんでー?」
陽子さんはだだっ子のように尋ねる。
「ほら、そうこうしているうちに……」
僕はドアの方を指さした。
ドアに女性の陰らしい人影が立っている。
一拍の間があった後、そ立っていた陰は店のドアを開けた。
 カランコロンカラン。
「いらっしゃいませ。 お待ちしていました」
僕は軽く会釈した。
 星川さんも軽く頭を垂れる。
星川さんは体つきはビデオ中と変わらなかったが、表情はビデオより現物の方が何倍もかわいらしく見えた。
「……閉店間際なので、飲み物がアイスコーヒーしかできませんが、よろしいですね?」
僕はなかば強引にそう言い切る。
「え、あ、はい……」
ガラスのようなその小さくてかわいらしい声は、一昔前のアイドルを思い出させる。
「承知しました……では窓際の席でおかけになってお待ち下さい」
 深々と頭を下げた後、僕はコーヒを入れるべくカウンターに向かう。
(僕の推理が正しければ、彼女はこれで反応するはずだ……)
手際よくアイスコーヒーを3つグラスに注ぎ、可愛らしいかごに入れたスキムミルクとガム・シロップをお盆にのせて席へと移動した。
「……お待たせしました。 こちらです」
おのおのの前にグラスを置くと僕はそのまま陽子さんの横に腰掛ける。
 陽子さんは早速グラスを持ちストローで飲みはじめたが、星川さんはいっこうに飲もうとしない。
「……表、暑かったでしょう? 冷たいうちにどうぞ」
僕は星川さんの方を見ながら丁寧な口調で勧めた。
 ようやっと星川さんはコーヒーに手を伸ばすかと思いきや、ガムシロップに手が伸びた。
ガムシロップを2つ取るとおもむろにグラスに入れてからやっと飲みはじめる。
「星川さん、結構『甘党』なんですね?」
「……ええ、コーヒーは特にこれがないと苦くて美味しくは感じません」
弱々しい声だが、しっかりとした口調だった。
「なるほど。 『コーヒーにはかかせない物』と言うわけですね?」
僕は星川さんをまっすぐ見つめる。
「ええ、そうなりますね」
まっすぐに彼女は僕を見つめ返す。
彼女のそのつぶらな瞳に吸い込まれるような錯覚を感じたが、僕は質問を続ける。
「話は変わりますが、あの薬師寺兄弟の所有するクルーザーありますね?」
「ええ、この前使われた物でしたら存じ上げておりますが……」
「そのクルーザー、乗られたのは過去に何回かありませんか?」
「え? 回数ですか? あの一度きりですが……」
 この質問は面食らったようで、驚いた表情を浮かべている。
「……本当ですか?」
 僕は彼女から目を離さずに尋ねた。
「………はい。 間違いありません」
よどみのないはっきりした声で答える。
「……最後の質問です。 あなたは孝一さんを愛せそうですか?」
この僕の質問は陽子さんが今度は面食らったようだ。
「なっ、浩二君。 なんて言う質問するの? 星川さんに失礼じゃない?」
「いえ、大事なことなんです。 いかかですか星川さん」
「……あれだけの決意で私とのお付き合いを考えてらっしゃる方です。 私はその気持ちに心が動かされました。 ですから、愛していけると思います」
 星川さんはまっすぐ気丈な態度でそう答える。
「……では、僕の申し上げられる答えはただひとつです」
僕は一呼吸おいてから結論を以下のように述べた。

「この決闘に不正行為はまったくありませんでした」

 星川さんが僕に深々とお辞儀をしてかなん亭を出ていき、僕と陽子さんだけが残った。
「……浩二君。どうしてトリックのこと何も言わなかったの?」
不服そうに陽子さんは僕に尋ねる。
「いいじゃないですか、陽子さん。 僕がどれだけ正論を言おうが、トリックを完全に暴こうが、決して彼女自信の決意は変わりません。 だったら気持ちよく二人の門出を祝ってあげようじゃないですか」
 僕はそう言ってからアイスコーヒをすするようにして飲んだ。
「でも、私は納得できない。 トリックが解決してないもの」
 なるほど、至極ごもっとも。
「お願いだから、カクテルを判別した方法だけでも教えて」
「別に教えないわけではありませんが、答え言ってもいいですか?」
 僕は確認するように尋ねる。
陽子さんは黙って頷く。
「それはね、『温度差』で見分けたんですよ」
「温度差?」
「そう、温度差です。 さっき話したように下剤を溶いた水差し内の水は冷たい氷水ではなく、すでに室温と同化してしまってました。 夏の海上でも35〜40度近く外気温があったでしょう。いわば『ぬるま湯』だった事になります」
「ふんふん」
陽子さんは頷きながら聞き入っている。
「かたやカクテルに加えられたガムシロップは、おそらく冷蔵庫の中から出されたばかり。だいたい4度程度の液体です。 さてこうなると混ぜられたカクテルが同温だとすると、同じように作られたわけですから同一温度で、氷の中に入っていたわけですからだいたい0度前後ですが、どれだけの温度差になるでしょうか?」
「???」
陽子さんはあれこれ計算しているようだが、時間が勿体ない。
「だいたい5〜10度前後の差になります。 こうなってしまっては人間の手にかかればすぐに判別できます。三男の提案、というか仕組んだトリックを逆手にとって『日の当たる場所』に移動する際、両手でしっかりと長男はグラスを持ってましたね。 温度差があれば一発でわかります。 今回は長男が右手に持ったグラスが安全なグラスだったわけですが……後はマジシャンズ・セレクトを使って自分は一番冷たいカクテルを手にするだけです」
「なるほど! それでカクテル自体の見た目じゃわからなかったのね」
陽子さんは感心したようにそう言った。
「そうですね。 家庭用ビデオカメラには温度差を記録するような装置は付いてませんからね」
 再びアイスコーヒーをすする。
「三男の使おうとしていたトリックていうのは?」
「ああ、そっちはもっと古典的な方。 アイ・コンタクトとグラスに印を付ける方法」
「具体的に説明して。 お、ね、が、い」
陽子さんにお願いされると僕も弱い。
「それは……んー星川さんと三男はあらかじめ打ち合わせをしていたんです。 星川さんが何らかのサインを三男に送って読みとるやつ。 例えば安全なカクテルがどこか星川さんが知っていたら目を決まった回数瞬きするとか、声に出して別のメッセージを送るものとかいろいろあります。 印の方は、あるポイントにきずなり色を付けてしまう」んですよ。 目立たないのはグラスの底とか縁の部分、側面には日光にさらすとキラキラ輝く特殊な塗料を塗るなんていう方法もあります」
「へえ、そんなにあるんだ」
「マジシャンは手換え品換え大変ですね。 で、それらすべて長男は見切っていましたね。 星川さんを部屋から遠ざけ、3人でもう一度カクテルをシャッフルしたり、挙げ句の果てには、特殊塗料のついたグラスまで拭いてるんですからね」
「え、なんでわかるの?」
陽子さんは不思議そうに尋ねる。
「本来は違う目的で拭いたのかもしれませんけど、カクテルグラス、結露付いてませんでしたね?」
「ああそうか。 温度差があるんだからカクテルグラスに本来は水滴が大量になければいけなかったってこと?」
「その通り。 それを悟られないように最初のシャッフルの時、自分のハンカチでそれらを一回拭っているんじゃないかな? だから1番目に名乗りを上げた」
「2番、3番だと結露がどうなってるか確認出来ないもんね」
「そう、あまりにもひどいようだとそれだけで他の二人に安全なカクテルを教えているようなものだし、自分の仕掛けもばれるきっかけになりかねない」
「本当に用意周到なのね」
「想像が当たっていたとすれば、孝一さんの凄いところなのかもね」
ずっと喋ってたので喉が渇いてしまう。
ストローで飲むのももどかしく直接飲むとアイスコーヒーが一気に底をついてしまった。
「と言うことで、今回は孝一の単独犯と言うことになりそうね」
陽子さんのアイスコーヒーも底をつく。
 僕は二人のグラスを持ってカウンターに行く。
おかわりを用意するためだ。
「これが違うんです」
 僕はグラスに氷を足しながら言った。
「え? じゃあ『共犯』がいるってこと? 誰? やっぱり星川さん?」
 僕は両手にアイスコーヒーを持ったまま片手で陽子さんを指さしながら頷く。
テーブルに2杯目のアイスコーヒーを置いてから、
「あれは、男と星川さんが仕組んではじめて出来たトリックですよ」
僕は陽子さんの方を向きながら答える。
「どうやって?」
「いいですか、長男が単独犯ではなく、星川さんとグルだったという事を証明する鍵はあります。 『なんで星川さんはガムシロップが冷蔵庫の中にあること』がわかったのでしょうか?」
「あ、ええと。 それは自分で……出すわけないな。 星川さん本来ならゲストだもんね」
「そう、そこです。 でも知っていた。 はじめて乗って、しかも薬師寺家自家用クルーザーなのにです」
僕はアイスコーヒに口を付けるため言葉を切る。
「しかも丸テーブルの上には、ガムシロップが出ていたはずです。 こんな感じのかごに入って」
僕はそのかごを持ち上げながら言った。
「星川さん自分で『甘党』だと言ってました。 自分たちの前でも入れてました。 しかも2つ……」
ガムシロップを1つつまみ上げながら僕は続ける。
「ビデオの中でも4人でアイスコーヒーを飲んでいるところがありました。 星川さんも飲んでます。 おそらく目の前のかごに入ったガムシロップも使っていることでしょう。 でも、星川さんは長男に『ガムシロップを持ってきてくれ』と言われたとき、手近で、自分が一度使ったはずのガムシロップの存在を忘れ、まだあるかどうか確認をしてない冷蔵庫に真っ先に向かいました。 当然さっき説明した通り、温度差を使ったトリックなわけですからテーブルの上の温まった物は使えませんものね。それに普通は、他人の家の冷蔵庫を開けるのは結構抵抗があるものですが、彼女は躊躇しないで開け、それを持ってきました。  だから真っ先にこれはあらかじめ何らかの理由でそれらを『知っていた』ことの証明だと僕は思います」
「じゃあなんでそれを彼女に言わなかったの?」
「……彼女は僕に嘘をつきました。 心底解決を望むなら決してそれはあり得ません。 つまり彼女は、僕に『解決することは望んでいない』ことになります。 だから僕はその要望に応えただけです。 それが道徳的には間違っているようでも僕はこの選択、間違ったとは思いません」
 僕はそう言いきるとアイスコーヒーを一気に飲み干した。
 苦くて、少し寂しいアイスコーヒーを……。


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